HALEGAIA

5章:魔王サタン万歳! - 4 -

 校門をでる頃には、陽もすっかり沈み、空には下弦の月がぽっかり浮かんでいた。日中の陽気とは打ってかわって、夕方は冷える。
 ジャージのジッパーをあげながら、そういえばと陽一はミラを見た。
「俺は家に帰るけど……ミラは?」
「一緒に帰ります」
「帰るって、魔界ヘイルガイアに?」
 彼の自宅といえば、魔王城パンデモニウムだろうか?
「いいえ、陽一の家の隣に引っ越しました」
「えっ!? もしかして今朝見た引っ越しトラックってミラだったの!?」
「僕ですね」
「え、じゃあ田中さん引っ越したの?」
「はい、引っ越しましたよ」
 隣人は、四十代の男性でひとり暮らしをしていた。釣りが趣味で時々盛りつけた刺身をもらい、お返しに母も田舎から届いた野菜や果物を渡したりしていた。町内回覧板の班も同じで、陽一も何度か顔をあわせたことがある。一言の挨拶もないまま引っ越したのは、意外というかいささか奇妙に感じる。
「まさかミラ、追いだしたんじゃないだろうな?」
 陽一は、疑惑の眼差しでミラを見た。
「ちゃんと対価を支払いましたよ。五億円で買い取りました」
「五億円っ?」
「陽一の家の隣に住みたかったし、目障りな男でしたから、排除しておこうと思って」
「排除って何? 怖いんですけど」
「遠ざけただけですよ。清く正しい遵法じゅんぽうの手続きで。相場の十倍で買い取ったので、喜んでいましたよ」
「ならいいけど……ところで歩きで大丈夫だった?」
 住宅の隙間から覗く京成線を眺めながら、陽一はミラに訊ねた。
「もちろん。歩いて通える距離でしょう?」
「うん」
 歩いて十五分程度だ。高校選びは、家から近いことも条件のひとつだった。
「今日一日過ごしてみて、学校はどうだった?」
「学生の陽一を見れて、とても新鮮でしたよ。僕も人間にまじって授業を受けるのは、初めての経験でした」
 陽一は笑った。
魔界ヘイルガイアに学校はないもんね」
「ありますよ」
「あるの!?」
 驚いて陽一はミラを見た。
「三千世界を殲滅するために、拷問、解剖、誘惑、殺戮、強姦、輪姦などを学びます」
「そんな学校はイヤだ……」
 陽一は呻くようにいった。
「上級悪魔ともなれば、殲滅指揮や進捗管理も学びます。悪臭を放つ人間界をいくつも同時に滅ぼさないといけないこともありますから、悪魔も大忙しなんです」
「そんな忙しさはイヤだ……」
 一生懸命働いています! みたいなノリでいわないでほしい。
 話しているうちに、自宅が見えてきた。隣人の田中さん改め、ミラの家を見ると、真鍮の表札に「魔王」の文字が刻まれていた。
「ミラ、ひとり暮らし?」
「雑事を任せる配下を呼びましたが、まあ、ひとり暮らしですね」
「すげー、お手伝いさんいるんだ」
 興味深そうに玄関を眺める陽一を、ミラは期待にみちた目で見つめた。
「寄っていきますか?」
「今度ね」
「今夜は?」
「今度にしようよ」
「せっかくの再会記念日ですよ。僕の家にこないのなら、陽一の家にいきたい。夕飯を御馳走してください」
「図々しい奴だな」
 陽一は呆れたような目でミラを見た。
「いいでしょう?」
「ん~……でも、自主練したいし。いつも河川敷でランニングしているんだ、俺」
「僕もいきます」
 え、と陽一は驚いた顔でミラを見つめた。
「ミラも走るの?」
「はい」
「シューズはあるの?」
 ミラの足元、黒いローファーを見つめながら陽一は訊ねた。
「ありますよ」
「そっか……でも俺、一〇キロ走るけど」
「一緒に走ります」
 陽一の走るペースは結構速いのだが、まぁ、悪魔が人間の体力についてこれないわけがないだろう。
「判った。十分後に玄関前集合でいい?」
「はい」
 そこでいったん解散した。
 陽一はキッチンにいる母に、ランニングから戻ったらミラを夕飯に招いて良いか訊くと、二つ返事で了承を得た。
