HALEGAIA

4章:終わりの始まり - 10 -

 一ヶ月後。
 陽一は日々をつつがなく過ごしていたが、以前と全く同じ、とはいかなかった。
 魔界ヘイルガイアに落ち、ミラとであい、言葉ではいい尽くせない驚異を体験したあとで、元の自分と同じでいられるはずもなかった。
 もう舌に刻印スティグマはなく、あの壮絶な日々は夢だったのかと思う瞬間もあるが、説明しようのない喪失感が、あれは現実に起きたことなのだと思い知らせた。
 ミラを忘れられない。決して、忘れられるはずがない。
 ふとした瞬間に、とりわけしたたる黄昏の刻限に近づくと、美しい悪魔のことが思いだされた。
 自分でも意外なほど、陽一はミラを恋しく思っていた。また会いましょうね……そういったくせに、彼はちっとも姿を見せない。
(俺のこと、もう忘れたかな?)
 なにせ放埓ほうらつなる悪魔だ。執着が別に移ったとしても驚きはしない。むしろ今までがおかしかったのだ。
 あんな恐ろしい世界とは永久にさようならだ。元の生活に戻れたんだ。万々歳じゃないか。
 そう思ってみても、寂寥感を拭えない……
 恐ろしい思いもたくさんしたはずなのに、思いだされるのは、目も眩むような神秘感、驚異、陶酔ばかりだ。
 追憶のなかで美化されたのかもしれないが、魔界ヘイルガイアは、蠱惑的な幻想世界だった。
 この世には決して存在しえない、聖霊も天使も悪魔も、無数に浮かぶ鳥籠も、美しく奇天烈な楽園コペリオンも、世紀末のような黄昏も、なによりも、ミラという魔王がいた……
 目を閉じると、ミラの姿が思い浮かぶ。日毎夜毎ひごとよごと、悪魔につきまとわれているみたいに、戻らないものに思いを寄せ……心は憂愁に沈んだ。

 とある朝。晴天。
 超弩級の衝撃は、やはり突然にやってくる。
 隣人が、早朝から引っ越し作業をしていること以外は、いつもと同じ朝だった。
 いつもと同じ道を歩いて、沿線に咲くコスモスを眺めて、いつもと同じ時間に登校した。
 教室はざわついていて、生徒たちはおしゃべりをしている。陽一も、友達とたわいもない雑談をしていた。ホームルームの時間になり、担任が教室に入ってくると、生徒たちはようやく着席し始めた。
「今日は、転校生を紹介するぞー」
 その言葉に生徒たちは興味津々という顔になり、一斉に教壇に注目した。
「男? 女?」
 生徒の言葉に、担当教師はにやりと笑ってみせた。
「驚くなよ、すごいイケメンだぞ」
 俄かに教室は騒がしくなった。女子ははしゃいだ声をあげている。だが、彼等は、扉を開けて入ってきた少年を一目見るなり、ざわめきをぴたりとおさめた。そして、そろって賛嘆のため息を漏らした。
 入ってきたのは、制服姿のミラだった。
 黒髪に菫色の瞳。此の世ならぬ(事実此の世のものではない)美貌に、クラス中の視線が釘づけになっている。
 陽一は、開いた口が塞がらなかった。
「えー……この通りイケメンだが、あまり見惚れないように」
 と、教師自身が見惚れきった、上擦った声でいった。彼は声の調子を整えるように咳払いをし、電子黒板にペンで名前を書いた。

