HALEGAIA

3章:悪魔たちの燔祭はんさい - 9 -

 陽一はジュピターと共に、見知らぬ街におりた。熱風が鼻腔と肺を侵し、むせそうになる。薄目で辺りを見回し、陽一は愕然となった。
 赤い煉獄が都を席巻していた。
 暗雲立ちこめる瀟洒と思わしき街は、空爆にでも遭ったのかと思う崩壊ぶりで、至るところで黒煙がたち昇っている。
 生暖かい、不快極まる雑多な匂い。硫黄と燃焼の臭気、血と臓物のえた匂い。産業革命期の西欧を思わせる街並みに、陽一は蒼褪めた。
「ここはどこ? まさか、地球じゃないよね!?」
 ジュピターは陽一の手を引いて、瓦礫の影に身をひそめた。
「地球ではありません。資源を枯渇させてしまった、悪しき旧世界です」
 ジュピターは思わしげに曇天を見つめて、次に陽一を見た。
「ここで待っておいでなさい。天界パルティーンから迎えがやってくるでしょう……動いてはいけませんよ」
 最後に念を押すように告げると、ジュピターは背を向けた。翡翠の双翼が神々しく拡がる。敬虔なる気後れから、陽一は声をかけるのが躊躇われた。
「待って!」
 慌てて声を発した時には、天使は煌めく燐光を残して、高く舞いあがっていた。
 取り残された陽一は、辺りを見回し、恐怖にすくみあがった。
 魔族降臨。魔界ヘイルガイアと現実世界の結界が消え失せ、邪悪なる超自然の力が、完全に地上を支配している。
 奈落の深淵から、おびただしい数の地味魍魎の群れがやってきて、欣喜雀躍きんきじゃくやくしながら人間を蹂躙している真っ最中だ。
 ここは、まさか、先ほど水晶に映しだされていた世界なのか?
 そう考えた途端に、陽一の呼吸は止まりかけた。心臓は烈火の如く暴れ、熱波にも関わらず手足が冷たい。
 辺りを見回すほどに、恐ろしい閃きは、確信に変わってゆく。ここは滅びゆく世界だ。ミラが滅ぼそうとしている、三千世界の一つだ。
 嗚呼、なんて光景だろう。
 死よりも恐ろしい拷問――殴り、焼き、切り裂き、り、り、都邑とゆうに、血の驟雨しゅううを降らせている。落日の陽を受けて紅玉色に照り映え、死々累々の道々に落ちる。
 往来は屠畜場と化し、肉片や五体の各部が散乱している。手や足、頭、臓物といった肉片、そのほかあらゆる人間の残骸だ。
 不快極まる、吐き気をもよおす匂いが立ちこめている。
 牛や豚を焼くと旨そうな匂いがするのに、なぜ、人の焼ける匂いはこうも不快なのだろう? 糞尿の溜まった臓物が一緒に焼けるからだろうか?
 これが地獄か。
 苦悶と、気が狂ったような怯えのこもる叫び声。苦痛の悲鳴!
 呵々嬉々かかきき。身の毛もよだつ笑い声!
 焔が舞い狂い、街路樹や建物の焼け折れる音は、さながら号哭ごうこく
 残虐極まりない地獄絵図に、陽一の思考は早くも麻痺し始めていた――そんな莫迦ばかな――こんなことが、現実であるはずがない――落ち着けと自分にいい聞かせるが、大した効果はない。
 もはや逃げようという気力もなく、壁を背に尻もちをつき、血濡れた刃で人が頭頂からかち割られる様を、どこか遠い世界の出来事のように眺めていた。
 全き暗黒の狂気に飲みこまれそうになりながら、ふと脳裡に思い浮かんだ名前に、陽一はぐしゃりと顔を歪めた。
(ミラ――……)
 この期に及んで、まだ彼に救済と庇護を求めてしまったことに、死にたくなるほどの絶望を覚えた。
 今、かろうじて正気を保っているのは、意志の苦闘意外のなにものでもないが、そろそろ限界だ。信じていた全てが崩れ去り、安寧はほど遠く、どこにも休まる場所がない。
(お母さん……)
 小さな子供のように母親を求め、苦しいほどの哀切の念に襲われた。
 いっそ狂ってしまえれば、楽になれるのかもしれない。或いは、優しい安楽死が赦されるのならば――神々が憐みを賜らんことを!
 その時、目の前で少女が転んだ。醜悪な悪鬼が迫り、少女の両足を掴んで持ちあげた。妹の理沙と同じくらいの少女が、酷い目にあおうとしている――考えるよりも先に、躰が動いていた。
「よせッ!!」
 力いっぱい体当たりをしても悪鬼はびくともしなかったが、少女から手を離し、陽一を睨みつけた。
「グォッ、グォッ!」
 濁音を発しながら、今度は陽一に手を伸ばす。陽一は身を屈めて避けながら、尻もちをついてる少女に向かって叫んだ。
「逃げろ! 早く!」
 少女は、はっと目を瞠り、慌てて身を起こした。しかし、逃げるのを躊躇っているので、陽一はさらに叫んだ。
「いいから逃げろ!」
 少女は背を向けて、転げるようにして駆けていった。悪鬼は逃げていく少女には目もくれず、陽一を見ている。
「ちきしょう」
 陽一は背を向けて走り抜けようとしたが、襟首を掴まれ、足が浮きあがった。凄まじい衝撃が頸椎に走り、そのまま背中から地面に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
 あまりの衝撃に、視界に白い星が散った。全身の骨が砕けたように痛くて、苦しくて、息ができない。
 意識が遠のきながら、皮膚が燃えあがったように感じられた。
 死に直面した際の走馬燈なのか、父、母、妹……家族の顔が、思い浮かび、心のなかに小さな火を灯す。幾つもの追想が、陽一の願いを押した。
(一目でいい、皆に会いたい……)
 視界が真っ白になった時に、賛美歌めいた柔らかな光が射した。
 神秘と宇宙的驚異の霊気が満ちる――天界パルティーンの神門が開き始めたのだ。