HALEGAIA

5章:魔王サタン万歳! - 5 -

 翌日。八時。
 玄関先で陽一が鞄を肩にかけると、見送りにやってきた母が、そういえば、と声をかけてきた。
「ミラ君と一緒にいくの?」
「あー、うん。声かけてみる」
 約束をしたわけではないが、どうせ家は隣だ。インターホンを鳴らしてみよう。そう思いながら玄関の扉を開くと、ちょうどミラがいた。
「お早う、陽一」
 明るい笑顔に、陽一もつられて笑顔になる。
「はよ。八時ジャストじゃん」
「一緒に登校しようと思いまして」
 ミラの言葉に、まぁまぁと母が嬉しそうに笑った。
「ありがとう、ミラ君。ふたりともいってらっしゃい」
 手を振って見送る母に、ミラは愛想よく笑み返した。
「いってきます、お義母さん」
 気安く“お義母さん”なんて呼ぶなよ、と陽一はじとっとした目で長身を仰ぎ見るが、ミラはどこ吹く風で、母はご機嫌だった。
 空は、雲ひとつない晴天。
 透度が高く、真っ青で、じっと見あげていると吸いこまれそうだ。織り重なる樹々のしたを歩くと、宝石のきらめきのような木漏れ陽が躍りながら流れていく。
 通いなれたはずの道も、制服を着たミラと並んで歩くと、非日常に感じる。まさか一緒に登校する日がくるだなんて、魔界ヘイルガイアにいたときは夢にも思わなかった。
 実際、非日常だ。友達と歩いている風でも、ミラは何もかもが現実離れしている。すれ違う人々はミラの美貌に目を奪われているし、散歩中の犬もしっぽをふりふり、今にもミラに向かって駆けだしそうで、リードしている飼い主が必死に押しとどめている。
 学校に着くと、予想はしていたが、想像以上にお祭り騒ぎになっていた。
「「キャ――ッ!! 魔王様~~っ!!!!」」
 全校生徒が集まっているんじゃないかという人数が左右に列をなして、熱狂的に歓声をあげている。色とりどりの応援うちわには“ファンサして”だの“なげCHUして”だの“バーンして”等々書いてある。
(バーンってなんだ!??)
 狼狽えている陽一の隣で、ミラは我関せず飄然ひょうぜんとしている。いや、ちょっと不機嫌かもしれない。
「煩いですねぇ」
 ボッ……掌に焔を閃かせるミラを見て、陽一はぎょっとした。
「燃やすな!?」
 ミラの腕を掴んで、逃げるように昇降口に駆けこんだ。するとミラの靴箱には、手紙やら贈り物がぎっしり詰めこまれていた。
「すげぇな、オイ」
 唖然とする陽一の前で、ミラは指をぱちんと鳴らした。手紙や贈り物が、宙に浮きあがり、ひとりでにゴミ箱に入っていくではないか。
「捨てちゃうの!?」
 驚く陽一に、ミラは小首を傾げた。
「燃やした方がいいですか?」
「いやいや、贈り物を燃やすとかダメだろ! 人として」
「人ではありません、悪魔です」
「人でも悪魔でもいいから、贈り物を人前で捨てるな」
 せめて家に帰ってから処分しろ。視線にこめると、ミラは肩をすくめてみせた。
「なぜ贈り物を靴箱にいれるのでしょう? ゴミかと思いましたよ」
「そういう文化なんだよ」
「命をさしだすなら考えますけど、それ以外の貢ぎ物はちょっと……まぁ、配慮はしましょう」
 ゴミ箱にはいった手紙や贈り物は、ふたたびミラの前にふわふわと戻ってきて、彼がパチンと指を鳴らすと、フッとかき消えた。
「捨てたと判らないように、捨てました」
 それは配慮といえるのか?
