HALEGAIA
5章:
部室に入ると、何人か部員がいて着替えをしていた。陽一も自分のロッカーの前にいき、ジャージに着替えようとすると、いきなり時が凍りついた。
まるで透明な琥珀に搦め捕られたみたいに、人も、光の筋に浮かぶ塵すら、微動だにせず固まっている。
「えっ……」
唖然とした陽一は、背後に蠱惑的な温かさが漂うのを感じて、屹 と睨みつけた。
「何した!?」
「どうして服を脱ぐのですか?」
「はぁ? そりゃ、練習するからだよ。ジャージに着替えないと」
単純明快だが、ミラは納得がいかないようだ。菫色の瞳が、不機嫌そうに細められた。
「陽一の羞恥心がよく判らないのだけど、僕がキスしようとすると衆目を気にするくせに、どうして今は素肌を露わにして平気なの?」
「変ないいかたするなよ。運動部なんだから、着替えるのは当たり前じゃんか」
「当たり前? 肌を見せることが?」
「そうだよ、更衣室なんだから」
なんとなく戦闘モードで答えると、ミラの纏う空気もぴりっと緊張感を帯びた。
「普通ねぇ……」
菫色の瞳が迫力を増した。長身を屈めて、陽一の顔の横に手をつく。
強気でいた陽一は、危険な雰囲気を醸 したミラに怖気づいた。悔しいと思いつつ、顔を近づけられると、視線をそらしてしまいそうになる。
「何だよ……」
「そんな裸同然の恰好をさらして、誰かに襲われたらどうするの?」
「誰も襲わねぇよ!」
目をあわせて怒鳴ると、ミラの瞳に奇妙な感情の閃きが見えた。
「今、僕が襲ってますけど?」
むきだしの肩をするりと撫でられ、陽一はカッと頭に血がのぼった。
「やめろ!」
沸き起こった怒りと拒絶に、神の加護が呼応し、陽一の全身は黄金 色に煌めきだした。ミラは忌々しげに眉を顰めると、
「卑怯ですよ、もう! そうやってすぐ光るんだから」
「うるせぇ、俺はこれから練習すんだよ。邪魔するな」
悪態をつきながら素早く着替えを済ませると、ロッカーをしめてミラを睨んだ。
「ほら、着替えたぞ。早く皆を元に戻せよ」
「練習しているところを見学しています」
ミラは腕を組んで、威圧的に陽一を見下ろしている。
「ダメ! ミラがいたら絶対人が集まる。絶対集中できない」
「人目につかないようにします」
「ああ、もう、なんでそんなに見たいんだよ?」
「陽一を見ているのは好きですよ」
「なんでだよ! 見ても別に面白くないと思うけど」
「僕は陽一を識 るために、人間界にきているのですよ? それが叶わないのなら、こんな世界もう滅ぼしちゃおっかな」
ヤバい方向でミラが拗ねた。ただの厨二発言で片づけられないところが、やっかい極まりない。
「……判ったよ。見てもいいけど、邪魔はするなよ」
渋々といった風に陽一が許可すると、ミラはまだ不機嫌そうな顔をしていたが、判りました、と答えて姿を消した。
ふっ、と止まっていた時が動きだした。
衣擦れや、ロッカーの開閉音。平常の環境音が戻ってきて、陽一は一瞬呆けてしまう。我に返って部室をでると、ミラの姿を探したくなる衝動を堪えて、練習を始めた。
股関節を重点的に柔軟ストレッチしてから、ケンケン、Aスキップ、ツースキップ、ハイニー、ハードルドリル等の短距離走者向けのトレーニングメニューをこなし、最後はクラウチングスタート練習だ。
「On Your Marks」
計測係の声にあわせてスタートラインに立つと、姿なきミラの視線が感じられた。どこかで見ているのだろうか?
