HALEGAIA
4章:終わりの始まり - 9 -
とある人間界、とある年の十月一日。東京江戸川区。
逢魔ヶ刻 。
高校一年生の遠藤陽一は、いつものように、学校の帰り道を歩いていた。
どこにでもいそうな、ごく普通の少年である。
身長百七十余、体重五十五キロ。勉強はそこそこだが――云々。
遠のく、鴉の啼き声が響いた。
陽一は、足を止めて空を仰いだ。滴り落ちる黄昏のなかを、大鴉が悠々と渡っていく。
落陽は、家並みに最後の残照を投げかげ、世界を黄金に染めながら、あちこちに優しい影を落としている。
親しみ深い、陽一の生まれ育った下街風景だ。
それなのに、異世界のように他所余所しく映るのはどうしたことだろう?
一刹那の間に、途方もない歳月を奇想天外な世界で送り、宇宙の涯 てから生還したかのような錯覚に囚われている。
(帰ってきた……?)
何もかもが、あの日のままだった。制服も靴も鞄も、鞄に入っているiPhoneも、往 き来 する人たちも、全てが元通り。
しかし、もはや当たり前になじんでいた、舌のうえにある刻印 を感じられなかった。
「ミラ?」
彼の名前を呼ぼうとしても、あの複雑な音列を唱えることはできない。
茫然自失状態で立ち尽くしていた陽一は、後ろからやってきた自転車の音に我に返った。
のろのろと歩き始めたものの、世界があまりにも平然としているので、自分は今、夢を見ているのではないか……そんな考えを拭いきれなかった。
夢現 に歩いていると、不意に鼻腔に流れてきた金木犀の香りに、心を奪われた。
そういえば、この時期は街路樹からいい香りが漂ってくるのだ。
(本当に、帰ってきたのか)
鳥籠のなかで幾度となく望郷に駆られた、夢にまで見た、陽一の生まれ育った街。東京江戸川に帰ってきたのだ。
帰宅して、夕餉のいい匂いを嗅いだ途端に、さらなる実感を伴った。
懐かしい家の匂い。美味しそうな肉じゃがの匂い。テレビから流れてくる音……何もかも、記憶にあるがままの、暖かくて平和な、愛おしい我が家だ。
恐る恐る台所に顔をだすと、エプロン姿の母が振り向いた。
「お帰りなさい」
陽一は、思わず涙ぐんだ。慌てて瞬きを繰り返し、滲んだ涙を誤魔化す。
「ただいま……母さん」
母はちょっと不思議そうな顔をしたが、穏やかな笑みを浮かべ、湯だつ鍋に視線を戻した。
陽一は、うち寛いだ夕食の支度の様子に、心を打たれていた。すぐにはその場を動けず、母の背中を不自然でない程度に眺めてから、ゆっくりと二階へあがった。
自分の部屋に入ると、懐かしい匂いがした。淡いグリーンの壁紙、布団に寄った皺や、机にだしっぱなしになっている教科書やノート類まで、最後に見たままだった。
制服を脱いで、クローゼットをあけてジャージをとりだす。大分涼しくなってきたが、まだ半袖で走っている。着替えて階段を降りていき、
「走ってくるー」
台所に向かって声をかけると、いってらっしゃーい、奥から明るい母の声が返ってきた。
ブルーのナイキのランニングシューズを履いて、イヤフォンをして、河川敷までウォームアップがてら軽く走った。
土手に登ると、暮れゆく茜空が視界一面に飛びこんできた。
一瞬、魔界 の燃えるような黄昏と錯覚したが、目を瞬くと、下町柴又の情景が拡がっていた。
沈みゆく太陽が、高い鉄塔と北総線を朱金に縁取り、十月の涼風が、名もない草花に波紋を広げていく。江戸川の水面は緩やかで、黄金色にきらきらと眩いこと。
日々の光景なのに、殊 のほか美しく見える。
自分の住んでいる街は、こんなにも美しい街だったろうか?