 疑問に思う陽一だが、ミラに背中を押されると、釈然としない気持ちながらも歩きだした。その様子を見ていた女子が、キャーキャー騒いでいる。手紙や贈り物を棄てるという暴挙を目の当たりにしても、好意は揺るがないらしい。
「「お早う、魔王様っ」」
 ミラが教室に脚を踏み入れた瞬間、クラスメイトたちは最大級の笑顔で挨拶をよこした。話しかけたそうにしているが、ミラは誰とも目をあわせずに着席した。
「……ミラ、塩対応すぎない?」
 隣に着席した陽一が小声で訊ねると、ミラは美しい微笑を浮かべた。
「視界に入っても殺さずにいるのですから、神対応ですよ。そのうちうっかり殺してしまいそうですけれど」
「やめてやめてやめて」
 蒼褪める陽一。さすが悪魔というべきか、ファンサの概念が違う。
 SHRの時間になり、担任の山中先生が出席点呼を取りながら、興味深そういにミラと陽一を見た。
「魔王様、今朝はすごかったな~。芸能人がきたのかと思ったぞ。遠藤と仲がいいんだな」
 思わず陽一は身を強張らせたが、ミラは全く動じることなく、笑顔でこう答えた。
「陽一は僕のソウルメイトですから」
 女子がきゃあきゃあ騒ぐ。陽一は撃沈、机に突っ伏してしまう。なぜか先生まで照れた様子で、
「そうか。うん、先生はいいと思う。応援しているからな」
 まさかの教師公認である。
 動揺した陽一は、その後の授業は気もそぞろで、なかなか集中できなかった。
 幸い、山中先生のほかに話題にする教師はおらず、四限目の英語の授業が始まる頃には、心の平穏を取り戻すことができた。
 英語の赤坂先生は、まだ二十四歳の綺麗な女性教師だ。少し明るい柔らかな巻き毛を左右に垂らし、華やぎがある。朗らかな性格で授業も面白く、殆どの生徒から絶大な支持を集めている。一部の女子は反撥しているようだが、表立つような拒否ではない。
「今日はシェリーの“Ode to the West Wind”を朗読してみましょう。私が学生の頃に大いに感銘を受けた詩です。原書をプリントしてきたので、配布しますね。二枚で一セットです。各自一つとって、残りを後ろの席に渡してください」
 赤坂先生は手際よく最前列の席に配ると、生徒は一つ手にとり、残りを後ろの席へ手渡した。間もなく全員に行き届いたのを見て、赤坂先生は声をかけた。
「皆さん、プリントは手元にありますか? ……では朗読を……えええっ!?」
 赤坂先生が指名しようとしたとき、換気の為に開けていた窓から、ばさばさ――ッと鳩が飛びこんできた。
「「鳩ッ!?」」
 教室がざわつき、前列の何人かは堪らず席を立ち、後方へと避難した。
「えぇ、どうしましょう? どうしましょう?」
 赤坂先生はおろおろと周囲を見回し、掃除用具のロッカーに目を留めた。機敏な動作でロッカーから長箒をとりだすと、壁に取りつけられたスピーカーのうえにとまっている鳩を見据えた。
 皆が固唾を飲んで見守るなか、赤坂先生は、鳩に向かってそーっと箒を伸ばす。あと少し……というところで、バササ――ッと鳩が羽搏はばたいて、教室はふたたび騒然となった。
「あの、俺捕まえましょうか?」
 見かねた陽一は、挙手して席を立った。赤坂先生が首肯するのを見て、廊下側の窓にとまっている鳩に近づいていく。
「よっちゃん、まさか素手で掴む気!?」
 廊下側の席から避難している圭祐が、戦々恐々と訊ねた。
「爪そんなに尖ってないし、大丈夫だと思う」
 そういって椅子のうえに乗り、静かに手を伸ばし……わしっと両手で鳩を捕まえた。
「「おおおおぉぉおっ!!」」
 この瞬間、クラスメイトのなかで陽一のイケメン度があがった!
