HALEGAIA

6章:悪魔トランス - 5 -

 翌土曜日の午後一時。東京都新宿。
 陽一は高柳、茂木と共に広壮な建物を訪れた。
 火神家は新宿の一等地にあり、広大な敷地を占めている。東京のど真ん中にあるとは思えない、四方を多数の樹木に囲まれており、まるで自然公園だ。
 敷地内には、一族の家屋が点在しており、ふるくから続く名家にふさわしく、閑静かつ荘厳な雰囲気を漂わせていた。
 立派な正門をくぐり抜けて、まっすぐ、大きな鳥居の前に火神ひかみつかさが待っていた。休日でも、一分の隙も無い、高価たかそうな、仕立てのいい灰茶色のヘリンボンのスーツを着ている。
「「先生、こんにちは」」
 陽一たちが頭をさげると、いらっしゃい、と火神先生は答えた。どこか病的な外見とちがって、声は優しく、温かみのあるハスキーな声をしている。
「先生の実家って、すんげぇっすね」
 高柳は興奮気味にいった。
「大きいだけだよ」
 先生は謙遜しているが、とても私有地とは思えない、大きな鳥居を見て高柳たちは息をのんだ。くぐり抜けると風雅な緑の庭園が拡がっていて、優美な池に橋がかかり、玉垣のほとりには敷石に添うて幾株の松や梅が植えられてある。
「世界遺産みたいッスね」
 高柳の感想に、内心で陽一も同意する。
 並んだ石燈籠の合間に、注連縄しめなわに囲まれた巨大な楡の御神木が二本そびえたち、高柳は脚をとめて手をあわせた。
「めっちゃ御利益ありそう……見てるだけで浄化される気がする」
 同感しながら、茂木も陽一も手をあわせた。
 幽邃ゆうすいなる庭園の、まっすぐ伸びている石畳の歩廊の先に、金箔きんぱくうるしの豪壮な神殿造りの家屋がある。祭神は火主神であり、配祀さいし火之迦具土神ひのかぐつち。名の通り、火神家は炎を崇敬する一族らしい。
「先生は資産家なんですね」
 立派な拝殿に圧倒されて、陽一は息をのんだ。
「僕は普通の一教師だよ。実家は、昔から占いや悪霊退治を生業にして栄えてきたんだ。胡散臭いだろう?」
 揶揄やゆするような問いに、高柳と陽一は苦笑いで応えた。茂木は相変わらずの無表情である。
「僕は家業が厭で教師をしているけど、此の世に異質なものが在ることは否定しない。人より少しばかり目が良くてね、色々と視える・・・んだ」
 火神先生はそういって、高柳、茂木、最後に陽一を見た。
「……どんなものが見えるんですか?」
 陽一は用心深く訊ねた。
 以前なら荒唐無稽な話だと一蹴しただろうが、神と悪魔の両方の存在を知っている今は、慎重にならざるをえない。悪霊退治の家系であるなら、陽一や、ミラのことはどう視えているのだろう?
