HALEGAIA

2章:楽園コペリオン - 4 -

 外へいこうと約束して間もなく、陽一は風邪をひいて寝こんでしまった。肉体的にも精神的にも色々と疲弊したあとで、気が緩んでしまったのかもしれない。
 頭がぼーっとする。熱っぽくて、声もあまりでない。
 過去に経験のある症状だ。数日もすれば楽になるはずだが、病気にかからない悪魔のミラは、弱っている陽一を見て、これまでにないほどの動揺を見せた。
「困りましたね。僕には治癒の経験がありません。どうすればよくなりますか?」
 人間を破滅させる方向で無敵のミラだが、その逆の工程は、苦手だった。彼が擁する膨大な知識のなかには、治癒の項目も埋もれているはずなのだが、到達する前に、いかに壊すか、殺すか、ついつい思考が逸れてしまうのだ。
「頭冷やしたい……冷たいの、ある?」
 弱々しく陽一が請うと、ミラは即時に指を鳴らし、氷の巨岩を出現させた。
「でけぇよッ! ごほっ」
 目を剥いてベッドから起きあがろうとした陽一は、くらりと眩暈がして手で躰を支えた。
「陽一!」
 ミラは陽一が横になる手助けをすると、巨大な氷を砕いて氷嚢を作った。どこから取りだしたのか、真鍮の台座を設置して、氷の入った袋をぶらさげる。角度を調節しながら、慎重に陽一の額に乗せた。
「……ありがとう、気持ちいい」
 古典的な器具だが、その効果は絶大だった。ひんやりとした心地良さが、額から頭全体に広がり、苦しみを癒してくれる。
「温度は下げた方がいいですか? 上げた方がいいですか?」
「平気、ちょうどいいよ」
「喉は乾いていませんか?」
「……今はいいかな」
 はふはふと喘ぐ陽一を、ミラは真剣な表情で見ている。心配している風にすら見えた。彼の目には、今にも陽一が死んでしまいそうに映っていた。
「嗚呼、陽一。こんなに弱ってしまって……もし貴方が死んだら、直ちに魂魄こんぱく召喚をしますからね」
「やめてくれ」
 陽一は、紫の瞳を見つめて、真顔で主張した。
「死んではいけません、陽一」
「死なないから」
「あとはどうすればいいですか? 人間の治癒師を連れてきた方がいいですか?」
「お医者さんのこと? いるの?」
 陽一は期待に目を輝かせた。
「いえ、適当な人間界から攫ってきます」
「やめてくれ」
 陽一は首を振ったが、ミラは困ったように眉を寄せた。
「ですが、僕には治癒の心得がないのです」
 いつでも余裕綽々よゆうしゃくしゃくな魔王の、珍しく慌てている姿に、陽一は少しばかり愉快な心地を味わった。
「そんなに慌てなくても、大丈夫だよ」
「……あ、そうか! 拷問を長引かせるための“休憩”だと思えばいいのか」
 閃いた! といわんばかりの物騒な発言に陽一は不安を覚えたが、優しく頭を撫でられると、心身の怠さが不思議と和らいだ。うっとりすような心地よさに、うとうとと微睡んだ。