 が、照れた陽一が思わず片手で頭を撫でようとし、再び鳩がバササ――ッと羽搏はばたいた。
「「遠藤ぉぉぉ放すなあぁぁぁぁッ!!!」」
 阿鼻叫喚。その叫び声は、救済からの暗転による悲痛な響きを帯びていた。
 そのとき、ミラは救世主よろしく指を鳴らした。鳩はすぐさま応召し、ミラの机に滑空すると、お行儀よく羽を畳んだ。
「「おぉぉぉ……!」」
 奇跡の光景を目の当たりにした生徒たちは、そろって感嘆のため息をもらした。
 鳩は小刻みに震えながら、忠臣よろしく両翼を広げてひれ伏している。
「でていきなさい」
 ミラが命じると、鳩は言葉を理解しているように、すぐさま羽搏はばたき、窓からでていった。
 ワッ!
 拍手喝采の雨霰あめあられ
 皆、今日一のヒーローにカメラを向けている。栗原ひなのも屈みこんで、カメラ小僧よろしく絶妙なアングルから写真を撮っている。
「ありがとう、魔王君。助かりました」
 赤坂先生は感動に瞳を潤ませながら、ミラにお礼をいった。
「どういたしまして」
 美しい微笑に、赤坂先生が頬を赤らめている。
「活躍ついでに、プリントの朗読もお願いできますか?」
「はい」
 ミラはすっくと立ちあがり、朗読を始めた。五つのパートで構成される、それぞれ十四行のソネットの形式を、なめらかで美しい流暢なKing's Englishで読みあげていく。
 人をとりこにする魔性の声だ。先生もクラスメイトも、天にも昇る恍惚の表情を浮かべて聞き惚れている。
 己の声の魅力を知り尽くしているミラは、途中からプリントには目もくれず、陽一を熱っぽい瞳で見つめて暗誦した。
(なんで俺を見るんだよ)
 心のうちで悪態をつきながら、陽一は紅くなった顔を隠すように俯いた。プリントに目を注いでいても、焼けつくような視線を頬のあたりに感じる。
「……こっち見るなよ」
 小声で注意すると、ふふ、とミラが微笑をもらした。再び教室にため息がみちて、花びらが舞ったように見えた。
 やがてミラが朗読を終えると、誰もが感動の余韻に浸って、束の間言葉を忘れて茫然としていた。
 それから、ワッと拍手が起こった。まさかのスタンディングオベレーションである。
「大変美しい朗読でした」
 我に返った赤坂先生は、心からの賛辞を贈ると、ミラから教室全体に視線を彷徨わせ、にっこりした。
「シェリーはこの詩で、自然界を描写しながら、己の子供時代、詩的精神を表現しているの。最後のパートでは、魔力incantationをもった言の葉が世界を目覚めさせていく、無限の想像力を感じさせてくれると思いませんか?」
 生き生きとした口調で解説しながら、赤坂先生は、青年詩人の波乱に満ちた生い立ちに触れもした。感銘を受けたと話していたが、その淀みない説明と情報量から、確かに彼のファンであることが伺えた。
「陽一はどう思いました?」
 ミラに小声で訊ねられ、陽一は視線をそらした。聞き惚れていたこと、胸の高鳴りを認めまいとして。
「発音、綺麗だった」
 淡々と答えたが、ミラは嬉しそうにしている。さっきはスタンディングオベレーションにも動じていなかったのに。
(俺の反応は気にするんだな)
 特別待遇は魔界ヘイルガイアの鳥籠に囚われていたときもそうだったが、陽一の日常で、学校でそうされると伴う実感が違う。
 どうしたって、体温があがってしまう。
 全校生徒の注目の的で、学園のマドンナに好かれていても気に留めない、人間社会に興味のないミラが、陽一のことだけは気にかけているのだ。とても信じられないけれど。

 放課後。
 掃除している陽一とミラのところに、栗原ひなのが近づいてきた。
「魔王様、陸上部のマネージャーになったの?」
 栗原は、おずおずと訊ねた。
「はい」
 そっけなくミラが頷くと、栗原は上目遣いで、
「そっかぁ、本当に遠藤君と仲良しだね……マネージャーって、まだ募集しているかなぁ?」
 黙って話を聞いていた陽一は、箒を握り締めたまま、期待に目を輝かせた。
