HALEGAIA
3章:悪魔たちの
清らかな光条が天から射し、陽一の躰は浮かびあがった。
見放した世界のなかで、異分子である陽一が見せた自己犠牲の輝きに、神が気づいたのだ。
嗚呼……天界 へと誘われようとしている。全能の神の御使い、月桂冠を戴 いた美しい天使が見える。
陽一は安堵し、柔らかな光に身を委 ねようとしたが――突如、怒髪天を突くような落雷が起きた。
狂おしくも凄まじい、悪魔の咆哮!
その衝撃の残響は、天と地を揺るがせた。混乱する陽一の耳に、幻聴が届いた。
“我は――なり。我は久遠の郷土 を支配する者にして、魔界 の意志であり、血である”
恐ろしくも美しい、これまでに聴いたことのない非現実的な、賛美歌のような詠唱。妙 なる旋律の音が、頭のなかに直に響いて聴こえる。
“我がもとにきたれ、遠藤陽一。汝の真の名により、我は汝を召喚し、我が授けし秘儀により、汝をここへ呼びだし、流血の焔によって汝を永劫なる裡 に囚える”
まるで聞いたことのない響きなのに、明確な意味を伴い、陽一を支配しようとする。
ミラだ。
彼に呼ばれている。
そうと意識した途端に、未知なる万力に固く掴まれ、躰が地上へと引き戻されるのを感じた。
下を見れば、一面は紅蓮大紅蓮の猛火に覆われ、黒煙と金粉を煽った火の粉とが、この世の終わりとばかりに舞い狂っている。地獄だ。火熱地獄へ堕ちてしまう――
“我は汝を星の彼方から呼びだし、いと高き天界 から呼びだし、最下 の冥界 から呼びだす。
我は魔界 の王であり、我が支配の力により、汝は従わねばならぬ。流血に約されたこれらの言葉より、三千世界を超えて、汝は従わねばならぬ”
その言葉には、純然で暗澹 たる絶対的な支配がこめられていた。
渦巻く火焔のなか、ミラは幾重もの魔法陣を巡らせた。はるか頭上の天界まで届く、召還の印だ。彼は目眩 く輝きのなか宙に浮きあがり、陽一に向かって腕を伸ばそうとしていた。
「嫌だっ」
天界 への門が遠ざかっていくのを見、陽一は恐慌に陥った。このまま天に召しあげられたいのに、ミラの詠唱に心をかき乱される。
(嫌だ、あそこにはいきたくない、頼むからっ!)
聴覚を遮断したくても、どうしても彼の声を拾いあげてしまう。その言葉の意味までも、心の奥底まで浸透していくようで、抗いようがなかった。
「陽一ッ!」
ついにミラの声が陽一を捕らえた。
ミラは、なぜ自らの血を使ってまで詠唱を口にしたのか判らぬまま、陽一に向かって手を伸ばした。理由は不明だが、そうしなければならないと思った。
「陽一ッ!」
ずっと、魔界 に囚われているから特別なのだと思っていた。人間に対する殺戮本能が麻痺しているのだと。でも違った。彼は、陽一だけは、三千世界に堕ちても変わらぬ煌めきを放っているではないか!
とても手放せない。自分でも理解できない所有欲が、これまでに経験したことのない焦燥が、咆哮をあげている――逃がさない。絶対に。
陽一は、引きずり降ろされる感覚に、必死に腕を振り回した。
「嫌だっ!」
視線を彷徨わせると、怒りを孕んだ苛烈な眼差しに射抜かれた。次の瞬間、問答無用に腕を引かれ、胸のなかに抱き寄せられた。
「離して!」
陽一は全身の苦痛も忘れて、無我夢中で暴れた。捕まってたまるものか! 天門が目の前に開けているのだ。あそこをくぐり抜ければ、きっと故郷に帰れるのだ。ここで挫折したら、きっともう二度と戻れない。
だというのに、空が遠ざかっていく――ミラの視線は陽一の躰を突き刺し、呪縛にかけた。
凛々しい角を戴く比類なき美貌、魔性に輝く紫の瞳、火焔 が誇張した睫 の影までもが、くっきり視認できるほど、顔を近づけられた。
「どこへいくつもりですか?」
ミラは脅すような口調で訊ねた。答えは訊かずとも判っている。陽一は、天界 へいこうとしたのだ。郷土へ帰るために、ミラから逃げて。そのようなこと、到底許せるはずがない。危険なまでの怒りが迸りかけた時、神が、囁いた。
“魔王の誓約により、汝を天界 へ召しあげることはできません……ですが、私も誓約しましょう”
神の言葉は続いているが、陽一の耳には聞こえていなかった。召しあげることはできない――冷酷な言葉が、殷々 と脳裡に反響し、全身の血を凍りつかせた。
大いなる御業により、全身を包みこむ暖かく貴い光が、折れた骨をもとに戻し、流血も痣も癒していくのを感じながら、一方で手も脚も萎えはてていくのを感じていた。
“汝の自由な心は、誰にも縛れません。魔王よ、その少年に赦されたければ、多くを識 らなければなりません。彼が大切に想う、家、飲食、与えること、教えること、喜びと悲しみ、自由、苦しみ、友情、そして愛……識 ろうとするのです”
聖なる力のこめられた言葉に、ミラは呻いた。
神は、魔王の流血に匹敵する対価、黄金の流血をもって、陽一に大いなる加護を与えたのだ。ミラでも容易に破ることのできない、強大な誓約である。
陽一にとって、魔王と神の力が身の裡 でせめぎあうというのは、超新星の爆発が体内で起こっているようなものだ。あまりに強烈で、重く、血を吐く思いを味わった。
「う、ぐ……っ」
まるで自我の消失と再生が、無限に繰り返されているようで、肉体と魂の乖離 を、必死に繋ぎとめなければならなかった。為す術もなく、ただただ超次元の暴挙に耐えるしかない。
相反する力が調和していく過程で、陽一は気を失った。
ミラは、くたりと重みの増した陽一を両腕に抱きしめ、挑むように天を睨みつけた。
天門が閉じていく――神が引いたのを見て、彼もまた魔王城 へと引き返した。
見放した世界のなかで、異分子である陽一が見せた自己犠牲の輝きに、神が気づいたのだ。
嗚呼……
陽一は安堵し、柔らかな光に身を
狂おしくも凄まじい、悪魔の咆哮!