しばし見惚れてから、ようやく思いだしたように柔軟を始めた。なまっていることもなく、いつも通りのコンディションだ。早く走りだしたくて、全身がうずうずしている。
「……よし」
一つ深呼吸をしてから、走りだした。
柔らかな土と爽やかな草の匂い、傍らに咲く花々の芳しさ。風が吹くと、それらがまじりあって強く匂うように感じられた。
なんて気持ちいいのだろう――全身で風を感じて、交互に足を繰りだしていると、忽 ち無心になれた。
悩みも、苦痛も、一瞬ごとに忘れて、自分の鼓動だけが聴こえる。耳から流れてくる音楽すらも忘れて、心は茜色の空へ飛んでいく。生きていると実感する。
だから、走るのが好きなのだ。
まるで生まれて初めて走ったかのように、走る喜び、爽快感を全身で味わいながら、十キロという距離をあっという間に走り終えた。
帰る頃には、辺りは群青に包まれていた。
皓々 と輝く満月を見あげながら、魔界 の双 つ並んだ月を思い浮かべた。
東京の星空は、魔界 ほどには明るくない。月と一番星はくっきり明るいが、他の無数の星々は霞んでしまっている。
……ミラは今頃どうしているだろう? 陽一のいた鳥籠は、そのままになっているのだろうか?
異界の様子を想像しながら、帰路についた。
家に帰ってシャワーを浴びると、リビングのソファーに座り、宿題をしている妹の隣でテレビ番組を眺めた。
食卓に母の手料理が並ぶと、席について、三人で食事を始める。父は仕事の帰りが遅く、時間があわないのだ。
「今日ねぇ、ゆかちゃんのお家にいってきた。子犬が産まれたんだよ」
お喋りな妹が、今日の出来事を縷々 、話すのに耳を傾けながら、陽一は相槌を打った。ご飯が美味しくて、暖かくて、この世で最も贅沢な時間に思えた。
電気を消して布団に入るまでは、満ち足りた気分でいられたが、目を閉じると……瞼の奥にミラの顔が思い浮かんだ。
その瞬間、ぱちっと陽一は目をあけた。
「……ミラ?」
応 えはない。魔界 ではいつでも呼べたのに、ここでは絶対に呼ぶことができない。
そもそも呼ぶ必要はあるのだろうか?
望んでいた生活に戻ってこれたのだから、何も問題ないはず……なのに、奇妙な喪失感に浸されている。
死ぬ思いをして、やっと戻ってこれたというのに、魔界 が、ミラが恋しいと感じている。
出会いがあまりにも常軌を逸していたから、彼に対する感情が好意なのか依存なのか、うまく判別がついていなかった。けれども今、胸に迸る感情はとても単純なものだ。
会いたい。
話したい。
声を聞きたいと思っても、連絡のしようがない。電話もLINEも使えない、刻印 もないのだ。ミラの方から会いにきてくれないと、どうしようもできない。
(……あいつ、会いにくるかな?)
そう思った自分に、あらためて驚かされた。唇に残る余韻に、甘さと哀切とが胸に拡がっていく。
(そっか、俺……あいつのこと……)
ゆっくり繰り返す瞬きのなかに、これまで幾度も盗み見てきた菫色の瞳が、鮮やかに思いだされる。
愕然となる。胸が詰まりそうになる。涙が溢れそうになる。
ようやく判ったこの気持ちを、この世界にいない相手に、どう伝えればいいのだろう?
高校一年生の遠藤陽一は、いつものように、学校の帰り道を歩いていた。
どこにでもいそうな、ごく普通の少年である。
身長百七十余、体重五十五キロ。勉強はそこそこだが――云々。
遠のく、鴉の啼き声が響いた。
陽一は、足を止めて空を仰いだ。滴り落ちる黄昏のなかを、大鴉が悠々と渡っていく。
落陽は、家並みに最後の残照を投げかげ、世界を黄金に染めながら、あちこちに優しい影を落としている。
親しみ深い、陽一の生まれ育った下街風景だ。
それなのに、異世界のように他所余所しく映るのはどうしたことだろう?
一刹那の間に、途方もない歳月を奇想天外な世界で送り、宇宙の
(帰ってきた……?)
