HALEGAIA

2章:楽園コペリオン - 7 -

 薄闇のなか、ふと陽一は目を醒ました。
 せっかく楽しい夢を見ていたのに……と、残念に思いながら躰を起こし、ぶるりと身を震わせる。
 この薄ら寒さはどうしたことだろう?
 空気調整がされているはずなのに、妙だな……と思案しながら遮光の帳を捲り、凍りついた。
 禍々しい不気味な何かが、鳥籠のそとで渦巻いている。
 はっとして怨霊の鳥籠を見れば、開きっぱなしの格子扉は、頼りげなく揺れていた。
 ぞぞぞっと背筋が一遍に冷えた時、鳥籠の向こうに、不気味な女が現れた。
「うわぁッ」
 陽一は慌ててあとずさりをした。女は、こちらへこようとしている。幸い、鳥籠のなかには入ってこれないようだが、視覚的に怖すぎる。
「ミラ――ッ!!」
 陽一は半狂乱になって叫んだ。上掛けを頭から被って、ミラの名を呼び続けた。
「陽一? どうしました?」
 背中から暖かな腕に包まれた瞬間、陽一は心の底から安堵した。慌てて掛布から顔を覗かせ、ミラに訴える。
「大変なんだ! 籠の外!」
「ええ、怨霊が逃げたんです」
「なんで!?」
「面白いから、放っておこうかと思いまして」
「はあぁぁ!? 可及的速やかに捕まえろッ!?」
 陽一は涙目になって怒鳴りつけた。しかし、格子の外を見てすぐに後悔した。
「ひぃっ」
 無数の手が、格子を掴んでいるのだ。不気味すぎて、言葉もでない。がたがたと震える陽一の躰を、ミラはぎゅっと抱きしめた。
「陽一、たかが怨霊ですよ」
「無理! 早くなんとかして!」
 陽一は必死にミラにしがみついた。
「三百年ほど籠のなかにいたから、少しはしゃいでいるのかもしれませんね」
「そんなかわいい感じじゃないから! あれは絶対、俺に取り憑こうとしているからっ」
「好かれていますねぇ、陽一」
「嬉しくねぇよ! 早くなんとかしてくれ!」
「でも、あんなに嬉しそうにしていますし、もう少し、散歩をさせてあげても良いでしょう」
「いやいや、犬じゃないんだから、散歩させちゃだめだから! 飼い主なら、責任もって面倒を見ろよ」
「うーん」
「頼むよ、ミラ~~ッ! なんとかして、お願いっ!」
 あまりにも陽一が必死なせいか、ミラはくすっと笑った。
「ふ……悪くありませんね。陽一の“お願い”は好きですよ」
 と、ミラは陽一の腕をほどいで立ちあがったと思ったら、次の瞬間、唐突に姿を消した。
 断末摩のような無数の叫び声が轟き、陽一は両耳を塞いだ。怖くて、鳥籠の向こうを見ることができない。
 ぶるぶると震えながら怨霊が鎮まるのを待っていると、不意に音がやんだ。
 恐る恐る両手を外して、格子の向こうを見やると、鳥籠のなかに黒い靄はきっちり納まっていた。さらにミラは、扉に手をかざして、何かを施している。
 次の瞬間、ミラはもう陽一の目の前にいた。
「終わりましたよ」
「お、お帰り」
「はい、ただいま」
 ミラはにっこりとほほえんだ。
「大丈夫? なんで、あいつ外に逃げたの?」
「新人の従僕しもべが、扉を閉め忘れたようです」
「ちゃんと教育してください」
 陽一は真顔でいった。
「そうですね。躾ておきます」
「お、おう」
 ミラは淡く笑むと、陽一に手を伸ばしてきた。犬を撫でるように、黒髪を撫でる。
「さて……僕は、陽一のために奉仕しましたよ」
 菫色の瞳に熱っぽく見つめられ、陽一は躰を強張らせた。
「対価をください」
 そういってミラは、陽一を寝台の上に押し倒した。片手を陽一の顔の横について、もう片方の手で、優しく下唇を撫でる。
「対価って……」
 上擦った声がでた。少し触れられただけなのに、心臓が早鐘を打ち始め、官能の予兆が、全身にさざなみのように広がってゆく。
 ミラは覆い被さるようにして、陽一の頬に唇を押し当てた。
「ッ、ん……」
