HALEGAIA

6章:悪魔トランス - 6 -

 悪魔王召喚。此の世ならぬ美貌の悪魔が、陽一の前に顕れた。
「やっと呼んでくれた。待ちくたびれましたよ」
 周囲には目もくれず、黒のVネックにジーンズ姿のミラは閑雅かんがな雰囲気さえ漂わせ、陽一の肩を抱き寄せた。
 陽一は安堵したのも束の間、くちびるを奪われると、目を剥いた。
「んぅっ!?」
 舌が燃えるように熱くなる。濡れた水音におののく間もなく、舌を搦め捕られて吸われる。甘美な熱に浸されて、全身が蕩けていきそうになるが、視線を感じてひやりとした。
「……やめろ!」
 ミラを突き放して口元を手でぬぐう。上書きされた舌の刻印スティグマを意識しながら、唯織の様子をうかがうと、顔面蒼白で、額にびっしり汗の珠を結んでいた。
「えと、彼は、その……」
 陽一は弁明を試みるが、この場を取り繕う言葉が見つからない。護摩壇の結界石は真っ二つに割れているし、忽然こつぜんと顕れた魔性の美貌は、どう考えても普通じゃない。
「なんと強大な……」
 かすかに震える唯織の声には、畏怖と怯えがにじんでいる。
「貴方様ほどの大御神おおみかみはお目にかかったことがございません」
 青年陰陽師は、まさしく神を敬うように、恭しく頭をさげた。
 唖然とする陽一の隣で、ミラは、菫色にかがやく瞳を唯織に向けた。
「僕は悪魔ですよ。陽一に呼んでもらえたので良い気分ですが、陽一を怖がらせた罪は重いですよ。どう罰してやろうか」
「よせ!」
 陽一はミラの腕を掴んだ。あのとき・・・・のように、彼が唯織を燃やしてしまうのではないかと危惧したのだ。
「……遠藤様は、黒魔術の心得があるのですか?」
 唯織は慎重に訊ねた。陽一はぎょっとして、手を顔の前で光速で振る。
「まさか! ありません」
「しかし、悪魔召喚は隠秘学オカルトにおける究極の秘儀でございます。御名を知らずにお恥ずかしい限りなのですが、さぞ高名な魔術師の血筋なのでは?」
「いやいやいや、誤解です! 僕は普通の高校生ですからっ」
 さらに光速で手を振ると、ミラはその手をとり、すりすりと頬に押しあてた。
「やめぃ!」
 陽一が手を振り払っても、ミラは構いたくて仕方がないとでもいうように、陽一を抱きしめ、頬ずりし、頭のてっぺんにキスを落としてくる。
 ふたりの様子を、唯織は戸惑った様子で眺めていたが、間もなくミラに目を向けた。
「私は火神唯織と申します。御名をお教えいただけませんか?」
「人間には、僕の名前を聞くことも呼ぶこともできませんよ」
 穏やかな拒絶の言葉に、空気がぴんと張り詰めた。
 陽一が固唾を飲んで見守るなか、唯織は壇の神鏡を持ち、ミラが映るように配置すると、両の指を使って“鏡の印”を結び、しゅを唱え始めた。
天乃息あめのおき地乃息つちのおき天乃比禮あめのひれ地乃比禮つちのひれ。天の身の、ことわりの身の神真澄かみますみ。曇りまさねば、弥光やひかりを増せ」
 また指を動かし、胸の前に親指が上方になるようにして結印けついんした。
「ちはやふる、天津鏡の、神とぎは。の仮姿の、曇りあらやめ。真の名を映し給え」
 神聖な御堂に朗々とした声が響き渡る。非常に強力な真言であるが、ミラは妖艶に微笑した。
天照大御神あまてらすおおみかみしゅが、人間の創世記を飽きるほど見てきたこの僕に効くと思いますか?」
 薄闇のなかで、菫色の瞳が輝きを放つ。
 傍にいる陽一は、冷たい汗が背を流れるのを感じた。ミラは、宇宙にあまねく三千世界を滅する悪魔軍団の長だ。人間の敵う相手ではない。
 神鏡は澄み透るどころか、真っ黒に染まり、亀裂がはしった。
「神仏の加護をこのように穢すとは……よほど高次元の顕現とお見受けいたします」
 透明だった唯織の声に、どこか敵意のようなものがくわわった。
「焔よ」
 唯織は呟くと、掌を真下に向けて、つぎに天に向けたとき、朱金の輝きが掌に宿っていた。人差し指と中指をたてて、印を結ぶ。
「ちはやふる、永久とこしえ火神ひかみよ。加護を灯し、鬼神の名を語らえや」
 両腕を伸ばして印をミラに向けたとき、朱金の帯がすっと伸ばされた。
 けれどもミラに届く前に、パシンッと弾け飛んだ。
 驚嘆し、黙す唯織に、ミラは苦笑と冷笑の中間くらいの笑みを向けた。
「酔狂ですねぇ。僕の真名の対価は、お前の命では到底足りませんよ。家族、友人、お前の名を知るすべての者にまで波及します。それでも良ければ教えましょうか?」
 唯織がくちを開く前に、陽一はミラの前に仁王立ちになり、両腕を広げてみせた。
「聞いちゃだめです!」
 唯織はミラと陽一の顔を見比べ、表情に迷いを浮かべた。逡巡の末に立ちあがると、陽一の腕を引いて抱き寄せた。
「遠藤様、こちらへ」
 そのまま背後にかばおうとする。
「陽一に触るな」
 ミラの口調が恫喝に変わった。やばい。陽一は唯織の腕を掴み返し、訴えた。
「唯織さん、確かにミラは妖しいけど、悪いやつともいいきれなくて、とにかく名前を聞いてはだめです」