「Set」
スターティング・ブロックに脚を置いて姿勢を整える。大会でもないのに緊張している。
(――これは練習。いつもと同じ練習だ)
何千回と繰り返してきた動作を頭に思い描く。指先とつま先に集中し、目線を足元の先に。
ヒュィッ! ホイッスル音と共に爆発的に跳びだした。
角度低く二歩目の股関節可動域も広い。前傾姿勢だが潰れない。いい走りだしだ。腕振りはコンパクトにピッチをあげて二次加速に突入。風はやや重いが推進力はある。トップスピードに乗った! いいペースだ。ひたすらに前へ! 前へ!!
「一〇・九七!」
計測係が読みあげた瞬間、
「自己ベストタイ!」
思わず陽一は叫んだ。部員仲間も笑顔を向けてくれる。記録更新には及ばずとも、ぎりぎりだが十秒台だ。高揚感は大きい。
同じ陸上部に、陽一のほかに一〇〇メートル一〇秒台の選手はいない。一一秒で走れれば中高では間違いなくトップクラスで、一〇秒台は選手のなかでも一握りといわれている。
陽一は中学生で既に一一秒台だった。高校の陸上部に入った当初は部員からの風当たりが強く、夏のレギュラー選抜では辛い思いもしたが、それでも走ることをやめなかった。本気で一〇〇メートル走を続けている。目標は一〇秒前半の世界にいくことだ。
練習を終えて水場にいくと、いつものように上半身裸になろうとシャツに手をかけ……思い留まった。今まで気にしたこともなかったのに、ミラが変なことをいうから妙に意識してしまう。
水道の蛇口をひねって、頭から水をかぶる。濡らしたタオルで手足や、シャツのなかに手を突っこんで腹や背中をぬぐうと、気分はだいぶ良くなった。
部室に入ると、ロッカーから鞄をだしてタオルを突っこみ、ジャージのまま部室をでた。家に帰ったら、そのままランニングにいくので、いちいち制服に着替えるのは面倒なのだ。
「一緒に帰りましょう」
扉を開けると、ミラが立っていた。機嫌が直ったのか、柔らかい笑みを浮かべている。
うっかり見惚れてしまった陽一は、身も心もぐらりと傾いた。が、自分に向かってさしのべられた手をぺしっと叩いて、ミラの隣に並んだ。
「つながねーよ」
「残念」
「ずっと見てたの?」
「はい」
「どこにいたの?」
「幻惑で姿を隠していましたが、校庭にいましたよ」
「退屈だったでしょ?」
「いいえ、目の保養でした」
「保養ぉ?」
男共が汗水たらして走る姿のどこらへんが?
「素肌に汗を光らせて、筋肉を躍動させて、陽一の全身から新鮮な生命力とエネルギーが放たれるのを見るのは、なかなか気持ちがいいです」
「生命力って目に見えるものなの?」
「はい。見るだけじゃなくて、感じることもできます。陽一の放つ命のパワーが波のように押し寄せて、躰のなかを炎のように駆け巡るのを感じるのは、とても心地良いです」
「ふぅん……悪魔は皆そうなの?」
「僕が悪魔で、君が陽一だから」
ミラは陽一を見て、優しくほほえんだ。照れて紅くなる陽一に、ミラは笑顔のまま続けた。
「他の人間の走る姿を見たところで、転ばせたい、吹き飛ばしたいくらいにしか思いませんよ」
「絶対にやめろ」
スン……陽一は真顔でいった。
「それに、白いシャツを着て光のなかを走る陽一は、半ば透き通って見えて、天使より天使でした」
「天使ぃ?」
「淡い光の危険な幻惑ですね。黄昏が煌めいて、斜陽に縁取られて走る姿を見ると無性に……穢したくなります」
妖艶な流し目を送られて、背筋がぞくっとした。もはや脊髄反射で、ミラの脇腹にひじ鉄を喰らわす。ふふっとミラは楽しげに笑ったあと、そういえば、と続けた。
「陽一が練習している間に、入部届を提出しておきました」
「マジで? ……ミラにマネージャーとか……」
頭痛を堪えるように、こめかみを押さえる陽一の肩を、ミラはぎゅっと抱き寄せた。
「うぉっ」
「一緒に頑張りましょうね、陽一」
きらきらと輝く笑みを向けられて、陽一の胸に、予期せず温かいものがこみあげた。
ふだんにはない高揚感。胸の高鳴り。恋? 青春の煌めき?
