HALEGAIA
4章:終わりの始まり - 1 -
深淵から意識が浮上した時、陽一は、ミラの両腕に抱えられた状態で、要塞めいた城――魔王城 の前にいた。
土台から塔の頂まで、垂直の黒々とした狭間胸壁が延々と続いており、防壁の内部のさらに高いところに、蒼古とした宮殿が佇んでいる。
あまりの広大さに、陽一は状況も忘れて唖然となったが、ミラと目が遭ったと思ったら、次の瞬間には広々とした空間にいた。
玉座の配された、荘厳な部屋である。
重厚な織りの綴錦 や、彩色陶板や金箔、縞瑪瑙で埋め尽くされ、このうえなく絢爛豪華だ。
床は磨き抜かれた多彩な石が敷かれており、円形の穹窿 天井はあまりの高さで、天辺が霧のなかに消えているほどだ。
正面に幅広の階段があり、そのうえに石に巧緻な彫刻を施した美しい巨大な玉座がある。肘掛は猛禽の鉤爪の形状で、高い背もたれには、折りたたまれた翼の意匠、翼と翼のあいだに、鳥の頭部の骨のような石造、目には紅玉が嵌めこまれており、鋭い光を放っている。
ミラは陽一を腕からおろし、配下に預けると、跪く後衛たちに見守れながら、王者然とした足取りで階段をのぼり、豪奢な椅子におさまった。
一方の陽一は、玉座から一段さがった床上で、裁きを受ける罪人よろしく、左右から肩を押さえつけられていた。
彼我 の立場は一目瞭然だった。
陽一は、肩を押さえている一方の悪魔に見覚えがあった。確かオデュッセロと名乗った。怜悧な貌に浮かんだ冷ややかな嗤いを見て、怯懦 を蔑まれていると感じた。気を引き締めて顔をあげたものの、ミラと目が遭った途端に、勇気は消し飛んでしまった。
「ようこそ、魔王城 へ」
高みから、ミラは笑みを浮かべていった。緊張に強張る陽一を眺めおろし、全く、と続ける。
「どうして、僕を呼ばないのですか? この間もいいましたよね。刻印 を与えたのだから、陽一はいつだって僕の名前を呼ぶことができるんですよ」
砕けた口調だが、睥睨する眼差しには、辛辣で冷たい煌めきがあった。陽一は怯え、震えながら、唇を戦慄 かせた。
「……呼べないよ。あんな、あんな風に、酷いことをするミラを見せられたあとで、ミラを呼べるわけない」
「酷い?」
ミラは非の打ちどころのない美しい形の眉をひそめた。
「街を滅茶苦茶にして、人間を残酷にいたぶって……俺と同じ人間に見えた……小さい女の子にも……なんで、あんなことするんだよ?」
最後の言葉は怒りを孕み、一瞬、陽一の瞳から怯えが消えた。
「陽一と同じはずがないでしょう。第一、理由なんてありませんよ。殺したいから殺しているだけです」
ミラは冷笑的にいった。さらに続ける。
「我々は悪魔です。変な顔の人間を見たら殺したくなるし、恋人を見たら、片方が見ている前でもう片方を犯したくなるし、笑っている人間を見たら、恐怖に歪んだ顔を見たいと思うんです。悪魔というのは、人間を前にすると、嬲らずにはいられないものです」
「俺に対しても?」
ミラの紫の瞳が暗さを帯び、陽一を睨みつけた。
「そんなわけないでしょう。こんなに大切にしているのに」
陽一は口元を歪めた。ミラの線引きが理解できない。とんでもない価値の転換である。彼自身は矛盾に気がついていないのだろうか? どうすれば、そのように支離滅裂な執着を正当化できるのだろう?