「僕は火神の血が薄くてね、そこに“いる”ということしか判らない。だけど最近は、かなりはっきり視えるよ」
 氷のような沈黙がいっときはさまった。
「弟はその道の専門家で、序列の厳格な火神家の頭首だ。信頼していい。高柳君の力になってくれると思うよ」
「ありがとうございます」
 高柳はぺこっとお辞儀した。あの、と陽一は気になっていたことを訊ねみた。
「水をさすようですみません……ちなみに、お金ってかかりますか?」
 隣で高柳がぎょっとしているが、確認しておく必要がある。ミラのように常識外の対価は請求されないと思うが。
「生徒から金銭を受け取ったりしないよ。僕の紹介だしね」
 先生はうすく笑った。頬のあたりにちょっと笑みが浮かんだ程度だが、蒼褪めた顔がだいぶ柔和になる。
 このとき、陽一は初めて火神先生の笑顔を見た気がした。これまで近寄り難い、神経質な人だと思っていたけれど、意外と話しやすい人なのかもしれない。
 ひろい階段をのぼり、厳かな御堂に近づくと、ひとりでに両開きの観音扉が開いた。びくつく陽一たちに、火神先生は落ち着いた声でいった。
「入りなさい。私はここで待っているから」
 高柳は先生を見て、ぺこっと会釈すると、ふたたび御堂に顔を向けた。陽一も少し戸惑いつつ、目を前方へやった。
 靴を脱いでなかへ入ると、金色燦然とした御堂は森閑しんかんとしており、橙色の燈明とうみょうが灯されていた。
 正面に立派な護摩壇が築かれており、五十鈴いすずや水晶玉、神鏡といった品々が配されている。
 壇の奥遥はるかには、金光燦爛きんこうさんらんたる神壇、四方の欄間には花鳥風月と波浪の彫刻を望み、金箔の円柱に支えられた網代形あじろがたの高い天井、ふすまの絵画の一つ一つが素晴らしい写生で彩られている。
 日常から切り離された、荘重美麗で静謐な空間。幽邃ゆうすいなる灯の光線と、しんとした空気に浸されて、厳かな気持ちになる。
 無人と思ったが、白い紗幕の奥から、ふたりの稚児ちご、黒髪を古風に肩で切りそろえた、水干姿の美しい男のが足音もなく進みでた。二対の双眸が琥珀色に輝いている。一種異様な雰囲気を漂わせた、いとけない少年たちは、神の遣いかあやかしたぐいに見えた。
「「お入りくださいませ」」
 ふたりの少年は異口同音に唱和した。
「失礼しまーす……」
 一揖して陽一が御堂に入ると、シャン……涼しげな鈴がどこからから聴こえた。
「お茶をどうぞ。あるじは間もなくいらっしゃいます」
 陽一たちの前に、濃い緑茶が置かれた。
 ドキドキしながら待つことしばらく、内側の祭壇を隠している御簾が、するすると半ば巻きあがり、立烏帽子たてえぼし浄衣じょうえの白狩衣かりぎぬに身を包んだ青年が顕れた。
「初めまして。私は司の弟の、火神ひかみ唯織いおりといいます。ようこそ、おいでくださいました」
 清廉とした雰囲気の青年で、透明な微笑を浮かべている。神経質そうな火神先生と兄弟には見えない、穏やかな印象だ。よく見ると目元は似ているが、全体的な印象がまるで違う。
「高柳さん」
「ハイ!」
 緊張気味に高柳が答えた。
「兄から話は伺っております。確かに、陽気がお強いようですね」
「妖気?」
 訝しげに、高柳は鸚鵡返しに訊ねた。
「陽の気です。良いものも悪いものも引きつけてしまう。御自身は生来の陽気で跳ね返せますが、周囲に影響を及ぼす場合がございます」
 高柳の顔が沈みこむ。
「……はい。そう思うことが最近多くて、悩んでいます。一昨日友達も怪我してしまい、僕に原因があるなら、なんとかしたいのですが……」
 唯織は微笑した。
「兄の紹介でいらして頂いたのですから、力になりますよ」
「ありがとうございます」
「高柳さん、どうぞ護摩壇の手前へいらしてください。お友達は、後ろの方でお待ちください」
 指示された通り、高柳は壇の前に座り、陽一たちは後方に置かれた座布団のうえに正座した。
「これから執り行うのは、大祓おおはらいの儀式の一種です。穢れを人形ひとがたにうつし、神聖な火で燃やします。御祓いの意図もありますが、神気も増しますので、高柳さんの場合は特にですが、陽気に惹かれてやってくる悪鬼を拒む御利益があります」