……判らないが、自分でも不思議なほど、ミラと過ごす日々にわくわくしている。
まるで透明な琥珀に搦め捕られたみたいに、人も、光の筋に浮かぶ塵すら、微動だにせず固まっている。
「えっ……」
唖然とした陽一は、背後に蠱惑的な温かさが漂うのを感じて、
「何した!?」
「どうして服を脱ぐのですか?」
「はぁ? そりゃ、練習するからだよ。ジャージに着替えないと」
単純明快だが、ミラは納得がいかないようだ。菫色の瞳が、不機嫌そうに細められた。
「陽一の羞恥心がよく判らないのだけど、僕がキスしようとすると衆目を気にするくせに、どうして今は素肌を露わにして平気なの?」
「変ないいかたするなよ。運動部なんだから、着替えるのは当たり前じゃんか」
「当たり前? 肌を見せることが?」
「そうだよ、更衣室なんだから」
なんとなく戦闘モードで答えると、ミラの纏う空気もぴりっと緊張感を帯びた。
「普通ねぇ……」
菫色の瞳が迫力を増した。長身を屈めて、陽一の顔の横に手をつく。
強気でいた陽一は、危険な雰囲気を
「何だよ……」
「そんな裸同然の恰好をさらして、誰かに襲われたらどうするの?」
「誰も襲わねぇよ!」
目をあわせて怒鳴ると、ミラの瞳に奇妙な感情の閃きが見えた。
「今、僕が襲ってますけど?」
むきだしの肩をするりと撫でられ、陽一はカッと頭に血がのぼった。
「やめろ!」
沸き起こった怒りと拒絶に、神の加護が呼応し、陽一の全身は
「卑怯ですよ、もう! そうやってすぐ光るんだから」
「うるせぇ、俺はこれから練習すんだよ。邪魔するな」
悪態をつきながら素早く着替えを済ませると、ロッカーをしめてミラを睨んだ。
「ほら、着替えたぞ。早く皆を元に戻せよ」
「練習しているところを見学しています」
ミラは腕を組んで、威圧的に陽一を見下ろしている。
「ダメ! ミラがいたら絶対人が集まる。絶対集中できない」
「人目につかないようにします」
「ああ、もう、なんでそんなに見たいんだよ?」
「陽一を見ているのは好きですよ」
「なんでだよ! 見ても別に面白くないと思うけど」
「僕は陽一を
ヤバい方向でミラが拗ねた。ただの厨二発言で片づけられないところが、やっかい極まりない。
「……判ったよ。見てもいいけど、邪魔はするなよ」
渋々といった風に陽一が許可すると、ミラはまだ不機嫌そうな顔をしていたが、判りました、と答えて姿を消した。
ふっ、と止まっていた時が動きだした。
衣擦れや、ロッカーの開閉音。平常の環境音が戻ってきて、陽一は一瞬呆けてしまう。我に返って部室をでると、ミラの姿を探したくなる衝動を堪えて、練習を始めた。
股関節を重点的に柔軟ストレッチしてから、ケンケン、Aスキップ、ツースキップ、ハイニー、ハードルドリル等の短距離走者向けのトレーニングメニューをこなし、最後はクラウチングスタート練習だ。
「On Your Marks」
計測係の声にあわせてスタートラインに立つと、姿なきミラの視線が感じられた。どこかで見ているのだろうか?
「Set」
スターティング・ブロックに脚を置いて姿勢を整える。大会でもないのに緊張している。
(――これは練習。いつもと同じ練習だ)
何千回と繰り返してきた動作を頭に思い描く。指先とつま先に集中し、目線を足元の先に。
ヒュィッ! ホイッスル音と共に爆発的に跳びだした。
角度低く二歩目の股関節可動域も広い。前傾姿勢だが潰れない。いい走りだしだ。腕振りはコンパクトにピッチをあげて二次加速に突入。風はやや重いが推進力はある。トップスピードに乗った! いいペースだ。ひたすらに前へ! 前へ!!