 目が醒めると、外は薄明るかった。
 視線を落として、寝台に腕をついて眠るミラを見て、驚いた。もうとっくにいなくなっていると思ったのに。
 傍机の上には、救急蘇生法から人体解剖学、はじめての育児、梟の飼育本といった頓珍漢な本が積まれているが、一番上に伏せてある本は、風邪診療と書いてあった。
(……調べてくれたのかな。変な悪魔だな)
 奇妙な気持ちになるが、悪くはなかった。
 それにしても、眠っているミラを見るのは初めてかもしれない。穏やかな顔で眠る悪魔は、美しかった。
 薄い蒼のしゃされた曙光が、ミラの黒髪や白皙の頬を、柔らかな金色で照らしている。
 触れてみたくなり、肩に散った艶やかな黒髪に、そっと手を伸ばした。信じられないほどなめらかで、指の合間をすり抜けていく。
 無心で髪を撫でていると、ミラはぱちっと目を開いた。驚いた表情で陽一の顔を覗きこみ、少し冷たい掌を、陽一の額に押しあてた。
「まだ少し、熱っぽいですね……気分はどうですか?」
「……ミラは、魔王なんでしょ。俺みたいに手のかかるペットの面倒を見ていていいの?」
「陽一といると楽しいですよ。とても新鮮で、刺激的です」
 ミラは微笑した。
「俺には単調な日々だ」
「そうですね。窮屈な思いをさせてすみません。元気になったら、散歩にいきましょうね。楽園コペリオンを案内しますよ」
「それもいいけど、家に帰りたいな」
 陽一はさりげなく上目遣いにいってみたが、ミラは首を振った。
「いけませんよ」
 予想していた答えだが、陽一は舌打ちをせずにはいられなかった。
「ったく、なんで俺なんかに執着するんだ……けほっ」
 悪態をついた拍子に、咳きこんだ。途端にミラは心配そうな顔つきになり、
「待っていてください。やはり、人間の治癒師を連れてきますから」
 決意の眼差しで立ちあがるミラの袖を、陽一は引っ張った。紫の瞳を見つめて、首をふる。
「いいから、ここにいて」
「ですが」
「平気だから。人間はたまに風邪をひくんだよ。寝てれば治る」
「本当に? いつ治るのですか?」
「そのうち治るよ」
 たぶん、と心の中でつけ加える。ミラは枕もとに膝をついた。陽一の手をとり、もう片方の手を頬に添える。
「本当に、どこも痛くないのですか?」
「ん……」
 熱っぽく火照っている陽一の額を、ミラは絞った手巾で優しくふいた。前髪を優しく撫でてくれる手を感じながら、陽一は目を閉じた。
「何か話をして」
 甘えてみると、ミラのほほえんだ気配がした。
「いいですよ。では、僕が人間界に繰りだした時の話をしますね」
 どうやら物語を聞かせてくれるらしい。わくわくした陽一だが、
「悪魔の燔祭はんさいはそれは賑やかで、人間をいかようにも残虐に弄ぶのです。例えば、最も残酷な餓死の手段が何か、知っていますか? 答えは、裸に剥いて縛って、全身に蜂蜜を塗りたくり、砂糖を溶いた牛乳をたらふく飲ませて――」
「オイッ! やめろ。賑やかで、じゃねぇよ!」
 陽一は荒い声で遮った。身の毛もやだつおぞましい拷問談なぞ、聞きたくない。
「すみません……だけど、面白い話といわれても、何を話せばいいものやら」
 悪魔の困っている様子を見て、陽一は険を和らげた。嫌がらせかと思ったが、そうではなかったらしい。彼とは致命的なまでに価値観が違うということを、うっかり忘れていた。
「なんでもいいよ、痛くない、怖くない、苦しくない話なら……」
 ミラは少し考え、どのように楽園を作ったのかを説明し始めた。
 時々微妙な内容を孕んだが、言葉を選びながら、慎重に話すミラの様子に、不思議と陽一の心は温まった。
 清潔なベッドに横になってくつろぎ、目を閉じて、流れてくるミラの声に身を任せた。頭の片隅では、いきいきと語られる話を楽しみながら、一方で、自分がここに、安全で柔らかな布団のなかにいて、満足に食事を与えられ、ミラの穏やかな声を耳にしていることが信じられなかった。
 ついこの間まで、この鳥籠は牢獄でしかなかったのに、常に餓えていて、生きる希望などみいだせなかったのだから。
 囚われの身であることに変わりはないが、今は、今だけは……奇妙な安らぎに包まれている心地で、密かにほほ笑んだ。