HALEGAIA

4章:終わりの始まり - 2 -

「魔王さま」
 重苦しい空気に、ジュピターは全身からどっと汗がふきだすのを感じた。命運が刻々と削られていくことを、嫌というほど感じとっていた。
「二度はないと警告したはずです」
 ミラは冷嘲的な笑みを浮かべた。一介の人間では、ジュピターの蠱惑に抗することができないのは判っているが、陽一相手だと、そう簡単に納得できないものがあった。
「ちょっと、何する気?」
 不穏な空気を察知して、陽一が口をはさんだ。
「陽一は勘違いしていますよ。ジュピターは聖霊ですが、慈愛の化身ではありません。僕が絡むと、忽ち嫉妬の権化にかわってしまう魔性です」
 冷徹な視線を向けられ、ジュピターは項垂れた。陽一は困惑し、ジュピターとミラの顔を交互に見比べた。
「でも、このひとはビショップさんの知り合いで……きっと天界にかけあってくれて……俺を助けようとしてくれたんだ」
 ミラは肩をすくめてみせた。
「確かにビショップの知りあいですが、陽一を助けようなんて思っていませんよ。森に置き去りにした時といい、あわよくば陽一が死ねばいいと思っているのですから」
「えっ?」
 陽一は問いかけるようにジュピターの横顔を見つめた。森に連れ去られた件に、彼女は関係しているのだろうか?
 ジュピターは陽一を見て、憂慮を含んだ笑みを浮かべた。すまなそうな、切なそうな笑みは、彼女によく似合う。この笑みに、自分は騙されていたのだろうか?
 ミラはジュピターを見据え、冷たくこう命じた。
「真実を話しなさい」
 上位次元の支配を受けて、ジュピターは呻いた。
「わたくしは……魔王さまの寵愛を受ける、人間風情が、憎らしかった」
 陽一は驚きに目を瞠った。
「ほぅらね、彼女は嘘を吐いていたんですよ」
 ミラはしたり顔で頷いてみせたあと、おもむろに席を立ち、悠然と階段をおりてきた。ジュピターの前で足を止め、冷たい眼差しで睥睨すれば、儚げな聖霊の肩はさざなみのように震えた。
 陽一は、その様子をはらはらしながら見守っていた。彼女が厳しく叱られるのではと恐れたが、叱るなどではなまぬるかった。
 次の瞬間、ミラはなんの躊躇もなく、文字通りに、彼女を燃やした。
「きゃあぁぁっ!!」
 痛々しい悲鳴が響いた。呆気にとられた陽一は、我に返るなりミラに詰め寄ろうとした。だが、左右から肩を強く押さえつけられているので、殆ど身動きはできなかった。
「おい!? 何してるんだよ!?」
 噛みつかんばかりの怒声にも、ミラは少しも動じなかった。
「罰したくても、陽一を傷つけることはできませんし、代わりに彼女を罰します」
「なんで!? やめろ! やめろよぉッ!!」
 恐怖で全身の震えが止まらなかった。炎の熱さが伝わってきて、衣服のしたに冷や汗ともつかぬ嫌な汗が流れる。
「やめてくれっ!!」
 地獄の火炎に炙られ、ジュピターの肌はたちま火脹ひぶくれに覆われた。膨らんだ皮膚が破裂し、肉重吹しぶいて、美貌の見る影もなくなっていく。
「うわあぁッ、やめてくれ! そんなことをしないでくれ! ごめんなさい、謝るからっ! 俺が悪かったから……っ」
 陽一は絶叫し、泣いて喚いて懇願した。ミラはやめるどころから、いっそう火炎を増した。七転八倒に苦しむジュピターの痛哭つうこくを、快い刺激とでも感じているのか、笑みすら浮かべている。
 常軌を逸しているが、業火の火影が揺らぎ、光と影が美貌のうえで交錯する様は、破滅的に艶やかだった。
「時間をかけてじっくり燃やしましょう」
 残酷無邪気に笑うミラに、陽一は、何もいい返せなかった。うう、ああ、と意味をなさぬ唸り声しかでてこなかった。
 かわって、という声が聴こえた。
 正体を探して、陽一が火焔ほむらに目を凝らすと、黒洞々こくとうとうとした双眸が、陽一を見ていた。
 かわって。
 びくっとする陽一に、不可視の、圧倒的な音の洪水が襲いかかる。

 かわって かわって かわって かわって かわって かわって
 かわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわってかわって……

