HALEGAIA

4章:終わりの始まり - 3 -

 陽一は、空っぽの鳥籠に放置され、たちまち悲惨な状態になった。
 飲み水も食べ物もなく、身綺麗にすることも叶わず、排泄の場もない。野蛮人に逆戻りするのも、仕方のない話だった。
 そのような状態に置かれても、陽一はミラを呼ぼうとはしなかった。
 というより、まもとに苦痛を感じていなかった。外界のいかなる刺激――陽の光も、波の音も、時の流れすらも、感知していなかった。
 陽一は、日常的つ非日常的な、想像の世界の住人となっていた。記憶のなかの故郷や家族を思い描き、幸福だったかつての日常を反芻していた。
 この先に待ち受ける運命は、消極的な餓死かもしれないが、ある意味で平穏に過ごしていた。
 一方のミラは、呼ばれる時を今か今かと待ち焦がれていた。
 いっそ様子を見にいこうかしらと思い詰めては、いやいやもう少し……と堪えて、少し経てばまた焦れるの繰り返しである。
 悪魔なのだから、我慢や辛抱とは無縁のはずである。放埓ほうらつであるはずなのに、何故にこうも焦らされねばならないのか。
 待つことの焦れったいこと!
 灼熱を自在に操る我がうちが、燃えるように熱い。これは何の痛みぞ? かつてない何故の胸騒ぎぞ?
 耐えがたい、懐かしさに燃える想いをどう鎮めればよいか判らず、無限の煩悶を味わう嵌めに陥った。
 畢竟ひっきょう。鈍重で、緘黙かんもくのうちに閉じこもっている陽一に耐え切れず、音をあげたのはミラが先だった。
 そして、意気揚々と鳥籠を訪ね――愕然とした。
 陽一は、出会った時の酷い有様に逆戻りしていた。衰弱して、皮膚は干からび、全身から異臭を放っている。
 一目見た瞬間、彼は死んでしまったのではないかとミラは危惧した。すぐに魂を感知したものの、その輝きは、消え入る蝋燭のように希薄だった。
 顔は石膏のように無表情で、水平線のてを見通すような目で、ただ遠くを見つめている。まるで、希望も哀しみも全てを、完全な孤独のなかに閉じこめてしまったように見えた。
「陽一……」
 ミラは茫然と呟いた。
 これが陽一?
 かつての好ましい小生意気さ、密かな意地、気概といったものは、欠片も感じられない。
 生きながらに死んでいるかばねも同然だ。
 ミラがこうさせたのか?
 ここまで追いつめてしまうとは、自分は一体、何を考えていたのだろう?
 脆弱な陽一が、魔界ヘイルガイアで生きていけるはずもないと判っていたはずなのに――
 思い知らせてやろうだの罰だのという考えは、一遍に吹き飛んでしまった。
 むしろ、ミラの方が思い知らされた。
 これまで蹂躙してきた人間と同じようには、陽一を扱えない。彼に関しては、三千世界とは全く別次元にある魂としかいいようがなかった。
「ご機嫌いかがですか、陽一」
 ミラは、穏やかで優しい声をだした。
 膝を抱えて蹲っている陽一は、ぴくりと肩を震わせたものの、譫妄せんもう状態にあるのか、返事をしない。
 どうも最悪です――小気味よい返事を懐かしく思いだしながら、ミラは陽一の前に屈みこんだ。
「すみません、意地悪が過ぎたようですね」
 ミラは陽一に手を伸ばそうとしたが、触れることは叶わなかった。垢塗れにも関わらず、陽一の躰は、神の加護を纏って煌めき始めたのだ。
 神妙な光であると同時に、躰の裡に鬱屈しているものを噴出させるような、ひねくれた棘があった。陽一なりの無言の拒絶である。
 不本意だが、神懸かむがかりになった陽一に触れられず、ミラは形の良い眉をしかめた。
 命を賭した拒絶の壁に、癒しの力であっても跳ね返されてしまう。
 少々強引に触れようとすれば、陽一は眉根を苦悶にひそめ、呻き声をもらした。精神的な圧力をかけられ、額にびっしりと脂汗をかきながら、それでも抗おうとする。
 しまいには鼻血がぽたりと垂れるのを見、ミラはいかようにも支配し得る力を、霧散させるほかなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
 陽一は意識を半ば飛ばしながら、苦しげに息を喘がせている。
「陽一……」
 今にも死んでしまいそうな、瀕死の姿が、ミラの胸を詰まらせた。
 自分のしてしまったことが、その事実が、避けようのないほど激しく襲ってきた。
 陽一は助けを必要としているのに、触れられない。
 命に関わる栄養失調に苛まれ、既に病気の徴候も現れているというのに、このまま触れられずにいたら、どうなってしまうのだろう?
「陽一、触れさせてください。貴方を助けたいんです」
 それは殆ど懇願に近かったが、陽一は受けいれようとしなかった。
「陽一どうか、このままでは死んでしまう」
 ミラはいつになく真摯にいったが、いわのような頑なさの前に、跳ね返されるばかりだった。
「ねぇ、陽一。お願いだから僕に助けさせて」
 慰めたり、励ましたり、どうにか気をひこうとするが、陽一は固い殻のなかに閉じこもり、ミラを寄せつけようとしない。
 その頑な姿に、ミラはいいようのない焦燥と、哀憐を感じた。
 いっそ神に助力を請おうか。癒しの天使でもない限り、この状態の陽一は救えないかもしれない。
 決断を迫られた時、ぐらりと陽一の躰が傾いだ。
 神懸かむがかりの煌めきが尽きた。ようやくミラは、陽一を抱きしめることができた。棒切れのように細い躰だった。