メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

2章:まほろばの楽園と、泡沫の寵愛 - 10 -

 世界樹宮の庭園の外れ。
 金香木チャンパックが香る、静謐な夜。天鵞絨びろうどの暗闇には、数多の星が散っている。
 黒々とした草原は、そのまま夜に続いていた。
 巨岩の連なりを乗り越えて、オフィーリアは辺りを見渡した。今宵も誰もいない……
 ここには、美しい泉があるのだが、巨岩の連なりの奥にあるせいか、他の精霊はやってこない。
 視線を気にせず、静かに休める場所を探して、ようやく見つけたのだ。
 泉に近寄ると、水面を覗き込んだ。醜い姿を厭わしく思いながら、ため息を落とす。
 美しい精霊王の治める世界。光り輝く世界樹宮、妖精エルフ古代精霊ティタニア、聖獣達……オフィーリアだけが醜い。
 顔の造りは仕方ないにしても、せめて綺麗な肌に生まれたかった。人魚の背ひれがなくてもいい。顔に散った鱗がなければ、顔を上げて過ごせたかもしれない。精霊界は無理としても、人里へ下りれたかもしれない。
 落胆しながら、清らかな泉に身体を沈めた。
 人魚のように尾ひれはないが、水の属性であるオフィーリアは、水の中にいると安らぎを覚えた。
 低い声で、哀調の歌を口ずさむ。夜風に梢が揺れて、音色に深みを増した。
 気付けば、小さな妖精が集まり出していた。寄り添うように、七弦竪琴シタラをつま弾く者もいる。
 精霊は歌を愛する存在だ。
 喜びに寿ことほぐ時も、敵を薙ぎ払う時にも、言霊を紡ぐ。
 同胞が応えてくれたことが嬉しかった。哀調は次第に、喜びの賛歌に変わる。あまりにも夢中で、気付けなかった。

「綺麗な声ですね」

「――ッ」

 振り向けば、アシュレイがいた。虹彩に星屑の散った瞳には、ぞくりとするような熱が灯されている。
 強い視線を浴びて、オフィーリアは両腕を胸の前で交差した。水に濡れた夜着は肌に貼りつき、肌が透けて見えている。
 そんな瞳で見ないで欲しい。熱を孕んだ視線は、オフィーリアの濡れた肌をちりちりと焦がした。言い様の無い恐怖を感じて、背を向けて逃げ出そうとすると、

「あ!」

 岸に上がったところで、強く引き寄せられた。硬い幹を背に、腕の中に閉じ込められる。

「オフィーリア」

 優しく名を呼ばれて、オフィーリアの鼓動は大きく撥ねた。緊張に強張る身体を溶かすように、アシュレイは結い上げた青髪にキスを繰り返す。

「とても綺麗だ……」

 優しい微笑に誘われて、オフィーリアは恐る恐る視線を上げた。
 煌く青い瞳に捕らわれて、金縛りにあったように、全身が硬直する。足は地面に縫い付けられたように、動かなくなった。
 避けなければ、そう思うと同時に唇が重なった。上唇をそっと食まれ、思わず声が漏れそうになる。

「……っ」

 唇が重なると、甘い痺れがオフィーリアの全身を襲った。
 強く鼓動が撥ねて、縋るようにアシュレイの上着を掴んだ。
 オフィーリアの腰に回された腕が、更に強く引き寄せる。顔を傾けられて口づけが深くなると、とうとう声を上げた。

「んぅっ」

 瞳を閉じているのに、自分を見つめる青い瞳に熱が灯るのが分かる。

「離し……」

 静止の声を上げるオフィーリアの口の中に、熱いものが入り込んでくる。
 蹂躙するように舌を吸われて、膝が震えた。アシュレイが抱きしめてくれていなければ、倒れてしまっただろう。燃えるような熱は首筋から全身に広がっていった。

「オフィーリア……」

 かすれた声が耳を擽る。心臓が壊れそう……きゅうっと胸が締めつけられて、オフィーリアは固く瞳を瞑った。

「どうか怖がらないで」

 優しく囁くと、アシュレイはオフィーリアの手を取り、押し当てるように自分の胸の上に置いた。

「貴方からの影響力は思った以上に強い。貴方の鼓動にこの私が震えてしまう」

「あ……」

 掌に伝わる拍動に、オフィーリアは眼を見開いた。早鐘を打つように速い。
 戸惑い、動けずにいると、手首を掴まれ、幹に縫い留められた。露わになる胸に熱い視線が落ちる。