 いったん部屋に戻り、荷物を置いて玄関をでると、ミラがいた。白いTシャツに紺地の学校ジャージ、ちゃんとランニングシューズを履いている。ありふれた恰好なのに、長身でしなやかな筋肉質の躰だから、アスリート雑誌のモデルみたいだ。
「いこうか」
 ウォームアップがてら、走りながら河川敷に向かった。五分ほどで到着し、土手にあがったところで深呼吸する。ミラも陽一の真似をして、深呼吸している姿がほほえましい。
 並んで走りだすと、すれ違うランナーや犬の散歩をしている人が、ミラを見て動揺のあまり振り返っていく。陽一も少し見惚れてしまった。
 リラックスした前傾姿勢で、骨盤をしっかりキープしている。なんて真っすぐな躰の軸。高い視線と腕振り、軽やかな脚の動き……お手本のようなランニングフォームだ。
 そもそも人間と比較することが間違っているのかもしれないが、フィジカルは完璧だし、メンタルも強いというか異次元レベルで、もしミラがその気になれば、オリンピック選手にだってなれるかもしれない。
「平気?」
 五キロ走ったところで訊くと、ミラはにこやかに頷いた。風に揺れる黒髪、顔の輪郭が月光をもらい受けて輝いている。
「陽一と一緒に走るのは、良いですね」
「そう?」
「はい。筋肉の躍動、息遣い、汗の匂い、生を謳歌している陽一は官能的で、傍にいるとエロティックな気分になります」
 キラキラと爽やかな笑顔で、悪魔がのたまった。
「オイ。よこしまな目で俺を見るな」
 陽一が横目で睨むと、ふ、とミラは小さく笑う。
「それに楽しいです。陽一と走るのは楽しい、とても」
 菫色の瞳が、喜びに煌めいている。
 邪気のない無垢な笑顔に毒気を抜かれて、陽一は赤く染まった顔をごまかすように、正面を向いた。
(なんでいちいち、照れちゃうんだろ)
 いつも無心で走っているのに、今日はミラを意識しすぎだ。恋心を自覚したせいか、ミラの前で赤面ばかりしている気がする。
 ランニングを終えて家に帰ると、陽一はシャワーを浴びた。ちょうど十分後にインターフォンが鳴り、玄関まで出迎えにいくと、制服姿のミラが現われた。両腕で抱えるほどの、大きな薔薇の花束を持っている。
「どうしたの、それ」
 呆気にとられて、陽一は訊ねた。
「陽一の家族に挨拶させてください。贈り物があった方が良いでしょう?」
「気ぃ遣わなくていいのに……ってゆーか、なんで薔薇?」
 と、母と妹の理沙がやってきた。ふたりとも、ミラを見るなり驚愕の表情を浮かべた。
「まー! 美少年!!」
「キャ――ッ! かっこいい!! ホントにお兄ちゃんの友達!!?」
 ふたりのテンションの高さに、陽一は苦笑いを浮かべた。予想はしていたが、やはりミラのとりこになってしまった。
「こんばんは。隣に引っ越してきた、魔王ミラといいます。陽一とは、結婚を前提に学友を――」
「わ――ッ!!」
 陽一は慌ててミラの口元を手で押さえた。何いっちゃってんのコイツ? と肝を冷やしたが、幸い母も妹も満面の笑みを浮かべている。
「どうぞ、あがって。お腹空いたでしょう? 夕飯できているから」
 薔薇の花束を受けとった母が、ご機嫌で案内する。妹も、頬を染めて大興奮だ。
 リビングに入ると、めずらしく父もいて、ミラを見て目を丸くした。
「初めまして、陽一のお義父さん。貴方の家族だけは、地球滅亡の日がきても特別に保護を――」
「わ――ッ!!」
 陽一は慌ててミラの口元を手で押さえた。いい加減にしろよ!? という目でミラを睨むが、父は気にした様子もなく、照れた様子で笑っている。
「すごいイケメンだなぁ。隣に引っ越してきたんだって? よろしくね」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
 ミラがその麗しいかんばせにほのかな微笑を浮かべると、家族は、ぽーっとなって動きを止めた。陽一は咳払いをひとつして、ミラのために椅子を引いた。
「座って」
「ありがとうございます」
 食卓につくと、妹がにこにこしながら料理を運んできた。ほうれん草サラダ、唐揚げ、きんぴら、ぬか漬け、白いご飯。湯気のたつチゲ鍋は、母が両手で運んできた。