「一〇・九七!」
計測係が読みあげた瞬間、
「自己ベストタイ!」
思わず陽一は叫んだ。部員仲間も笑顔を向けてくれる。記録更新には及ばずとも、ぎりぎりだが十秒台だ。高揚感は大きい。
同じ陸上部に、陽一のほかに一〇〇メートル一〇秒台の選手はいない。一一秒で走れれば中高では間違いなくトップクラスで、一〇秒台は選手のなかでも一握りといわれている。
陽一は中学生で既に一一秒台だった。高校の陸上部に入った当初は部員からの風当たりが強く、夏のレギュラー選抜では辛い思いもしたが、それでも走ることをやめなかった。本気で一〇〇メートル走を続けている。目標は一〇秒前半の世界にいくことだ。
練習を終えて水場にいくと、いつものように上半身裸になろうとシャツに手をかけ……思い留まった。今まで気にしたこともなかったのに、ミラが変なことをいうから妙に意識してしまう。
水道の蛇口をひねって、頭から水をかぶる。濡らしたタオルで手足や、シャツのなかに手を突っこんで腹や背中をぬぐうと、気分はだいぶ良くなった。
部室に入ると、ロッカーから鞄をだしてタオルを突っこみ、ジャージのまま部室をでた。家に帰ったら、そのままランニングにいくので、いちいち制服に着替えるのは面倒なのだ。
「一緒に帰りましょう」
扉を開けると、ミラが立っていた。機嫌が直ったのか、柔らかい笑みを浮かべている。
うっかり見惚れてしまった陽一は、身も心もぐらりと傾いた。が、自分に向かってさしのべられた手をぺしっと叩いて、ミラの隣に並んだ。
「つながねーよ」
「残念」
「ずっと見てたの?」
「はい」
「どこにいたの?」
「幻惑で姿を隠していましたが、校庭にいましたよ」
「退屈だったでしょ?」
「いいえ、目の保養でした」
「保養ぉ?」
男共が汗水たらして走る姿のどこらへんが?
「素肌に汗を光らせて、筋肉を躍動させて、陽一の全身から新鮮な生命力とエネルギーが放たれるのを見るのは、なかなか気持ちがいいです」
「生命力って目に見えるものなの?」
「はい。見るだけじゃなくて、感じることもできます。陽一の放つ命のパワーが波のように押し寄せて、躰のなかを炎のように駆け巡るのを感じるのは、とても心地良いです」
「ふぅん……悪魔は皆そうなの?」
「僕が悪魔で、君が陽一だから」
ミラは陽一を見て、優しくほほえんだ。照れて紅くなる陽一に、ミラは笑顔のまま続けた。
「他の人間の走る姿を見たところで、転ばせたい、吹き飛ばしたいくらいにしか思いませんよ」
「絶対にやめろ」
スン……陽一は真顔でいった。
「それに、白いシャツを着て光のなかを走る陽一は、半ば透き通って見えて、天使より天使でした」
「天使ぃ?」
「淡い光の危険な幻惑ですね。黄昏が煌めいて、斜陽に縁取られて走る姿を見ると無性に……穢したくなります」
妖艶な流し目を送られて、背筋がぞくっとした。もはや脊髄反射で、ミラの脇腹にひじ鉄を喰らわす。ふふっとミラは楽しげに笑ったあと、そういえば、と続けた。
「陽一が練習している間に、入部届を提出しておきました」
「マジで? ……ミラにマネージャーとか……」
頭痛を堪えるように、こめかみを押さえる陽一の肩を、ミラはぎゅっと抱き寄せた。
「うぉっ」
「一緒に頑張りましょうね、陽一」
きらきらと輝く笑みを向けられて、陽一の胸に、予期せず温かいものがこみあげた。
ふだんにはない高揚感。胸の高鳴り。恋? 青春の煌めき?
……判らないが、自分でも不思議なほど、ミラと過ごす日々にわくわくしている。