メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

1章:狭間に揺れし青斑に、古の魔法 - 1 -





 once upon a time...




 末枯うらがれ、鬱蒼とした森の最奥。
 蔓薔薇の絡まる幽愁の廃墟は、栄華を極めた城の残骸。音楽に富む、隠された蒼古美そうこびな庭園。
 そよ風に揺れる梢の音色。小鳥の囀り。水面を銀班ぎんはんに煌めかせ、滔々とうとうと流れゆく小川のせせらぎ。
 冷たい小川に足をひたして、異形の娘が日光浴を楽しんでいた。
 ここは、人間の暮らす地上ハロビアンと、まほろばの精霊界ハーレイスフィア端境はざかい
 精霊も人間もやってこない、娘にとって安全な聖域だ。
 ここでなら、顔を晒して、自由に振る舞うことができる。

 娘は、醜い容姿をしていた。

 海水青色の長く艶やかな髪と、瞳は美しいが、褒められるのはその二点のみだ。
 正面から見れば、思わず瞳を背けたくなる顔をしていた。
 不恰好な、まろく低い鼻と大きな口。なによりも、肌のあちこちに散った青い鱗。人の肌と人魚の鱗が混ざり合う様は、線の細い娘を、恐ろしい魔物のように見せていた。
 娘の名前はオフィーリア。
 人魚と人間の間に生まれた、あいの子。精霊からも、人間からも忌避される存在であった。

「いい気持ち……」

 うとうとしながらオフィーリアは呟いた。無防備に微睡めるのは、人目のないこの場所だけだ。
 遠い昔――
 精霊王は、人間の住む地上へと続く扉を閉ざしてしまった。
 精霊界の住人が招き入れない限り、人間はここへやってくることはできない。しかし、その精霊も地上へ降りることは叶わない。
 かつては友好関係にあった両者の絆は、消え失せてしまった。
 地上と精霊界を自由に行き来できるのは、強大な霊気を携えた精霊か、オフィーリアのような、人間と精霊のあいの子だけ。
 オフィーリアは嫌われ者だ。
 人魚らしい美貌も無ければ、美しい尾ひれもない。水の中で暮らせない。人間の手足を持ち、それでいて、身体のあちこちは鱗に覆われている。双眸の周囲、肩、肘、背中……そして足首。
 混ざり合った容姿で、どちらの種族にも溶け込めない。近寄れば嫌な顔をされ、後ろ指を指される。
 特に精霊からは、人間の血を引くまだらそしりを受け、蛇蝎の如く嫌われた。
 物心つく頃には、一人だった。
 人間に恋をした人魚の母は、オフィーリアを産んで死んでしまった。
 人魚に恋をした船乗りの父は、オフィーリアを愛さなかった。どこにいるかも知らぬ。
 岩走る大河に憧れ、仲間を求めて精霊界を覗いたこともある。
 森羅万象を司る、精霊王の治める永遠の宇宙。
 全ての精霊達の久遠くおんの故郷よ。
 噂に違わぬ楽園に胸をときめかせたが、間もなく希望は失意へと変わった。
 寄せられる、悪意の息遣い。
 あいの子のオフィーリアは、どこへいっても嫌われ者だった。最初は歩み寄ろうとしたけれど、嫌がらせが後を絶たず、間もなく諦めた。この寂れた森の外に、居場所はないと知ったのだ。

「フィー」

 名を呼ばれて、オフィーリアは身体を起こした。
 波打つ豪奢な金髪を背中までおろした、幼い少女が茂みから軽やかに現れた。
 宝石のような真紅の瞳を持つ、お姫様のように可憐な薔薇の精霊、ロザリアだ。
 この森で出会った時から、不思議とオフィーリアを一途に慕ってくれる。気まぐれに森に現れる天真爛漫な少女を、オフィーリアは愛していた。
 たった一人の大切な友達。
 無愛想なオフィーリアも、彼女が笑う時は、一緒になって笑う。鈴の音のようなロザリアの笑声と違い、声は低くかすれているが、ロザリアはオフィーリアの声を好きだといってくれる。