だが、疑問を口にする前に、ミラが続けた。
「いいたいことは判ります。ですが、人道や敬意、慈しみ、思慮分別の則 なんてものは悪魔には通用しません。我々が人間にとって酷い真似をするのは、天上天下の摂理なのですから」
陽一は顔をしかめた。
「摂理? 神様が好き勝手に世界を作って、いらなくなったら、悪魔に好き勝手にさせるのが摂理なわけ?」
「そうですよ」
「だったら、最初から創らなければいいのに。壊すくせに、なんで創るんだ?」
「答えなんてありませんよ。善も悪も区別なく、三千世界は無思慮に創造されますから。陽一にとって、理解し難いということは判ります。だけど、この摂理と僕にとっての陽一の存在は、全く別の話なんです」
彼の声は真剣そのもので、陽一は反駁 を飲みこんで押し黙った。けれども……
“魔王さまなら、いつでも陽一を人間界に帰せますよ”
ジュピターにいわれた言葉が、頭のなかで明滅している。
「これだけは教えてほしいんだけど……家に帰れるって、本当なの?」
ミラは不敵な笑みを浮かべた。
「帰しませんよ。少し目を離した隙に、天界 に通じるとは驚きました。人間にしては大胆ですね、陽一は」
ということは、つまり、帰せるのか。
陽一は表情を凍りつかせた。全身を有刺鉄線に搦め捕られ、四肢から、心臓から、流血したような痛みが走った。
ジュピターのいった通り――この男は、家に帰りたいと項垂れる陽一を宥めながら、恬然 と虚偽を吐いていたのか!
「なんだよ、それ……俺、ずっと帰りたいって、いってたじゃん……知ってて、お前……どうして」
「あなたの住む世界を滅ぼします、なんていわれて正気でいられましたか?」
悪魔じみた憫笑 を向けられ、陽一は、唇を戦慄かせた。心に、裏切られたという感覚が冷たい幽霊のように偲び入ってきた。
「俺の日常を壊しておいて……そのうえ、滅ぼすって……よくもそんなことがいえるな。人をなんだと思ってるんだ?」
相手は放埓 なる悪魔。敬意や思慮分別の則 は通用しない。好奇心旺盛にして自由、傲岸不遜であり、神々の怒りにも無知頓着な悪魔――そういい聞かせても、こみあげる憤怒を抑えることができなかった。
「なんで俺が責められないといけないんだ? お門違いだろ……そっちこそ、土下座して謝れよ。俺を家に帰せッ!!」
魂の叫びだった。そのたっての願いですら、できません、冷酷な一言でミラは片づけた。
「なんでだよ? できませんって、なんなんだよ。いいから帰せよ。俺を家に帰せ!」
「陽一はお願いごとばかりですねぇ」
優雅で悪辣な声が嘲笑った。美しいが兇暴な様相を、陽一は腹立たしさのあまり、正面から睨みつけた。
「何が悪魔だ。何が魔王だ。ただの自己中野郎じゃん! 人のことなんだと思ってんだ? 俺はお前の玩具じゃねーんだよッ!」
「玩具だなんて思っていませんよ。ソウルメイトだと思っています」
そういったミラの瞳に不可解な光が過 ったが、陽一は気づくことなく、盛大に顔をしかめた。
「はぁ――? ソウルメイト? ペットの間違いじゃなくて?」
ミラは歪んだ笑みを浮かべてみせた。親密であると同時に距離を置くような、冷酷な笑みだ。
「そんなに態度の大きいペットがいるものですか。貴方がペットでいるつもりなら、僕は飼い主として、躾ていいんですよね?」
魔性の瞳に、注意深く囲われた熾 のような、静かなる焔が燃えあがった。
陽一は、足元に不穏な影が忍び寄るのを見て、不吉な予感と本能的な恐怖に身構えた。
しかし、どうしたことか影は陽一の一寸手前でざわざわと蠢き、それ以上は近づいてこようとしない。
