HALEGAIA
2章:
ミラには話が通じないということを、陽一はあらためて思い知らされた。
先日もらった図鑑を眺めていると、不意に空が黄昏めいて、ミラが現れた。彼が唐突にやってくるのはいつものことだが、この時は、地球外の種 と思わしき女性を連れていた。
彼女は、ほっそりと均整のとれた長躰躯に、整った顔立ちをしているが、肌は絵具で塗ったように真っ青で、双眸は白目のない、藍色の硝子をはめこんだような瞳をしていた。胸と股間以外には布のない、露出の高い民族衣装に身を包み、先の尖った耳や、細長い首、腕や足首には、貴石のついた精緻な装飾品を身に着けている。
誰だこの女性 は? 唖然とする陽一を見て、ミラは機嫌良さそうに挨拶を口にした。
「こんにちは、陽一。ご機嫌いかがですか?」
「まぁ……ていうか、誰?」
当然のように顔を寄せてくるミラの顔面を、陽一は遠慮容赦なく鷲掴んだ。
「何をするんです」
不満そうにミラがいった。
「それはこっちの台詞だ。説明しろ、彼女は誰だ?」
陽一は睨みつけていったが、ミラはにっこりした。その笑みの眩さときたら。陽一はくらりと眩暈がして、ふと気がつけば、間抜けな笑みを浮かべながら彼に倒れこみそうになっていた。
「……ハッ!」
我に返って、慌ててミラから距離をとろうとするが、ミラは腰を屈めて陽一の腰を難なく引き寄せた。爪先が軽く浮きあがり、え、と驚く陽一の頭の後ろをしっかりと支え、唇を重ねてきた。
「んん――ッ!」
ミラは陽一の抗議を無視して、キスを深めてくる。いつものことだが、人前でされるのは初めてで、陽一は烈しく混乱した。羞恥に見舞われ、逃げたくてたまらないはずなのに、気がつけばミラにしがみついている始末だ。
「ん、んぅ……っ」
舌のうえを、舌が撫でて、強力な刻印 を上書きしていく。炎を飲みこんだように、一気に躰が熱くなった。
ちゅっ、と濡れた音を立てて唇は離れた。思考が晴れるにつれ、陽一は赤面し、視線を落とした。女性の目をまもとに見ることができない。
「お友達を連れてきましたよ」
微妙な空気にも怯まず、ミラは楽しそうにいった。
「お友達?」
陽一は困惑気味に、おずおずとミラと女性とを交互に見比べた。
「****?」
女性は困ったような表情で、なにかを喋った。陽一は、彼女の言葉を欠片も理解することができなかった。
「****? ****!」
彼女は取り乱したように籠のなかを歩きまわり、何が起きているのか確認しようとした。
「あの、この鳥籠、浮いているけど落ちないから。ていうか、意味不明ですよね……」
陽一が宥め口調で話しかけると、彼女は必死に異国の言葉で訴えてきた。言葉は全く理解できないが、彼女の混乱と焦燥はたやすく理解できた。
「あの、落ち着いて……や、無理か。おいミラ! なんとかしろよ!」
陽一は、ミラを振りむいて怒鳴った。彼は椅子に座って、我関せず、寛いだ様子で本(文鳥の飼育本)なぞ読んでいるのだ。
ミラは顔をあげて陽一を見たが、面白がるような笑みを見せて、眺めているだけだった。この状況に、手を貸す気はないらしい。
不意に肩を掴まれ、陽一は彼女を見た。彼女は、訴えるような表情で陽一を見、ミラを指さしてなにやら喚いた。
「あいつは、ミラっていいます。魔王で、糞野郎で、誘拐犯なんだけど」
しどろもどろで陽一が答えると、後ろでミラが小さく吹きだした。
「ミラ~~~ッ」
陽一は唸り声をあげた。
ミラに会話をする気がないらしいと知り、女性は陽一に身振り手振りで訴えてくる。しかし、意志の疎通は困難を極めた。藍色の瞳がみるみる絶望に染まっていく。しまいには、両手に顔を沈めて、しくしくと泣き始めてしまった。
「だ、大丈夫ですか……」
大丈夫なわけがなかった。陽一がそうだったように、こんなわけの分からない状況に突き落とされて、混乱するなという方が無理な話である。
「ミラってば! なんとかしろよ!」