その衝撃の残響は、天と地を揺るがせた。混乱する陽一の耳に、幻聴が届いた。
“我は――なり。我は久遠の
恐ろしくも美しい、これまでに聴いたことのない非現実的な、賛美歌のような詠唱。
“我がもとにきたれ、遠藤陽一。汝の真の名により、我は汝を召喚し、我が授けし秘儀により、汝をここへ呼びだし、流血の焔によって汝を永劫なる
まるで聞いたことのない響きなのに、明確な意味を伴い、陽一を支配しようとする。
ミラだ。
彼に呼ばれている。
そうと意識した途端に、未知なる万力に固く掴まれ、躰が地上へと引き戻されるのを感じた。
下を見れば、一面は紅蓮大紅蓮の猛火に覆われ、黒煙と金粉を煽った火の粉とが、この世の終わりとばかりに舞い狂っている。地獄だ。火熱地獄へ堕ちてしまう――
“我は汝を星の彼方から呼びだし、いと高き
我は
その言葉には、純然で
渦巻く火焔のなか、ミラは幾重もの魔法陣を巡らせた。はるか頭上の天界まで届く、召還の印だ。彼は
「嫌だっ」
(嫌だ、あそこにはいきたくない、頼むからっ!)
聴覚を遮断したくても、どうしても彼の声を拾いあげてしまう。その言葉の意味までも、心の奥底まで浸透していくようで、抗いようがなかった。
「陽一ッ!」
ついにミラの声が陽一を捕らえた。
ミラは、なぜ自らの血を使ってまで詠唱を口にしたのか判らぬまま、陽一に向かって手を伸ばした。理由は不明だが、そうしなければならないと思った。
「陽一ッ!」
ずっと、
とても手放せない。自分でも理解できない所有欲が、これまでに経験したことのない焦燥が、咆哮をあげている――逃がさない。絶対に。
陽一は、引きずり降ろされる感覚に、必死に腕を振り回した。
「嫌だっ!」
視線を彷徨わせると、怒りを孕んだ苛烈な眼差しに射抜かれた。次の瞬間、問答無用に腕を引かれ、胸のなかに抱き寄せられた。
「離して!」
陽一は全身の苦痛も忘れて、無我夢中で暴れた。捕まってたまるものか! 天門が目の前に開けているのだ。あそこをくぐり抜ければ、きっと故郷に帰れるのだ。ここで挫折したら、きっともう二度と戻れない。
だというのに、空が遠ざかっていく――ミラの視線は陽一の躰を突き刺し、呪縛にかけた。
凛々しい角を戴く比類なき美貌、魔性に輝く紫の瞳、
「どこへいくつもりですか?」
ミラは脅すような口調で訊ねた。答えは訊かずとも判っている。陽一は、
“魔王の誓約により、汝を
神の言葉は続いているが、陽一の耳には聞こえていなかった。召しあげることはできない――冷酷な言葉が、
大いなる御業により、全身を包みこむ暖かく貴い光が、折れた骨をもとに戻し、流血も痣も癒していくのを感じながら、一方で手も脚も萎えはてていくのを感じていた。
“汝の自由な心は、誰にも縛れません。魔王よ、その少年に赦されたければ、多くを
聖なる力のこめられた言葉に、ミラは呻いた。
神は、魔王の流血に匹敵する対価、黄金の流血をもって、陽一に大いなる加護を与えたのだ。ミラでも容易に破ることのできない、強大な誓約である。
陽一にとって、魔王と神の力が身の
「う、ぐ……っ」
まるで自我の消失と再生が、無限に繰り返されているようで、肉体と魂の
相反する力が調和していく過程で、陽一は気を失った。
ミラは、くたりと重みの増した陽一を両腕に抱きしめ、挑むように天を睨みつけた。
天門が閉じていく――神が引いたのを見て、彼もまた