何もかもが、あの日のままだった。制服も靴も鞄も、鞄に入っているiPhoneも、
しかし、もはや当たり前になじんでいた、舌のうえにある
「ミラ?」
彼の名前を呼ぼうとしても、あの複雑な音列を唱えることはできない。
茫然自失状態で立ち尽くしていた陽一は、後ろからやってきた自転車の音に我に返った。
のろのろと歩き始めたものの、世界があまりにも平然としているので、自分は今、夢を見ているのではないか……そんな考えを拭いきれなかった。
そういえば、この時期は街路樹からいい香りが漂ってくるのだ。
(本当に、帰ってきたのか)
鳥籠のなかで幾度となく望郷に駆られた、夢にまで見た、陽一の生まれ育った街。東京江戸川に帰ってきたのだ。
帰宅して、夕餉のいい匂いを嗅いだ途端に、さらなる実感を伴った。
懐かしい家の匂い。美味しそうな肉じゃがの匂い。テレビから流れてくる音……何もかも、記憶にあるがままの、暖かくて平和な、愛おしい我が家だ。
恐る恐る台所に顔をだすと、エプロン姿の母が振り向いた。
「お帰りなさい」
陽一は、思わず涙ぐんだ。慌てて瞬きを繰り返し、滲んだ涙を誤魔化す。
「ただいま……母さん」
母はちょっと不思議そうな顔をしたが、穏やかな笑みを浮かべ、湯だつ鍋に視線を戻した。
陽一は、うち寛いだ夕食の支度の様子に、心を打たれていた。すぐにはその場を動けず、母の背中を不自然でない程度に眺めてから、ゆっくりと二階へあがった。
自分の部屋に入ると、懐かしい匂いがした。淡いグリーンの壁紙、布団に寄った皺や、机にだしっぱなしになっている教科書やノート類まで、最後に見たままだった。
制服を脱いで、クローゼットをあけてジャージをとりだす。大分涼しくなってきたが、まだ半袖で走っている。着替えて階段を降りていき、
「走ってくるー」
台所に向かって声をかけると、いってらっしゃーい、奥から明るい母の声が返ってきた。
ブルーのナイキのランニングシューズを履いて、イヤフォンをして、河川敷までウォームアップがてら軽く走った。
土手に登ると、暮れゆく茜空が視界一面に飛びこんできた。
一瞬、
沈みゆく太陽が、高い鉄塔と北総線を朱金に縁取り、十月の涼風が、名もない草花に波紋を広げていく。江戸川の水面は緩やかで、黄金色にきらきらと眩いこと。
日々の光景なのに、
自分の住んでいる街は、こんなにも美しい街だったろうか?
しばし見惚れてから、ようやく思いだしたように柔軟を始めた。なまっていることもなく、いつも通りのコンディションだ。早く走りだしたくて、全身がうずうずしている。
「……よし」
一つ深呼吸をしてから、走りだした。
柔らかな土と爽やかな草の匂い、傍らに咲く花々の芳しさ。風が吹くと、それらがまじりあって強く匂うように感じられた。
なんて気持ちいいのだろう――全身で風を感じて、交互に足を繰りだしていると、
悩みも、苦痛も、一瞬ごとに忘れて、自分の鼓動だけが聴こえる。耳から流れてくる音楽すらも忘れて、心は茜色の空へ飛んでいく。生きていると実感する。
だから、走るのが好きなのだ。
まるで生まれて初めて走ったかのように、走る喜び、爽快感を全身で味わいながら、十キロという距離をあっという間に走り終えた。
帰る頃には、辺りは群青に包まれていた。
東京の星空は、
……ミラは今頃どうしているだろう? 陽一のいた鳥籠は、そのままになっているのだろうか?
異界の様子を想像しながら、帰路についた。
家に帰ってシャワーを浴びると、リビングのソファーに座り、宿題をしている妹の隣でテレビ番組を眺めた。
食卓に母の手料理が並ぶと、席について、三人で食事を始める。父は仕事の帰りが遅く、時間があわないのだ。
「今日ねぇ、ゆかちゃんのお家にいってきた。子犬が産まれたんだよ」
お喋りな妹が、今日の出来事を
電気を消して布団に入るまでは、満ち足りた気分でいられたが、目を閉じると……瞼の奥にミラの顔が思い浮かんだ。
その瞬間、ぱちっと陽一は目をあけた。
「……ミラ?」
そもそも呼ぶ必要はあるのだろうか?
望んでいた生活に戻ってこれたのだから、何も問題ないはず……なのに、奇妙な喪失感に浸されている。
死ぬ思いをして、やっと戻ってこれたというのに、
出会いがあまりにも常軌を逸していたから、彼に対する感情が好意なのか依存なのか、うまく判別がついていなかった。けれども今、胸に迸る感情はとても単純なものだ。
会いたい。
話したい。
声を聞きたいと思っても、連絡のしようがない。電話もLINEも使えない、
(……あいつ、会いにくるかな?)
そう思った自分に、あらためて驚かされた。唇に残る余韻に、甘さと哀切とが胸に拡がっていく。
(そっか、俺……あいつのこと……)
ゆっくり繰り返す瞬きのなかに、これまで幾度も盗み見てきた菫色の瞳が、鮮やかに思いだされる。
愕然となる。胸が詰まりそうになる。涙が溢れそうになる。
ようやく判ったこの気持ちを、この世界にいない相手に、どう伝えればいいのだろう?