陽一は足元と忌々しそうに眉を寄せているミラの顔をしきりに見比べ、そうか、自分には本当に神の加護があるのかと理解した。
「なんだよ、俺を躾けるんじゃないの」
試すように陽一がいえば、ミラが苛立ちをこめて睨みつける。ふたりのあいだに軋轢 が生じ、空気が張りつめたのが判った。
「……残念ですが、神が許し給わぬようです。汝をいたぶるなかれ――忌々しい。神の権威なんて碌なものじゃありませんね」
そういって、ミラは諦めたように息を吐いた。
「こうなれば、別の者に罰を受けてもらいましょう」
罰? 怪訝そうな顔の陽一を面白くなさそうに見下ろし、ミラは唇を歪ませた。
「ジュピター」
君主の呼びかけに、ジュピターは即時に応じた。
陽一の目には、彼女が何もないところから、忽然と現れたように見えた。
翡翠めいた天使は、ミラに優雅な仕草でお辞儀をすると、忠臣のように恭しく跪き、優美な頭を垂れた。
土台から塔の頂まで、垂直の黒々とした狭間胸壁が延々と続いており、防壁の内部のさらに高いところに、蒼古とした宮殿が佇んでいる。
あまりの広大さに、陽一は状況も忘れて唖然となったが、ミラと目が遭ったと思ったら、次の瞬間には広々とした空間にいた。
玉座の配された、荘厳な部屋である。
重厚な織りの
床は磨き抜かれた多彩な石が敷かれており、円形の
正面に幅広の階段があり、そのうえに石に巧緻な彫刻を施した美しい巨大な玉座がある。肘掛は猛禽の鉤爪の形状で、高い背もたれには、折りたたまれた翼の意匠、翼と翼のあいだに、鳥の頭部の骨のような石造、目には紅玉が嵌めこまれており、鋭い光を放っている。
ミラは陽一を腕からおろし、配下に預けると、跪く後衛たちに見守れながら、王者然とした足取りで階段をのぼり、豪奢な椅子におさまった。
一方の陽一は、玉座から一段さがった床上で、裁きを受ける罪人よろしく、左右から肩を押さえつけられていた。
陽一は、肩を押さえている一方の悪魔に見覚えがあった。確かオデュッセロと名乗った。怜悧な貌に浮かんだ冷ややかな嗤いを見て、
「ようこそ、
高みから、ミラは笑みを浮かべていった。緊張に強張る陽一を眺めおろし、全く、と続ける。
「どうして、僕を呼ばないのですか? この間もいいましたよね。
砕けた口調だが、睥睨する眼差しには、辛辣で冷たい煌めきがあった。陽一は怯え、震えながら、唇を
「……呼べないよ。あんな、あんな風に、酷いことをするミラを見せられたあとで、ミラを呼べるわけない」
「酷い?」
ミラは非の打ちどころのない美しい形の眉をひそめた。
「街を滅茶苦茶にして、人間を残酷にいたぶって……俺と同じ人間に見えた……小さい女の子にも……なんで、あんなことするんだよ?」
最後の言葉は怒りを孕み、一瞬、陽一の瞳から怯えが消えた。
「陽一と同じはずがないでしょう。第一、理由なんてありませんよ。殺したいから殺しているだけです」
ミラは冷笑的にいった。さらに続ける。
「我々は悪魔です。変な顔の人間を見たら殺したくなるし、恋人を見たら、片方が見ている前でもう片方を犯したくなるし、笑っている人間を見たら、恐怖に歪んだ顔を見たいと思うんです。悪魔というのは、人間を前にすると、嬲らずにはいられないものです」
「俺に対しても?」
ミラの紫の瞳が暗さを帯び、陽一を睨みつけた。
「そんなわけないでしょう。こんなに大切にしているのに」
陽一は口元を歪めた。ミラの線引きが理解できない。とんでもない価値の転換である。彼自身は矛盾に気がついていないのだろうか? どうすれば、そのように支離滅裂な執着を正当化できるのだろう?