「ロゼ、おいで」

 手招くと、ロザリアは表情を綻ばせ、子犬のように駆けてきた。

「フィー! 薔薇祭の招待状、届いた?」

「私に届くわけないじゃない」

「プリムローズの妖精エルフから届かなかった?」

 いいえ、とオフィーリアが首を振ると、ロザリアは腕を組んだ。しかめ面で、寄り道しているのかも、と不満げに呟く。

「あいの子の私に、届くわけない。招待状をもらったことなんて、今までに一度もないもの」

 間もなく精霊界で、薔薇祭が催される。
 数多ある薔薇の眷属が全て招かれ、女王の名を冠するに相応しい、次なる薔薇の精霊が選ばれるのだ。
 王のいます精霊界の中心、世界樹宮で開かれる薔薇の祭典は、それは華やかだと聞く。古くから続く祭典の一つで、美しい庭園に、あらゆる精霊が集うのだと――オフィーリアを除いて。

「フィーがいかないなら、ロゼもいかない」

 あどけない瞳に、真剣な光を灯して少女は呟いた。思い遣りを嬉しく思いながら、オフィーリアは寂しげに微笑んだ。

「ロゼはきっと、薔薇の女王に選ばれると思う」

 紅玉のような瞳、波打つ豊かな黄金の髪。白皙の美貌。肌は闇にあっても淡く輝いて、見る者を魅了する。
 幼いながらも、身に潜む霊気の高いこと。彼女は時がくれば、誰もが跪く薔薇の女王になるだろう。

「どうかなぁ、アガレットは七冠しているし、次もきっと彼女が選ばれるよ」

 アガレットは、原初の薔薇の精霊だ。美しい容姿と、強い霊気を保ち、他の追随を許さない。けれど――

「お美しい方と聞くけれど、それでも、ロゼが選ばれると思うの」

 自信をこめて告げると、ロザリアは唇を尖らせ、上目遣いにオフィーリアを見た。

「選ばれなくていい。世界樹宮に奉仕したくないもの。フィーに会えなくなるのは絶対に嫌」

「私も寂しいけれど……我が君はきっとお許しにならないわ。何度も、世界樹宮へくるよう、お声を頂戴しているのでしょう?」

「関係ないよ。フィーと一緒にいたい」

 一瞬の躊躇もなく、ロザリアはきっぱりと告げた。精霊王を差し置いて、オフィーリアを選んでくれるという。

「……私も。ロゼと一緒にいたい」

「どうしても世界樹宮へいかないといけないなら、フィーも一緒じゃないと嫌だ」

 泣きそうな顔で仰ぐロザリアの髪を、オフィーリアも切ない気持ちで撫でた。
 薔薇の女王候補として、ロザリアの存在は既に周知されている。あいの子のオフィーリアと違い、彼女には輝かしい舞台が待っている。傍にいられる時間は、もうあまり残されていないだろう。

「だから……お願い、今度こそ魔法に触れて」

 ロザリアは小声で囁くと、掌に金色に輝く光の球を出現させた。
 さんたる光を放つ、いにしえの調べ――双子の精霊王が生んだ、精霊界の聖域に秘されし魔法だ。

「も、持ってきてしまったの!?」

 慌ててロザリアから距離を取ると、オフィーリアは慄いたように首を振った。
 地上の空と海と精霊界。
 それぞれの世界に在る三つの魔法は、偉大なる双子の精霊王、天下始祖精霊マナ・マク・リールが産み落としたものだ。
 魔法は、閉ざされし世界を結ぶ大いなる力を秘めており、選ばれし者だけが触れられると聞く。
 精霊界にある魔法は、聖域と呼ばれる森で大切に保管されている。
 その魔法にロザリアが容易く触れているのは、彼女が魔法を伝う雨水を糧に育った、魔法の化身でもあるからだ。

「この魔法は、世界のを開くだけじゃない、相手の心を奪う力も秘めているの。魔法を手に入れれば、誰もフィーを苛めたりしないよ」

 紅玉の瞳を煌めかせ、ロザリアは確信めいた口調で告げた。