メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

2章:まほろばの楽園と、泡沫の寵愛 - 5 -

 まほろばの精霊界ハーレイスフィア
 宝石のような世界樹宮の奥深く、宛がわれた私室で、オフィーリアは読書にふけっていた。
 ここへきてからというもの、オフィーリアは図書室と私室の往復しかしていない。誰かと口を利くのも煩わしくて、本を借りた後は、もっぱら部屋に引きこもって過ごしている。
 射光が斜めに入り込む瀟洒な部屋に、はらり、紙を捲る音がする。半分開いた硝子窓から、時折、涼しげな葉擦れの音が聞こえていた。
 本を閉じて、オフィーリアは軽く眉間を揉んだ。
 もう何冊か古い書物を紐解いているが、魔法を解く鍵は未だ見つからない。
 次の本を取ろうとしたところで、寡黙な召使が精霊王の来訪を告げた。
 途端に気が重くなり、小さなため息が零れてしまう。
 彼がこうして訪ねてくるのは、これが初めてのことではない。何をするでもなく、ご機嫌伺いにやってくるのだ。
 社交を避けて部屋に閉じこもっていても、精霊界の頂点に立つ、主君の訪れを拒むわけにはいかない。
 フードを目深に被ると、鉛のように重い身体を動かして、扉を開いた。

「こんにちは、オフィーリア」

 光芒の射す神々しい美貌をそっと仰ぎ、オフィーリアはぎこちなくお辞儀をした。

「我が君、ご機嫌麗しく……」

 相変わらずのやぼったい恰好を見て、アシュレイは宝石のような青い瞳を優しく細めた。オフィーリアが跪こうとする前に、腕をとって抱き寄せる。
 会う度に跪こうとする姿を見かねて、いつしかアシュレイは何もいわずに抱きしめるようになった。その親密すぎる仕草に、オフィーリアは未だに慣れない。

「あの……」

 良心の呵責かしゃくに苛まれながら、やんわり抱擁を拒むと、アシュレイはようやく身体を離した。

「あまり、触れない方が……」

 一応、綺麗な水で身体を拭いたり、古ぼけた衣装を洗ってはいるが、光り輝くアシュレイに触れられることに抵抗を感じる。

「部屋にあるものは、何でも自由に使っていいと申しましたのに」

「……」

「遠慮は無用ですよ」

 残念そうな口ぶりに、オフィーリアは気まずげに顔を俯けた。
 遠慮ではないのだ。気兼ねなくここを出ていけるように、与えられるものを何一つ受け取りたくないだけだ。
 それに、用意された衣装は肩の出る縫製で、鱗の散った肌を気にするオフィーリアには敷居が高過ぎる。

「ついさっき、ロザリアが霧の谷へ辿り着いたと知らせがありましたよ。順調なようですね」

 ロザリアの名を聞いて、オフィーリアは反射的に顔を上げた。

「もし機会がありましたら、どうか気をつけて、とロゼにお伝えください」

「約束しましょう。彼女は力ある精霊です。心配せずとも、無事に戻ってくるでしょう」

「はい……」

「貴方は本当に、ロザリアのことが好きなのですね」

 間髪入れずに頷くと、羨ましい、と信じられないような言葉をアシュレイは口にした。
 魔法にかけられていると知っていても、この美しい天下始祖精霊マナ・マク・リールが、オフィーリアに愛を示す姿は何度見ても我が瞳を疑ってしまう。

(覚悟しておかなくちゃ……)

 彼の瞳から熱が失せた時、再び嫌悪の瞳でオフィーリアを見るだろう。今度こそ、厳しく罰せられるかもしれない。
 魔法を解く時は、ここを出ていく時だ。
 精霊界でも地上でもいい。ロザリアと一緒にいられるのなら、どんな不慣れな場所でも構わない。その時の為に、魔法を解く言葉を探しておかねばならなかった。
 そうして、世界樹宮で過ごす時間の殆どを、オフィーリアは読書に費やした。
 中でも精霊王が地上ハロビアンを空と海に隔てた、審判の日を記した年代記クロニクルは、眼を皿のようにして文字を追い駆けた。
 読み終えた本が、幾冊も積み重なってゆく。
 その日、図書室の書棚の前で、オフィーリアは立ったまま、本を開いていた。
 古い知識の綴られた書物を読み耽っていると、紙面に影が射した。顔を上げると、美貌の精霊王と瞳が合う。

「我が君!」

 眼を見開くオフィーリアを見つめて、アシュレイは困ったように苦笑を零した。

「そんなに驚かないでください」

「申し訳ありません」

「ずっと目の前にいたのに、あなたときたら、少しも気付いてくださらない。そんな一途な視線を、私にも向けてくださったらいいのに」

 冗談を装った気安い口調ではあるが、言葉に甘さが含まれている。
 反応に困ったオフィーリアが俯くと、アシュレイは宥めるように肩を撫でた。

「……っ」

 布の上を指先が滑っただけなのに、大袈裟なほど肩が撥ねた。恥ずかしくて増々俯くと、指先は気まぐれに布の上から、鎖骨をなぞる。石になった境地で耐えていると、指は何度か行き来し、やがて名残惜しそうに離れていった。

「……何を熱心に読んでいたのですか?」

 素直に応えて良いものか、瞳を見つめたまま逡巡した。珍しく逸らされない視線に、アシュレイは嬉しそうに眼差しを和らげている。

「魔法を解く方法を、探しておりました」

「何か判りましたか?」

「いえ……」

「あまり思いつめては、気が重くなりますよ。少し外を歩きませんか?」

「私は――」

 断りかけたオフィーリアの唇に人差し指を押し当て、アシュレイは拒絶の言葉を黙らせた。手を引いて、半ば強引に水上庭園へ連れ出す。
 こうなっては、諦めるしかない……
 世にも高貴な精霊王に手を引かれ、オフィーリアは床ばかり見つめて歩いた。