メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

2章:まほろばの楽園と、泡沫の寵愛 - 13 -

 陰惨な空気が、辺りに満ちた。
 逃げねばと思うが、針のような視線に射抜かれ、身体は麻痺してしまったように動かない。

「そんなにも、私の隣に立つのが嫌ですか?」

「そのようなことは……お許しください、我が君」

 己の迂闊さを呪い、オフィーリアは瑠璃色の釣鐘花ムスカリのように青褪めて、俯いた。

「忠誠が欲しいのではありません。俯かずに、私を見て欲しいのに……」

「……」

 いつものように、沈黙が流れた。
 細かく肩を震わせるオフィーリアを見て、アシュレイは哀しげに溜息をついた。
 溢れる想いは、欠片も伝わらない。告げても、困らせることしかできないというのは虚しいものだ。
 森羅万象の英知を備えていても、唯一、恋い慕う者の心を得られない。

「求めているのは、私だけ。傍にいても、貴方はいつでも遠くを見つめている」

 想うのは自分ばかり。この先も、変わらないのだろうかと思うと、つい恨みがましい口調になった。

「……申し訳ありません」

「否定もしてくださらない」

 愁嘆に堕ちかけ、アシュレイは瞑目した。
 言外に責められ、オフィーリアは俯いた。
 互いに、沈んだ表情を浮かべている。
 気まずそうに視線を落とす様子を見て、アシュレイの心は翳った。いつまで経っても、判り合えない。想いが深まるほどに、距離は開いていくように思う……

「どうすれば、貴方はほほえんでくれますか?」

 さっきは、あんなにも気安い口調で話していたのに。他の者に、たやすく笑みかけるオフィーリアを、憎らしくすら思う。
 責めたてたい気持ちの一方で、アシュレイはこの状況を冷静に俯瞰していた。
 本当は判っているのだ。
 臆病なオフィーリアは、魔法をかけた故に、いくらアシュレイが想いを伝えても信用できず、疑念が先立つことを。
 この状況を打破するには、たった一つしかない。
 魔法を解くのだ。
 その上で、改めて許しを請う。その時こそ、彼女の信頼を得られるだろう。真っ直ぐにこちらを見て、名を呼んでくれる気がする。
 しかし――
 魔法が解けた時、この想いがどう変わるのか、アシュレイ自身にも想像がつかなかった。
 双子姉の霊気は、アシュレイの支配域外にある。解呪にどんな作用があるのか、その時になってみなければ判らないのだ。
 だから、健気に解呪を探すオフィーリアを見ながら、協力できなかった。
 オフィーリアが想像する通りに、心変わりをしてしまったら?
 最悪だ。この上なく、彼女を苦しめることになる。
 それに――
 満ち足りた恋を手放すことが、恐い。
 枯れた心が潤うように、甘い蜜を知ってしまったのに、気持ちが冷めて、無感動な元の自分に戻ってしまったら……
 だが、恐れていても事態は変わらない。このままでは、永久にオフィーリアの心は手に入らない。
 力でねじ伏せることは造作もないが、そうはしたくない。したくないのだ……
 自分でも矛盾を感じるが、精霊王としての立場や、魔法の類ではなく、あるがままのオフィーリアの心が欲しかった。
 偽らない、彼女の真の心でアシュレイを見て欲しい。傍にいてほしい。
 そう願うのなら、どれだけ甘美であっても、この魔法を手放すべきなのだろう。

「魔法を解きましょう」

 ゆっくりオフィーリアの手を引いて立たせながら、アシュレイは覚悟を決めて告げた。

「……本当に?」

「……魔法が解けても、この想いが変わらなければ、私の想いを認めてくださいませんか?」

「……」

「貴方は私の全き霊感の源。たとえようのないほど、甘美な存在なのです。想うだけでも幸せですが、願わくば、想われたい……」

 臆病なオフィーリアにしては、視線を逸らさずにアシュレイを見つめた。心を覗くように、青い瞳をじっと見つめる。

「頷いては、いただけませんか?」

 愛する者の瞳に映る喜びを噛みしめながら、アシュレイは静かに呼びかけた。

「……はい」

 ぎこちなく頷く様子を見て、悲壮な影を落としていた端正な顔に、安堵の色が射す。
 花が綻ぶような変化を目の当たりにしながら、オフィーリアは、途方もない矛盾の念に駆られた。
 彼は気付いているのだろうか?
 魔法が解けた時、その願いは儚く消えるということを。
 泡沫の夢なのだ。
 魔法が解ければ、胸を焦がす愛が幻であると知るだろう。
 そして、負の感情を思い出すのだ。
 最初に見せた、繕いのない蔑みを孕んだ瞳。あの視線こそ、彼の本心の全てだ。
 魔法が解ければ、全てが終わる。
 愛を囁くどころか、今度こそ不敬罪で首を刎ねられるかもしれない。

「浮かない顔ですね」

 気遣うように声をかけられて、オフィーリアは顔を上げた。

「申し訳ありません」

 震える唇から、力ない謝罪が零れ落ちる。アシュレイは気遣うようにほほえんだ。

「何も謝る必要はありませんよ」

「……」

「アンジェラも、薔薇際には姿を見せるといっています。その時、解呪を訊き出し、この魔法を解きましょう」

「はい……」

「何か、問題でも?」

「……その、私も、薔薇祭に出ないと、いけませんか?」

 恐る恐る切り出すと、アシュレイは思案気な眼差しを向けた。

「貴方は、アンジェラに会いたいだろうと思ったのですが……」

「そうなのですが……できれば、人目のないところで、幽玄の君にお会いするわけにはいかないでしょうか?」

「ぜひ、眼にも彩な祭典を見て頂きたいのですが……周囲の視線が気になりますか?」

「はい」

 申し訳なく思いながら頷くと、アシュレイは閃きを瞳に点して微笑んだ。

「でしたら、仮面をつけるというのはいかがでしょう?」

「仮面?」

「はい。誰か判らないように、出席する全ての者に仮面をつけさせます」

「それでは、皆が困るのでは……?」

「心配入りませんよ。彼等は面白いことが大好きですから。嬉々として仮装を楽しむでしょう」

 なかなか、良い考えかもしれない。アンジェラに会う為に参加せざるをえないのなら、素顔を晒す憂鬱は少ない方がいい。
 控えめに微笑むと、嬉しそうにアシュレイは破顔した。

「ようやく笑ってくださった」

「あ」

「隠さないで」

 俯く間もなく、おとがいを掬われ、上向かされた。甘い眼差しに見つめられて、所在なげにオフィーリアは視線を彷徨わせた。

「薔薇際の衣装は、私に用意させてくださいね」

「え?」

「揃いの仮面をつけましょう。貴方にはきっと、目立つ華美さより、控えめで可憐な姿が似合う。私に、選ぶ楽しみを与えてください」

 応えあぐねて見つめていると、青い瞳に静かに熱が灯った。

「……口づけても良いですか?」

「ッ!?」

 虚を突かれた後、オフィーリアは慌てて首を左右に振った。
 必死な様子がおかしかったのか、アシュレイは楽しげに声を上げて笑う。
 水晶のような笑声に心を奪われていると、掠めるように頬に口づけられた。