メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

1章:狭間に揺れし青斑に、古の魔法 - 2 -


「なんてこと。見つかったら大変、早く聖域に返さなくちゃ!」

 仰け反るオフィーリアに、ずい、とロザリアは魔法を浮かべた手を近付けた。

「魔法を手に入れれば、堂々と世界樹宮にいけるんだよ」

「近付けないで! 触れたら天罰が落ちる」

 おののいたように、オフィーリアは首を振った。警戒するように後じさると、じりじりとロザリアも距離を詰めてくる。

「大丈夫、ロゼが保障する。何度もいってるけど、この魔法は間違いなく、フィーの為にあるんだから」

「ロゼ……気持ちは嬉しいけど、無理だよ。天下始祖精霊マナ・マク・リールにあらせられる、双子の精霊王が御力を尽くして生んだ魔法なんだから」

 一見すると小さな光の球体だが、精霊界を永に賄えるほどの、霊気の凝固なのである。

「判ってるよ」

「判ってない! フィーでなければ、そんな風に触れて只で済まされるわけがない。私が触れたら、一瞬で蒸発しちゃうよ!」

「大丈夫。フィーなら触れられる。むしろ、フィーにしか触れられないの。絶対に大丈夫だから、手を伸ばしてみて?」

「無理だってば。ロゼって、私のこと本当は嫌いなの?」

「そんなわけないでしょ! もー、平気だよ。ほら、綺麗でしょ?」

 神々しい金色の光を見つめるうちに、オフィーリアの頭はぼうっとなった。

「綺麗だけど……」

「ほら、手を伸ばして」

「う……」

「ほらほら~」

 なぜだろう……魔法に触れたくてたまらない。躊躇っていたはずなのに、催眠にかけられたように、オフィーリアは手を伸ばした。

「あっ」

 触れた途端に光は膨れ上がり、オフィーリアの全身を金色に包み込んだ。身体は燃えるように熱くなったが、不思議と痛みはない。
 唐突に、膨大な情報が、頭の中に洪水のように流れ込んできた。
 ロザリアの姿も、周囲の森も視界から消え失せ、太古の精霊の世界――美しい精霊の姿が見える。
 顔のよく似た、対の男女……
 白に近い銀色の髪、金色の星屑を散らした青い瞳、陶器のような肌……この世にあらざる美貌だ。
 背には、透き通った六枚の羽を持っている。
 彼等こそ、宇宙を創り給う唯一無二の天上始祖精霊マナ・ネス・リール――アンフルラージュの子供達、天下始祖精霊マナ・マク・リール。精霊界を治める双子の精霊王だ。
 時代の節目に立ち、二人はとある決断を下そうとしていた。

“アンジェラ、私はもう人間を許せません”

“そうね……仕方ないわ。今は、精霊界ハーレイスフィアの扉を閉じましょう……”

“――今は? いいえ、アンジェラ。未来永劫、私は開くつもりはありません”

“アシュレイ、そんなことをいわないで。地上ハロビアンの世界もとても素敵よ……私は、彼に出会えて、とても幸せだったもの……いつかまた、彼等と笑える日がくる”

“愚かなことを……諦めなさい、アンジェラ。私も二度はありませんよ”

“いいえ、アシュレイ。いつかきっと”

“無駄です、アンジェラ”

“信じて、アシュレイ。一滴の希望を地上に残すわ……界渡りのを開く魔法。怨嗟の輪から外れた者が、この魔法に触れた時、可能性は生まれるのよ”

 穢れをそそいでも、すぐにまた、空は濁り、海は穢れていく……
 果てのない人間の争いを治めることに、精霊王は限界を感じていた。
 この未熟な世界を守る為に――
 哀しげに瞑目したアンジェラは、再び瞳を開けると、世界を賄えるほどの霊気を振り絞り、巨大な魔法を生み出さんとした。

“アンジェラ! 霊気を使い果たすつもりですか? そんなことをしても無駄ですよ、怨嗟に染まらぬ人間がいるものですか”

 人間に心を寄せ、無謀な真似をする双子姉のことを、アシュレイは心から心配していた。

“判らないわ……いつか、時が流れて……きっと誰かが気付いてくれる”

“たとえ聖者が手にしても、よこしまな者に引き裂かれてしまう”

“そうね……魔法を手にする者を、守る魔法も必要だわ。こうしましょう。相手の名前を呼んで、メル・アン・エディール――貴方は私のもの――と囁けば、その者の心を手に入れられるの。この魔法を、無限に続く空と海に分けた二つの世界、それぞれに落とすわ。一つは空の上に、一つは海の底に……”

“どうして、そこまで地上を気にかけるのです……”

 悲しそうな顔をするアシュレイを見て、アンジェラもまた表情を曇らせた。

“アシュレイがそんなにも人間を嫌ってしまったのは、私のせいね……ここにも、一滴の希望が必要だわ”

 つと繊手を伸ばし、アンジェラはアシュレイの胸を指で突いた。

“ここって、精霊界に?”

“そうよ。一つは地上の空に、一つは地上の海に、一つは精霊界に……三つの世界に魔法を落とすわ”

“アンジェラ……私は救って欲しいだなんて、思っていませんよ”

“いいえ、必要だわ。どれだけ時間がかかっても、変えたいのよ”

 強い意志を秘めた瞳を向けられて、アシュレイも口を閉ざした。せめて、少しでも彼女の負担が和らぐように、霊気を放出して魔法の創造に力を貸す。
 かくして、恐いほど純粋な霊気、高圧凝縮された魔法が誕生する。
 三つの強大な魔法を、アンジェラはそれぞれの世界に落とした。

“あぁ……疲れたわね。私も貴方も、休暇が必要だと思わない?”

“全く、無茶をする……”

“アンフルラージュも待っているわ……少し休みましょう”

 くずおれるアンジェラの身体を、労わるようにアシュレイは支えた。
 映像はそこで途切れた。

「――フィー、大丈夫?」

 ぼんやり虚空を見ていたオフィーリアは、我に返った。紅玉の瞳が心配そうに煌めいてる。
 夢とうつつが曖昧にぼやけて、自分がどこに立っているのかすら、危うく見失うところであった。

「大丈夫……」

 見る限り、身体に変化はない。魔法に触れた時に熱を感じたが、火傷もしていない。
 外見は何ら変化していないが、魔法と融合したということは、不思議と判る。知り得るはずもない、古い記憶があるのだ。

「……嘘でしょ? 本当に、手に入れてしまった……?」

 青い鱗の散った顔を更に青褪めさせて、オフィーリアは呻いた。
 両の掌を凝視していると、不意に空気が冷えた。周囲の大気は、清らかに澄み渡る。

「――なんということを」

 美しい、静かな声が降る。
 恐る恐る振り向くと、背の高い精霊が佇んでいた。オフィーリアは驚愕に瞳を瞠った。
 光で編まれたような白銀の髪、金色の星屑を散らした青い瞳。
 精霊界を統べる天下始祖精霊。偉大なる、双子の精霊王の片割れ――アシュレイがそこにいた。