 唯織は左手に神楽鈴をもち、シャンシャンシャンと澄んだ音色が伽藍がらんに響かせた。
「高柳さん、こちらの人型をお持ちになってください」
「はい」
 白い人型の脚を、高柳は右手で持った。
 唯織は護摩壇に油を注ぎ、壇に配置あれた結界石に指で印を結んだ。
「焔の主、火焔を司る火神よ、百鬼を退け、凶災を祓い給え。急急如律令きゅうきゅうにょりつれい
 唯織のくちから、滔々と密呪みつじゅが紡がれる。すると、人型をもつ高柳の右手に、細い光がかがやいた。
 厳かな空気がみちみちて、高柳は背筋をまっすぐに伸ばして聴き入っている。その後ろ見守る陽一と茂木もひとこともくちをきかず、神聖な秘事に魅入った。
 声が熱を帯びてくるに従って、しゅに抗うように、燭台の炎に不自然な形が宿り始めた。不可思議な余震も起こり、護摩壇の油に波紋がひろがる。
「悪鬼妖魔、この者に寄り着くこと罷り成らぬ」
 唯織はしょうを鳴らし、高柳の周囲をゆっくり反閇へんばいを踏みながら回り、特殊なしゅを繰り返した。その間、焔は右に、左にと揺れていたが、高柳が正面に戻ったとき、ぴたりと静止した。
「人型をお返しください」
「はい」
 唯織は、高柳から受け取った人型を炉にくべて燃やすと、鈴を鳴らし、恭しく頭をさげた。間もなく一同を振り向いて、終わりました、と告げた。
「これで、しばらくは大丈夫でしょう。たまに、公園や緑のある場所を歩いて、神社に参拝すると良いですよ」
 太鼓判を押された高柳は、心底ほっとしたように相好を崩した。
「ありがとうございます。なんだか、気が楽になりました……」
 彼は、ふうっと息をはいたと思ったら、ぐらりと体が傾いた。
「先輩っ?」
 陽一は腰を浮かした。そのとき、今度は隣で茂木が頽れた。
「えっ!?」
 慌てる陽一。茂木は目を閉じて、ぐったりしている。
「大丈夫、眠っているだけです。あかりほむら
 名を呼ばれたふたりの稚児がどこからか顕れて、細腕でそれぞれ高柳と茂木を抱きあげ、部屋の隅へと運んでいく。その様子を唖然としながら目で追っていた陽一は、
「遠藤
 ふいに呼ばれて、はい、と背筋を伸ばした。
「お会いできて、誠に恐悦至極にございます」
 深々とお辞儀をする唯織に、陽一も慌てて頭をさげた。
「いえ、そんな、こちらこそ光栄です。ご丁寧にありがとうございます」
 居住まいを正した唯織は、くちびるを綻ばせた。火神先生の微笑とよく似ている。
「斎戒沐浴してをたてたところ、強大な高次とまみえるとのがあらわれました。なるほど、遠藤様は両極端でございますね。禍々しく、清らかでもあり……並々ならぬ恩寵を受けていらっしゃる」
「こうじ、ですか?」
 困惑気味に訊ねる陽一に、唯織は笑みかけた。
「どうぞ、こちらへいらしてください」
 陽一は、おっかなびっくり、護摩壇に近づいていき、長い蝋燭の前に正座した。一瞬、蝋燭の炎が、一段と強く燃え盛った。
 唯織は長い袖のたもとから、紅い糸をとりだし、一端を御燈明みあかしの炎にかざした。白煙があがり、糸が燃える。糸を左右に揺らしながら、唯織は陽一を見た。
 ぞくっとしたものが背筋にのぼり、陽一は身じろいだ。ミラの圧倒的な力とは異なる、しかし現次元以外の異次元の霊子の働きを感じる。
「あの、何を?」
 陽一は不安げに訊ねた。
「結界術でございます。どうか動かないで」
 陽一は呪縛にかけられたように身動ぎひとつしなかったが、ぴしっと家鳴りがすると、悲鳴をあげた。
「怖がらないでください。戒めを解こうとしているだけです」
 唯織は勾玉のついた数珠を陽一に向けた。と、突然に糸が切れて、珠はバラバラに飛び散った。翡翠の勾玉は罅が入り、真っ二つだ。ひっ、と陽一は慄き、仰け反る。もはや顔面蒼白である。
「これほどとは……もう一度」
 奇怪な家鳴りが続け様に聴こえて、陽一は怖くて身をすくませる。恐怖にも色々とあるが、これは全身に纏わりつく本能的な恐怖だ。別世界で見た地獄絵図がフラッシュバックした瞬間、耐えきれず、舌にある刻印スティグマでミラの真名を唱えた。
「……ミラ――!」
 一刹那いちせつな、鈍い音が響き、薄暗い伽藍がらんまばゆい銀色の筋が走った。