 唯織は眼を剥いた。見開いた瞳に慄きの色が浮かんでいる。四肢から力が抜けおちて、がくりと膝をつく。それは、これまで唯織が知らなかった種類の恐怖だった。まじりけがなく、絶対的で、抗えない。内奥ないおうが凍りつくような、躰中の細胞を支配される恐怖。くちのなかに恐怖の味が拡がっていき、手も脚も恐怖で震えている。
「唯織さん……?」
 陽一は唯織の顔をのぞきこみ、その尋常ではない表情を認めると、次にミラをふりむいた。
「ミラ、やめろ」
 悪魔は答えない。
 冷ややかな菫色の瞳を、陽一は負けじと睨み返した。
「ミラ!」
 次の瞬間、呪縛から解放されたかのように、唯織は苦しげに喘いだ。
「唯織さん、大丈夫ですか!?」
 陽一は、荒い呼気を整える唯織の背を撫でさする。少し落ち着くのを待ってから、
「唯織さん、手だしされない限りミラは何もしません。彼を普通の高校生でいさせてあげてください。お願いします」
 ふふっとミラが微笑する気配がして、振り向くと、すぐ近くにミラがいた。
「嬉しい、陽一が守ってくれるなんて。これが噂に聞く“ツンデレ”ですか?」
「お前はちょっと黙ってろ!」
 陽一は肩越しに怒鳴った。唯織をこれほど威圧しておきながら、ミラは通常運転、恥じらう乙女のように頬に手を押しあてている。
 極度の精神集中を強いられていた唯織は、ふいに和んだ空気に息を吐いた。ちぐはぐなふたりを、しばし吟味するように眺めた後、くちを開くと、
「魔王様にとって、遠藤様はどのような存在ですか?」
「陽一は僕のソウルメイトです。僕は、陽一をよくるために魔界ヘイルガイアからきました。ほかの人間に興味はありませんよ」
 率直なミラの言葉は、唯織の心の琴線に触れた。取り繕われた回答より、よほど信用できると思えたのだ。
「くちだしは無粋のようですね」
 彼の警戒心がほどけたのを感じて、陽一は安堵に胸を撫でおろした。しかし、釘をさすように唯織は続けた。
「どうか、お気をつけください。もし、その力が不当に人に向けられるようであれば、私も介入せざるをえなくなります」 
 冷水のような一瞥を向けられても、ミラは飄々ひょうひょうとしている。唯織は視線を和らげると、陽一を見つめた。
「遠藤様はやはり、類稀たぐいまれな魔術師でいらっしゃいますね」
「えっ」
「遠藤様が秘術に成功したことは、じきに界隈に知れ渡るでしょう。私もよく目を光らせておきますが、遠藤様も、くれぐれも注目を集めないようお気をつけてください」
「俺は平気だと思うんですけど……」
 陽一はミラをチラッと見た。問題はコイツだ。
「何かあれば、いつでも連絡をください。私にできることなら、力になります」
 名刺を受け取りながら、陽一は礼を口にした。白い高級紙に、流麗な字で唯織の携帯番号が書いてある。
「さて、そろそろ高柳さんたちを起こしましょうか」
 唯織にいわれて、陽一は高柳たちを振り向いた。すっかり忘れていた。音もなく顕れた、ふたりの稚児に揺り起こされた高柳と茂木は、ミラを見て驚いた顔をした。
「あれ? 魔王様だ」
 目をぱちぱちさせている高柳に、陽一はぎこちない笑みを向けた。
「たまたまミラが近くにいたんで、合流したんです。えーと、先輩たち儀式の後に寝ちゃって、全然起きなくて……待っていたんですよー」
 かなり苦しい言い訳だったが、高柳も茂木も、焦ったように身を起こした。
「え、ごめん! 居眠りしてた? 気が抜けたせいかなぁ」
「悪かったな」
 首をひねる高柳と茂木に、アハハと、陽一は苦笑い。
 一同、唯織に礼を告げると、御堂の外にでた。すぐに火神先生が近づいてきて、ミラを認めるなり、訝しげな顔をした。
「魔王君?」
「えーっと、さっき合流したんです! ほんと偶然で」
 慌てて陽一がごまかすと、火神先生は追及もせず、そうか、とだけ頷いた。それから高柳を見て、こう訊ねた。
「高柳君、どうだった?」
「おかげさまで、気が楽になりました。今日はありがとうございました」
 深々と頭をさげる高柳に、火神先生はほほえんだ。
「なら良かった。僕は少し用があるから、君たちは気をつけて帰りなさい」
「はい」
 陽一たちは、火神先生にお辞儀をして別れた。
 庭園を歩きながら、高柳はすっかり安堵の表情を浮かべている。
 木漏れ日がきらきらとして、陽一も清涼な雰囲気にほっとなる。一時はどうなることかと思ったけれど、なんとか丸く収まった。
 それにしても、このように御利益のありそうな場所にいても、ミラは平然と寛いだ様子だ。この悪魔に、苦手なものなんてあるのだろうか?
「あ――……なんかほっとしたら、ベースいないことが、あらためて残念に思えてきた」
 思いだしたように、高柳がぼやいた。
「やっぱり、俺がベースやりましょうか?」
 陽一は訊ねた。
「ううん、ツー・ギターでやろう。ベースは諦めるしかないな」
 そういいながらも、高柳は残念そうだ。
「欠員を補充すれば良いでしょう」
 と、ミラがくちをはさんだ。
「補充って、誰を?」
 陽一が訊ねると、ミラはにっこりした。
魔界ヘイルガイアから呼びます」
 陽一たちは顔をみあわせた。