 顔を背けようとすると、掌を頬におしあてられ、正面を向かされた。魔性に煌めく菫色の瞳に囚われる。
 危うく理性が遠のきかけたが、陽一は自分を取り戻し、組み敷く悪魔を睨みつけた。
「待て。なんで俺が対価を払わないといけないんだ。お前の怠慢が招いた事態だろうが! むしろお前が詫びろ! 土下座して詫びろ!」
 ミラはむっと眉をひそめた。
「僕に命じることができると思いますか?」
 気温はいっきにさがり、吐息が白くなる。彼がその気になれば、気象の変化も森羅万象も思うがままだ。陽一は早々に降参して、敗北の眼差しを向けた。
「嘘です、ごめんなさい。俺が土下座します」
「判ればよろしい」
 ミラがほほえむと同時に、空気は暖かくなり、鉢植えの木が白い花を咲かせ、魅惑的な香りを漂わせた。
「陽一、血を飲ませて」
 悪魔の放つ蠱惑に、たちまち、陽一はぼうっとなった。頭の片隅で警鐘が鳴るが、陶然とした表情でミラを見つめてしまう。
 完璧なハート形の唇が笑みにつりあがり……美貌が近づいてくる。
「いい匂い……」
 吐息が首筋に触れて、陽一の胸は高鳴った。嗚呼、ミラの方こそ、たえなる香がする。えもいわれぬ魅惑的な香り……
 器用な指先にシャツの釦が上から二つまではずされて、掌が忍びこんだ。首筋を露わにし、鎖骨を撫でる。
「ん……っ」
 唇から漏れた喘ぎに、陽一は頬を赤らめた。慌てて唇を噛み締めるが、彼の掌がもたらす感触は、心をとろかす効果があった。
「ん、ぁっ」
 ふいに首筋を舐められ、陽一の肩が跳ねた。ミラは、宥めるように、味わうように優しく吸っては、啄んだ。嬲るような愛撫を繰り返し……柔らかな皮膚に牙を突き立てた。
「あぁっ」
 牙が肌に食いこみ、陽一はシーツを逆手で掴んだ。ゆったりと強弱をつけて血を吸われるたびに、血流が燃えるように熱くなる。鼓膜の奥で心臓が鳴り響き、躰を焔で炙られているようだ。流されるなと理性は囁くが、躰が裏切る。全身がしっとり汗ばんで、下腹部が淫らに疼く。
「ふぁっ……ミラ、も、やめ……っ」
 窮状を訴えても、ミラは顔をあげようとしない。陽一は腕をつかって逃げようとしたが、ミラは許さなかった。
「やぁっ……」
 彼は時間をかけて、芳醇な酒を味わうように、陽一を貪るつもりなのだ。
「だめっ、ミラッ……!」
 このままでは極めてしまう――陽一がきつく腕を掴むと、ミラはようやく牙を抜いた。その瞬間に強烈な悦楽が走り、ひ、と陽一は小さく喘いだ。
「ごちそうさま」
 ミラは身を引くと、満足そうに唇を舐めた。さながらミルクの最後の一滴を舐めとる猫のようだ。
 陽一は、上気した頬で胸を喘がせ、陶然と横たわり、すぐに起きあがることができずにいた。けれども、ミラが立ちあがろうとするのを見て、咄嗟にミラの袖を掴んだ。まだいかないでほしい――紫の瞳を無言で見つめると、二人の間の空気が磁力を帯びた。
「大丈夫ですよ、陽一……目を閉じて」
 ミラは優しく囁いたが、陽一は目を閉じるのが怖かった。あの恐怖は、そう簡単に忘れられるものではない。
 するとミラは、空模様を明るくした。
 天蓋から垂れる青い紗だけ引くと、陽が透けて、陽一の顔に淡いブルーの影を落とした。
 寒々しい恐怖が薄れて、心が凪いでいく。
 波の音に耳を澄ませていると、まるで、海の底を彷徨っているような気分になる。
 呼吸が落ち着いてくると、陽一は安堵のため息を吐いた。
「時々、ここが魔界ヘイルガイアだってことを忘れそうになるよ。本当に楽園みたいだから……」
「ふふ、そのように設計しましたからね」
 ミラは手を伸ばして、陽一の髪を優しく梳いた。
「もう怖くないでしょう? ……眠りなさい、陽一」
 ミラは優しく囁くと、陽一の額にキスをした。
 さっきまで、あんなに怖かったのに。陽一は揺りかごのような眠りに誘われ、自然と瞼をとじた。