 かわいい女子マネージャーほしい! というオーラが滲みでているのか、ミラは陽一をちらっと見たあと、栗原に笑みかけた。
「募集終了したそうです」
「そっかぁ~……」
 栗原は残念そうにいった。陽一も残念でならない。がっかりしながら見ていると、彼女が何度となく、ミラの瞳を覗きこもうとするのが判った。美しい稀有けうな菫色の瞳を。
 もやっとした、得体の知れぬ感情が陽一の胸に沸き起こった。
 微妙な気持ちを振り払おうと掃除に専念したが、なかなか消化できず、片づけを終えて部室に向かいながら、つい、ミラに訊ねてしまった。
「ミラさー、モテモテじゃん。つきあいたいとか、思わないの?」
「つきあいたい?」
 ミラはきょとんとした。陽一は気まずくなり、ははっと渇いた笑いをこぼした。
「興味ないか。そんなこと」
 今のところ告白の類を完全スルーしているようだが、その気になれば、学園のマドンナどころか、ハリウッド女優とだってつきあえてしまうのがミラだ。同じ制服を着ていると同級生のように錯覚しそうになるが、とんでもない。彼は悪魔で、魔王なのだ。
「僕は、陽一以外の人間に興味ありませんよ」
 澄み透った菫色の瞳に見つめられて、陽一はドキッっとした。
「……栗原さん、かわいいって思わねぇ?」
「思いません。騒々しいとは思いますが」
 きっぱり受け流すミラに、陽一は苦笑いを浮かべた。
「ミラが相手だと、皆キャラ崩壊しちゃうんだよ。栗原さんも」
「陽一はかわいいって思うの?」
「まぁ、皆思うんじゃない? ……ミラは別として」
 うーん、とミラは考える素振りをみせた。
「かわいい、ねぇ……脆弱な命が生き藻掻く姿は、無様でかわいいと思いますよ。息絶えるまで、つつき回したくなりますよね」
「ならねぇよ」
 真顔で突っこむと、ミラはちょっとだけ黙ってから、優しくほほえんだ。
「陽一はかわいいと思います。自分でも不思議ですけれど、見ているだけで欲情を煽られます」
「欲情いうな!」
 すごむ陽一に、くすっとミラは笑みかけた。菫色の瞳が細められて、とろりと甘くなる。
「したたる官能だけじゃありませんよ。陽一をかわいいと思う瞬間は、たくさんあります。たとえば……無邪気な笑顔がかわいい、えくぼにキスしたくなります。授業中、眠そうに頬杖をついている横顔がかわいい。真面目に記帳している横顔もかわいい。思わずほっぺをつつきたくなる。声も好き。陽一に名前を呼ばれると、ぞくぞくします。笑い声を聞いていると、つられて笑ってしまう。小生意気なところもかわいい、怖いのに強がるところも愛しい。ぎゅって抱きしめたくなる。走っている姿が美しい。汗をふく仕草が艶めかしい、堪らない。めくれたシャツから肌がのぞくたびに、誘惑を感じます。押し倒したい。連れ去りたい。目撃した人間を燃やしたくなる。陽一に頭を撫でられると、なんというか、甘美な情動をけた火箸で搔きまわされるような……言葉にしようのない感覚に犯されます。かわいい、かっこいい、イケメンってああいうときに使えばいいですか? ほかの人間が同じことをしても殺意が芽生えるだけなのに、本当に不思議です。なんでそんなにかわいいんですか? 鳩を手で捕まえちゃう陽一がかわいい。うっかり逃がしちゃうところもかわいい。陽一の行動のいちいちが響く。精を貪りたくなる……だけじゃなく、抱きしめてキスをして、大切にしまって、僕だけが独占して、永久とこしえに愛でていたい。それから、」
「ストップ、ストップ! もういい! 判ったからっ!!」
 陽一は真っ赤になって、言葉を遮った。
 耳まで赤く染まっている陽一を見て、ミラは柔らかな微笑を浮かべた。“愛おしい”と囁くような眼差しで。
「陽一が好き、大好き。全部好き。食べてしまいたいくらい愛おしい」
「もぉ黙れ!!!」
 両耳を手で塞ぐ陽一を見て、ミラは笑った。まばゆいばかりの笑顔で。ミラの笑い声に、世界中が喜んでいる気がした。