だが、疑問を口にする前に、ミラが続けた。
「いいたいことは判ります。ですが、人道や敬意、慈しみ、思慮分別の
陽一は顔をしかめた。
「摂理? 神様が好き勝手に世界を作って、いらなくなったら、悪魔に好き勝手にさせるのが摂理なわけ?」
「そうですよ」
「だったら、最初から創らなければいいのに。壊すくせに、なんで創るんだ?」
「答えなんてありませんよ。善も悪も区別なく、三千世界は無思慮に創造されますから。陽一にとって、理解し難いということは判ります。だけど、この摂理と僕にとっての陽一の存在は、全く別の話なんです」
彼の声は真剣そのもので、陽一は
“魔王さまなら、いつでも陽一を人間界に帰せますよ”
ジュピターにいわれた言葉が、頭のなかで明滅している。
「これだけは教えてほしいんだけど……家に帰れるって、本当なの?」
ミラは不敵な笑みを浮かべた。
「帰しませんよ。少し目を離した隙に、
ということは、つまり、帰せるのか。
陽一は表情を凍りつかせた。全身を有刺鉄線に搦め捕られ、四肢から、心臓から、流血したような痛みが走った。
ジュピターのいった通り――この男は、家に帰りたいと項垂れる陽一を宥めながら、
「なんだよ、それ……俺、ずっと帰りたいって、いってたじゃん……知ってて、お前……どうして」
「あなたの住む世界を滅ぼします、なんていわれて正気でいられましたか?」
悪魔じみた
「俺の日常を壊しておいて……そのうえ、滅ぼすって……よくもそんなことがいえるな。人をなんだと思ってるんだ?」
相手は
「なんで俺が責められないといけないんだ? お門違いだろ……そっちこそ、土下座して謝れよ。俺を家に帰せッ!!」
魂の叫びだった。そのたっての願いですら、できません、冷酷な一言でミラは片づけた。
「なんでだよ? できませんって、なんなんだよ。いいから帰せよ。俺を家に帰せ!」
「陽一はお願いごとばかりですねぇ」
優雅で悪辣な声が嘲笑った。美しいが兇暴な様相を、陽一は腹立たしさのあまり、正面から睨みつけた。
「何が悪魔だ。何が魔王だ。ただの自己中野郎じゃん! 人のことなんだと思ってんだ? 俺はお前の玩具じゃねーんだよッ!」
「玩具だなんて思っていませんよ。ソウルメイトだと思っています」
そういったミラの瞳に不可解な光が
「はぁ――? ソウルメイト? ペットの間違いじゃなくて?」
ミラは歪んだ笑みを浮かべてみせた。親密であると同時に距離を置くような、冷酷な笑みだ。
「そんなに態度の大きいペットがいるものですか。貴方がペットでいるつもりなら、僕は飼い主として、躾ていいんですよね?」
魔性の瞳に、注意深く囲われた
陽一は、足元に不穏な影が忍び寄るのを見て、不吉な予感と本能的な恐怖に身構えた。
しかし、どうしたことか影は陽一の一寸手前でざわざわと蠢き、それ以上は近づいてこようとしない。
陽一は足元と忌々しそうに眉を寄せているミラの顔をしきりに見比べ、そうか、自分には本当に神の加護があるのかと理解した。
「なんだよ、俺を躾けるんじゃないの」
試すように陽一がいえば、ミラが苛立ちをこめて睨みつける。ふたりのあいだに
「……残念ですが、神が許し給わぬようです。汝をいたぶるなかれ――忌々しい。神の権威なんて碌なものじゃありませんね」
そういって、ミラは諦めたように息を吐いた。
「こうなれば、別の者に罰を受けてもらいましょう」
罰? 怪訝そうな顔の陽一を面白くなさそうに見下ろし、ミラは唇を歪ませた。
「ジュピター」
君主の呼びかけに、ジュピターは即時に応じた。
陽一の目には、彼女が何もないところから、忽然と現れたように見えた。
翡翠めいた天使は、ミラに優雅な仕草でお辞儀をすると、忠臣のように恭しく跪き、優美な頭を垂れた。