 音の衝撃に顔をなぶられ、窒息しそうだった。躰を押さえつけられているからではなく、金縛りにあったかのような、霊的な拘束に縛られて、全身の自由がきかない。
 茫然とジュピターを凝視している陽一を眺めおろし、ミラはほほえんだ。
「代わってあげたら?」
 陽一は、はっとなった。かわって――変わって、違う。代わって?
 音の羅列が、意味を伴う漢字に変換された時、ぞぞぞ……っと全身の肌が総毛立った。
 叫びだしそうになった。必死に焔から目を逸らし、ミラを振り仰いだ。紫の瞳が、何もかもを見透す魔性の瞳が、陽一を見ていた。
 陽一は、今こそ地獄の悪魔を見る目でミラを見た。
 声が止んだ。
 ジュピターの悲鳴も弱々しくなり、最後には聞こえなくなった。
 残酷な処刑が終わったあと、陽一は一言も発することもできなかった。全身にびっしょりと汗をかいていた。額から、首から汗が流れ、背中のシャツが冷たい汗で張りついている。
「そんなに深刻な顔をしなくても、聖霊ですから、すぐにまた現れますよ」
 ミラは恩寵のようにつけ加えたが、陽一の耳に届いていなかった。
 鈍重な思考をどうにか働かせ、ようやくミラの言葉を呑みこんだものの、黒炭化してぴくりとも動かぬジュピターが、この状態から復活するとは思えなかった。
「こんな……こんな酷いこと……仲間なんじゃないの?」
「仲間?」
 ぞっとするほど淡泊で、冷酷ないらえだった。
 しかしミラは、陽一の目に浮かんだ絶望と恐怖の表情に、何故か胸が騒いだ。
 やりすぎた? 嫌われた?
 まるで相手の機嫌を伺うような、迸るような感情に動揺させられたといっていいほどで、今すぐに弁明せねばという焦燥に駆られた。
 ひとまず、指を鳴らし、ジュピターの遺骸を陽一の視界から消した。咳ばらいし、柔らかな声を意識しながら、唇を開いた。
「これでしまいです。僕の気も済みました。ほら、もう怖いことはありませんよ」
 陽一は、はらはらと涙をこぼしていた。
「もう耐えられない……こんなの……こんなの……酷すぎる……助けて……っ」
 慈悲を与えるつもりで、ミラは優しくほほえんだ。陽一を拘束している配下をさがらせ、へたりこむ陽一の前で、ゆっくり膝を折った。
「もちろん、助けてあげますよ。この魔界ヘイルガイアで僕だけが、陽一を守ってあげられる唯一の砦なのですから」
 さしのべられる優美な手を、陽一は茫然と見つめていた。
「これに懲りたら、逃げようなんて考えないことです。何かあれば、先ず僕を呼んでください」
 ミラは優しくいったが、陽一は弱弱しく首を振り、頷こうとしなかった。
 寒々とした虚しさと心細さが胸に忍び寄り、金庫のように心に重くのしかかっている。張りつめていた弦がぷつんと切れたように、無気力に襲われ、哀しみの闇にとざされてしまっていた。
 その様子に、ミラは困惑させられた。
 普段は溌剌とした魂が、今は消え入る灯のようにささやかに見える。
 人間が、陽一が、このような状態に陥ることは、知っている。
 知っているはずなのに、何百千万と似たような光景を目にしてきたというのに、今この瞬間、魔界ヘイルガイアの霊脈が冷えていくように感じられるのは、どうしたことだろう?
「陽一。ほら、僕の手を取って」
 けれども、陽一が応じようとしないので、ミラは次第に焦れた。魂の奥底で、上位次元征服者ならではの、神秘的な葛藤が蠢くのを感じた。
 悪魔の秘儀でいかようにでもできるはずなのに、今の陽一には、物理はおろか、蠱惑や傀儡の精神的類も通用しない。彼にかけられた加護たるや絶大なもので、触れようにも触れられず、無理に迫れば、精神に支障をきたす恐れがあった。
 全能の神が施した加護は、人間には強すぎる。祝福であると同時に呪いだった。
 この状況が、ミラをかつてないほど苛立たせ、判断を誤らせた。
「判りました」
 ミラは冷たくいうと、陽一に触れずして、攫うように鳥籠に移動した。それから、半二階も、丸卓も、ギターも、楽園百科も、観葉植物も、鳥籠の調度の何もかもを消しさり、空っぽの状態に戻してしまった。
 陽一は、声をあげることもなく、不満を訴えることもなく、ただ悄然しょうぜんと項垂れていた。
「少し、頭を冷やしなさい。どうするべきか答えがでたら、今度こそ僕を呼んでください」
 念押すようにいいおいて、ミラは姿を消した。
 のちに、どれほど悔やむとも知らずに。