 魔王ミラ。

 陽一は雷に撃たれたように愕然とした。口を手で押さえ、制服姿のミラを凝視すると、菫色の虹彩に悪戯めいた光を灯して、見つめ返してきた。
 彼は教壇の横に立ち、万人を魅了するであろう笑みを浮かべた。
「初めまして、魔王ミラです。陽一をもっとよくるために、魔界ヘイルガイアからきました。好きなものは陽一です。この世界はいずれ滅ぼしますが、もうしばらく様子を見ようと思うので、安心してください。それから、僕の席は、陽一の隣でお願いします」
 悪魔が笑顔でほざいた。
 彼の口から飛びだした問題発言の数々に、誰も疑問を覚えないのか、陽一を除いた全員が、天の啓示を賜ったかのように恍惚とした表情で頷いている。感激のあまり、涙を流している者すらいた。
 笑止千万。ただの厨二発言で片づけられないところが恐ろしいが、陽一は一人、笑いださぬよう必死に口を手でおさえねばならなかった。
(なんだその名前! まんまじゃねーか! ちっとも会いにこないと思っていたら、コレかよ。確実に俺を笑わせにきてるだろう……っ)
 ミラはぷるぷる小刻みに震えている陽一を見て、莞爾かんじと笑み、軽く手を振ってみせた。
「仲良くしてくださいね」
 陽一に向けられた言葉であったが、生徒たちは自分が賜ったものと思いこみ、恍惚の笑みを浮かべた。瞳のなかには星が煌めいている。
 ホームルームが終わった途端に、ミラの席に人だかりができたことはいうまでもない。ミラは群がる生徒を相手せず、魔力という傀儡で、クラスメートたちを着席させた。
 普段は騒がしい教室が、全員着席して黒板を向いている光景は異様である。
「おい、ミラ!」
 陽一は焦ったようにいった。ミラは満面の笑みで陽一の前にやってくると、妙にかわいらしい仕草で首を傾げた。
「久しぶりですねぇ、陽一。元気にしていましたか?」
「皆になにした!?」
「ちょっと黙ってもらっただけです……これでいいですか?」
 と、ミラが指を鳴らすと、沈黙していた生徒たちは、目を瞬き、再び活動を始めた。ただし、ミラと陽一には不自然なほど注目していない。
 唖然とする陽一の手を引いて、ミラは教室から連れだした。
「おい、どこいくんだよ?」
「屋上です」
 そういってミラは、迷うことなく屋上へ向かった。扉を開けると、陽一が止める間もなく、授業をさぼって一服していた上級生たちを強引に追い払ってしまった。
 仕方がなく陽一は、ミラと一緒にフェンスの傍に寄り、校庭を眺めおろした。
「陽一は、飽きもせず毎日走っていますね。楽しいですか?」
 陽一は驚いて、白皙はくせきの美貌を見つめた。
「なんで知って……っていうか、マジで何しにきたんだよ?」
 ミラは肩をすくめ、
「もちろん、陽一に会いにきたんですよ」
 まだ強張っている顔をみて、苦笑し、こう続けた。
「そんなに警戒しないでください。なにも陽一の生活を滅茶苦茶にしにきたわけではありませんよ」
「滅ぼすっていったじゃん」
 と、胡乱げに陽一。
「人間界の末路なんて、どこも同じですよ。大地変災厄は免れません。まぁ、この世界においては今のところ保留ですけれど」
「……じゃあ、なんできたの?」
「会いにいくといったでしょう? 観光案内をしてもらおうと思って」
 いいながらミラは、菫色の瞳に甘やかな微笑をにじませた。
 陽一は虚を衝かれた顔になり、押し黙った。確かにミラはそういったが……このような行動にでるとは思っていなかった。
「……本当に? そのために日本にきたの? わざわざ、転校までして?」
「その方が、陽一の傍にいられるでしょう?」
「でも、人間を見ると殺意が芽生えるんじゃなかったの?」
 悪魔は殺人淫楽狂のはずである。ところが、ミラは自信ありげにほほえんだ。
「その辺も対策済です」
 そういって、右手首に嵌めている金鎖の輪を見せる。
「天使の輪です。これがあれば、悪魔でも人間を殺さない程度には平和の心を維持できるんです」
 陽一は腕輪を凝視し、生唾を呑みこんだ。
「……絶対に外すんじゃねーぞ?」
 ミラはにっこりした。
「はい。とはいえ、自らを封じてまで人間界におりようとする奇特な悪魔は僕くらいなので、当面の間は、上級悪魔の出入りを原則禁じておきます」
「頼むぞ?」
「会えて嬉しいですよ、陽一。なるべく自然なかたちで傍にいられる方法を選んだつもりです。今日から僕と陽一は親友ですからね」
 ミラは嬉しそうにいった。
 陽一の心中は複雑だった。会えて嬉しいような、やっぱり不安なような……その腕輪がなければ、世界は崩壊するのだろうか?
「僕に会えなくて、寂しくありませんでしたか?」
「別に」
 陽一がそっけなく返事をすると、ミラは面白がるような表情で目を覗きこんできた。
「本当に?」
 陽一は無言のまま、濃いまつ毛に縁取られた紫の瞳を見つめ返した。
 本当は、ミラに会いたかった。舌のうえに彼の印がないことが、たまらなく不安で、寂しくて、辛かった。このまま二度と会えないかもしれない……そんな風に怯えていた。
「キスしてもいいですか?」
 ミラは空気を吸うような気軽さで訊ねてくる。陽一は頭痛をこらえるように、額を手でおさえた。
「普通、友達はキスしないから」
「僕はしたいです。陽一もしてほしいでしょう?」
 相変わらずの尊大発言である。じろりと睨んだものの、期待に顔を輝かせているミラを見ると、怒ることは難しかった。
「……全く」
 陽一はため息を吐くと、爪先立ちになってミラの襟を引っ張り、そっと唇を押し当てた。
 ミラは驚いたように目を瞠り、陽一、と感動気味に呟いて表情を綻ばせた。
「嬉しい、初めて陽一からしてくれましたね」
 陽一は照れて、そっぽを向いた。
「……ファースト・キスの仕切り直しな」
 これまでさんざん唇を奪われてきたが、自分の意思で、自分からしたのはこれが初めてだ。
 と、腰に腕をまわされて、ぐっと躰がもちあがった。
「わっ」
 再び唇が重なり、素早いが、しっかりとキスをした。舌のうえにのせられた印に、陽一は高揚感を覚えた。
 最後に、二度、三度と舌を触れ合わせてから顔を離す。精緻に整った顔を見つめながら、陽一は困った顔になる。ミラは微笑を浮かべて、陽一の髪を撫でながら、
「キス友に昇格ですね」
「ねぇよ、どんな友達だよ。今のは特別だから、もうないからっ!」
「えー、早く恋人になりましょうよ」
「……」
 恥ずかしげに陽一が顔をそむけると、ミラに頬を撫でられた。
「こっちを向いてください」
 意地でも視線をあわせまいとしていると、頬を掌に包まれた。
「ふふ、照れているの? かわいい」
「うるせ」
「嗚呼、いい気分です……陽一は? ご機嫌いかがですか?」
 ミラは首を傾けてほほえんだ。お決まりの台詞をきいて、陽一は、珍しくほほえみ返した。
「俺も、いい気分だよ」