 ミラは、菫色の瞳をキラキラさせている。全身これ好奇心のかたまりだ。湯気のたつチゲ鍋を覗きこみ、
「わぁ、煮えたぎる地獄の釜茹みたいですね。燃えたつ血と焔の色だ。とても美味しそうです」
「普通に美味しそうっていえよ」
 思わず陽一はツッコミを入れたが、家族は気にしていないようだ。妹は好奇心に瞳を輝かせている。
「ミラ様、チゲ鍋食べたことないの?」
「初めて食べます」
 あらそうなの、と母が小鉢に鍋をよそい、ミラに手渡した。
「ミラ君、遠慮しないでたくさん食べてね!」
「ありがとうございます。いただきます」
 美しい所作で食べるミラに注目が集まる。彼がにっこり笑顔で美味しいです、そういうと食卓の空気が和んだ。とりわけ母は嬉しそうだ。
 確かに美味しそうに食べてるな、と陽一が横目でうかがっていると、妹の視線を感じた。
「なんだよ?」
 妹は、ハハーン? という表情を浮かべた。
「お兄ちゃんとミラ様って、つきあっているの?」
「「ゴフっ」」
 陽一と父親がむせた。
「違うっ」
 慌てる陽一に、母はくすくす笑いながらお茶をさしだした。
「あらあら、陽一も隅に置けないわね。こんなに美少年の彼氏がいたなんて」
 ねー、っと母と妹が笑いあう。小刻みに震えている父を、ミラはいつになく真摯に見つめて告げた。
「必ず幸せにします」
「アホかッ!!!!」
 陽一は思わず立ちあがった。焦って父を見ると、なぜか頬を赤らめていた。乙女みたいに、コクン……と頷いている。
(父さん……!?)
 カオスだ。
 なにをどう弁明しても自爆する気がして、陽一は食べることに専念した。母と妹がきゃあきゃあと色めき立ち、ミラも笑ったり相槌を打ったりして煽情しているが、もう諦めた。
 もぐもぐと食べていると、一瞬会話が途絶えて、テレビニュースのアナウンスが誇張されて聴こえた。
<小学二年生の女の子が行方不明……>
 母はため息をついた。
「近頃物騒よねぇ。早く捕まらないかしら」
 ここ最近、地元で騒がれている少女失踪事件だ。江戸川区に住む十歳の少女が誘拐されて、もう二週間が経つ。警察はパトロールを強化し、町内放送でも情報提供の呼びかけが毎日のように流れているが、芳しい進展はない。
 ひとまず話題が変わったことに安堵しながら、陽一はくちいっぱいに頬張った唐揚げを、ごくっと飲みこんだ。
「理沙も気をつけなよ」
 陽一が注意すると、理沙は肩をすくめた。
「判ってるよ~、学校でも毎日いわれるもん。放課後の校庭も開放時間減っちゃったし。つまらない」
「犯人を知りたい?」
 ミラの言葉に、全員の目が集中する。ミラは陽一を見つめてほほ笑んだ。ありふれた食卓で茶碗と箸を持っていても、ブグローの絵から顕れた黒髪の天使みたいに美しい。ただし、くちもとには悪魔の微笑が浮かんでいるのだが。
「知りたくない。変なこというなよ」
 陽一がきっぱり断ると、そう? ミラは笑顔で受け流した。
 このとき、答えを聞いておくべきだったかもしれない――後に思うのだが、今は知るよしもなかった。
 食事を終えて、ミラを玄関先まで見送ると、
「陽一……」
 自然に顔を寄せてくるので、陽一は焦って顎を手で押し返した。
「やめろ」
「お休みのキスをするだけです」
 両肩を大きな手に包まれて、背を玄関扉に押しけられた。近すぎる。覆い被さるミラの肢体に、圧倒されてしまう。
「家の前ではやめて……」
 陽一が視線を泳がせていると、ちゅっと頬にキスをされた。ぱっと手で頬をおさえて顔をあげると、ミラは優しい微笑を浮かべていた。星明りに照らされた美貌に見惚れてしまい、動けなかった。顔に影が射して、目を閉じると、くちびるに触れるだけのキスが贈られた。
 真っ赤な顔で黙りこむ陽一を見て、ミラは満足そうに笑った。
「お休みなさい、陽一。また明日」
 彼が玄関の門をでて、視界から消えるまで、陽一は動くことができなかった。心臓が煩いほど鳴っている。これでは、おおはしゃぎしていた家族を笑えない。陽一もミラのとりこだ。