切羽詰まって陽一が怒鳴ると、ミラはようやく本から顔をあげた。
「彼女は、精霊界 の生物です。大人しい性質をしているので、陽一とは気があうと思いますよ」
「はーれい? 何?」
「ふふ、仲良くしてくださいね。あとで様子を見にきますから」
と、ミラは鳥籠をでていこうとする。陽一は慌てて後ろを追いかけたが、女性に腕を掴まれて足を止めた。振り向くと、涙に濡れた藍色の目と遭った。不安でたまらないという瞳を見て、この女性 はあの時の自分だ――そう思った。
「参ったなぁ……あの、とりあえず、ここに座って」
手を引っ張って誘導すると、彼女は大人しく椅子に座った。どうにかしてこの女性 を助けてあげないと……陽一は身振り手振りで彼女に話しかけ、紅茶を淹れてやった。彼女はカップを受け取ると、礼儀正しく会釈をした。恐る恐る口に含むと、いくらか寛いだ様子になり、初めてほほえんだ。
「****……」
感謝の言葉をいわれたように感じて、陽一も笑顔になった。
いくらか落ち着いたところで、ようやく、お互いの名前が判明した。彼女はティティというらしい。陽一を味方と認識しているようで、しきりに話しかけてきたが、鳥籠からでられそうにないと思い知るにつれ、肩を落とした。
彼女の心の機微が、陽一には痛いほど判った。
幸いにして、この鳥籠は当初に比べたら大分マシな状態になっている。残虐な従僕 がやってくることもないし、食料と水と寝床もある。排泄や入浴といった、生理的な営みの設備すらあるのだ。
(……そんなこと、なんの慰めにもならないだろうけど)
陽一は弱り切った顔で頭を掻いた。この肝心な時に、ミラはどこへいってしまったのだろう? 彼なら、ティティの言葉を話せるはずなのに。そう思っても、ここへ呼ぶことは躊躇われた。舌の刻印 を使えば彼はすぐにでもきてくれるだろうが、その代償にキスを迫られるのだ。
(参ったなァ……)
彼女の見ている前でキスをされるのは嫌だった。既に一度見られているが、二度は……
と、しばらく陽一は葛藤したが、結局、彼女のためだといい聞かせ、ミラを呼んだ。
「こんにちは、陽一」
やってきたミラは、椅子に腰かけるティティと、その傍らで彼女を気遣うように身を屈めている陽一を見て、奇妙な表情を浮かべた。どこか警戒したような、戸惑ったような表情だ。かと思えば、流れるような自然な動作で陽一を抱き寄せ、いつものようにキスを迫ってくる。
「待て! 今はやめろ! するなら、彼女を帰してからにしろ!」
「嫌です」
「こ、このっ」
陽一は必死に逃げようとしたが、魔族の蠱惑を漂わせるミラを前に、無駄な抵抗だった。あっけなっく全面降伏し、唇を明け渡すしかなかった。
「ん……っ」
ティティの前で嫌なのに、敏感な口内をまさぐられ、くぐもった声が漏れてしまう。しまいには抵抗も忘れて、ミラにしがみつき、キスをねだるように背伸びすらしてしまうのだった。
「はぁ、はぁ……」
短くも長くもないキスのあとに、陽一は唇を拭いながら、おずおずとミラを仰いだ。もうさっさと要件を伝えてしまおう。
「あのさ……彼女はティティっていうんだ。色々と不安に思っているだろうから、質問に答えてあげて。っていうか、帰してやれよ」
「随分と打ち解けたようですね」
陽一は困った顔で首を傾げた。
「いや、言葉通じないし……でもティティは偉いよ、懸命に自制していると思うよ」
「ふぅん……」
腰を抱き寄せようとするミラの手を、陽一は慌てて逃れた。
「なんだよ」
「判りました。彼女は帰してきます」
一瞬、陽一は聴覚を疑った。信じられずに凝 っと超俗した美貌を見つめてしまう。
「陽一のために連れてきましたが、いらないというのなら、元の場所に戻してきます」
その言葉を聞いた瞬間、陽一は、世界が失われたような、信じていたものが足元から消え失せたような感覚に襲われた。
そんなにも、簡単に彼女を帰せるのなら、なぜ陽一もそうしてくれないのだろう?
