HALEGAIA

3章:悪魔たちの燔祭はんさい - 10 -

 清らかな光条が天から射し、陽一の躰は浮かびあがった。
 見放した世界のなかで、異分子である陽一が見せた自己犠牲の輝きに、神が気づいたのだ。
 嗚呼……天界パルティーンへと誘われようとしている。全能の神の御使い、月桂冠をいただいた美しい天使が見える。
 陽一は安堵し、柔らかな光に身をゆだねようとしたが――突如、怒髪天を突くような落雷が起きた。
 狂おしくも凄まじい、悪魔の咆哮!
 その衝撃の残響は、天と地を揺るがせた。混乱する陽一の耳に、幻聴が届いた。

“我は――なり。我は久遠の郷土ヘイルガイアを支配する者にして、魔界ヘイルガイアの意志であり、血である”

 恐ろしくも美しい、これまでに聴いたことのない非現実的な、賛美歌のような詠唱。たえなる旋律の音が、頭のなかに直に響いて聴こえる。

“我がもとにきたれ、遠藤陽一。汝の真の名により、我は汝を召喚し、我が授けし秘儀により、汝をここへ呼びだし、流血の焔によって汝を永劫なるうちに囚える”

 まるで聞いたことのない響きなのに、明確な意味を伴い、陽一を支配しようとする。
 ミラだ。
 彼に呼ばれている。
 そうと意識した途端に、未知なる万力に固く掴まれ、躰が地上へと引き戻されるのを感じた。
 下を見れば、一面は紅蓮大紅蓮の猛火に覆われ、黒煙と金粉を煽った火の粉とが、この世の終わりとばかりに舞い狂っている。地獄だ。火熱地獄へ堕ちてしまう――

“我は汝を星の彼方から呼びだし、いと高き天界パルティーンから呼びだし、最下いやした冥界ハデスから呼びだす。
 我は魔界ヘイルガイアの王であり、我が支配の力により、汝は従わねばならぬ。流血に約されたこれらの言葉より、三千世界を超えて、汝は従わねばならぬ”

 その言葉には、純然で暗澹あんたんたる絶対的な支配がこめられていた。
 渦巻く火焔のなか、ミラは幾重もの魔法陣を巡らせた。はるか頭上の天界まで届く、召還の印だ。彼は目眩めくるめく輝きのなか宙に浮きあがり、陽一に向かって腕を伸ばそうとしていた。
「嫌だっ」
 天界パルティーンへの門が遠ざかっていくのを見、陽一は恐慌に陥った。このまま天に召しあげられたいのに、ミラの詠唱に心をかき乱される。
(嫌だ、あそこにはいきたくない、頼むからっ!)
 聴覚を遮断したくても、どうしても彼の声を拾いあげてしまう。その言葉の意味までも、心の奥底まで浸透していくようで、抗いようがなかった。
「陽一ッ!」
 ついにミラの声が陽一を捕らえた。
 ミラは、なぜ自らの血を使ってまで詠唱を口にしたのか判らぬまま、陽一に向かって手を伸ばした。理由は不明だが、そうしなければならないと思った。
「陽一ッ!」
 ずっと、魔界ヘイルガイアに囚われているから特別なのだと思っていた。人間に対する殺戮本能が麻痺しているのだと。でも違った。彼は、陽一だけは、三千世界に堕ちても変わらぬ煌めきを放っているではないか!
 とても手放せない。自分でも理解できない所有欲が、これまでに経験したことのない焦燥が、咆哮をあげている――逃がさない。絶対に。
 陽一は、引きずり降ろされる感覚に、必死に腕を振り回した。
「嫌だっ!」
 視線を彷徨わせると、怒りを孕んだ苛烈な眼差しに射抜かれた。次の瞬間、問答無用に腕を引かれ、胸のなかに抱き寄せられた。
「離して!」
 陽一は全身の苦痛も忘れて、無我夢中で暴れた。捕まってたまるものか! 天門が目の前に開けているのだ。あそこをくぐり抜ければ、きっと故郷に帰れるのだ。ここで挫折したら、きっともう二度と戻れない。
 だというのに、空が遠ざかっていく――ミラの視線は陽一の躰を突き刺し、呪縛にかけた。
 凛々しい角を戴く比類なき美貌、魔性に輝く紫の瞳、火焔かえんが誇張したまつげの影までもが、くっきり視認できるほど、顔を近づけられた。
「どこへいくつもりですか?」
 ミラは脅すような口調で訊ねた。答えは訊かずとも判っている。陽一は、天界パルティーンへいこうとしたのだ。郷土へ帰るために、ミラから逃げて。そのようなこと、到底許せるはずがない。危険なまでの怒りが迸りかけた時、神が、囁いた。

“魔王の誓約により、汝を天界パルティーンへ召しあげることはできません……ですが、私も誓約しましょう”

 神の言葉は続いているが、陽一の耳には聞こえていなかった。召しあげることはできない――冷酷な言葉が、殷々いんいんと脳裡に反響し、全身の血を凍りつかせた。
 大いなる御業により、全身を包みこむ暖かく貴い光が、折れた骨をもとに戻し、流血も痣も癒していくのを感じながら、一方で手も脚も萎えはてていくのを感じていた。

“汝の自由な心は、誰にも縛れません。魔王よ、その少年に赦されたければ、多くをらなければなりません。彼が大切に想う、家、飲食、与えること、教えること、喜びと悲しみ、自由、苦しみ、友情、そして愛……ろうとするのです”

 聖なる力のこめられた言葉に、ミラは呻いた。
 神は、魔王の流血に匹敵する対価、黄金の流血をもって、陽一に大いなる加護を与えたのだ。ミラでも容易に破ることのできない、強大な誓約である。
 陽一にとって、魔王と神の力が身のうちでせめぎあうというのは、超新星の爆発が体内で起こっているようなものだ。あまりに強烈で、重く、血を吐く思いを味わった。
「う、ぐ……っ」
 まるで自我の消失と再生が、無限に繰り返されているようで、肉体と魂の乖離かいりを、必死に繋ぎとめなければならなかった。為す術もなく、ただただ超次元の暴挙に耐えるしかない。
 相反する力が調和していく過程で、陽一は気を失った。
 ミラは、くたりと重みの増した陽一を両腕に抱きしめ、挑むように天を睨みつけた。
 天門が閉じていく――神が引いたのを見て、彼もまた魔王城パンデモニウムへと引き返した。