複雑な感情が胸に渦巻いて、ティティを気にかける余裕もなく、強い目でミラを睨みつけた。
「……ついでに、俺も家に帰してくれよ」
「嫌です」
ミラは悪魔じみた笑顔でいった。
心臓から血が流れでたような痛みに襲われ、動けずにいる陽一に構わず、ミラは穏やかな調子でティティに何やら言葉をかけている。
「****!」
ティティは弾んだ声をあげた。彼女の顔に拡がっていく希望と安堵を、陽一は苦々しい気持ちで見守っていた。
「****」
彼女は感激の表情で陽一を振り向き、想いのこもった、恐らくは感謝の言葉を口にした。陽一はかろうじて口元に笑みを溜めたものの、寡黙に頷くことしかできなかった。
もはや彼女に対する善意は消え失せ、裏切られたという気持ちが、痛烈に押し寄せてくる。鳥籠からでていける彼女に安堵する一方で、嫉妬の念がむらむらと湧きあがるのを抑えることができなかった。
感情の波に抗っている間に、ティティは、ぱっと姿を消した。手品かなにかのように、一瞬にして視界から消えたのだ。
「ほら、彼女は帰しましたよ」
褒めて、といわんばかりにミラは陽一を見た。
けれども陽一は、返事をする気になれなかった。ミラが何を考えているのかさっぱり判らない。彼女はいともあっさり手放したくせに、どうして陽一はだめなのだ?
「陽一?」
ミラはうかがうような、慎重な声で呼びかけた。陽一の機嫌を損ねたことに、今さら気がついたというように。
拳を握りしめたまま、陽一は荒れ狂う感情をぶつけたい欲求に抗った。しかし、それはとても困難で、黙って背を向けることしかできなかった。ミラに腕をとられそうになると、音を立てて、振り払った。
「触るな」
冷たく吐き捨てると、ミラは怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうして?」
「今は、お前の顔を見たくねーんだよ」
そういって急いで梯子をのぼり、布団に逃げた。帳をおろして世界を遮断する。ミラは半二階にあがってきたが、帳を捲ろうとはしなかった。黙ったまま、そこにいる。沈黙に彼の困惑がうかがえた。
「陽一? どうして怒っているのですか?」
「……胸に手をあてて、よく考えてみろ」
そういったきり、陽一はむっつりと黙りこんだ。ミラの気配を無視して、胎児のように躰を丸めて、目を閉じる。
残されたミラは、いわれた通りに掌を胸に当て……小さく首を傾げた。
先日もらった図鑑を眺めていると、不意に空が黄昏めいて、ミラが現れた。彼が唐突にやってくるのはいつものことだが、この時は、地球外の
彼女は、ほっそりと均整のとれた長躰躯に、整った顔立ちをしているが、肌は絵具で塗ったように真っ青で、双眸は白目のない、藍色の硝子をはめこんだような瞳をしていた。胸と股間以外には布のない、露出の高い民族衣装に身を包み、先の尖った耳や、細長い首、腕や足首には、貴石のついた精緻な装飾品を身に着けている。
誰だこの
「こんにちは、陽一。ご機嫌いかがですか?」
「まぁ……ていうか、誰?」
当然のように顔を寄せてくるミラの顔面を、陽一は遠慮容赦なく鷲掴んだ。
「何をするんです」
不満そうにミラがいった。
「それはこっちの台詞だ。説明しろ、彼女は誰だ?」
陽一は睨みつけていったが、ミラはにっこりした。その笑みの眩さときたら。陽一はくらりと眩暈がして、ふと気がつけば、間抜けな笑みを浮かべながら彼に倒れこみそうになっていた。
「……ハッ!」
我に返って、慌ててミラから距離をとろうとするが、ミラは腰を屈めて陽一の腰を難なく引き寄せた。爪先が軽く浮きあがり、え、と驚く陽一の頭の後ろをしっかりと支え、唇を重ねてきた。
「んん――ッ!」
ミラは陽一の抗議を無視して、キスを深めてくる。いつものことだが、人前でされるのは初めてで、陽一は烈しく混乱した。羞恥に見舞われ、逃げたくてたまらないはずなのに、気がつけばミラにしがみついている始末だ。
「ん、んぅ……っ」
舌のうえを、舌が撫でて、強力な
ちゅっ、と濡れた音を立てて唇は離れた。思考が晴れるにつれ、陽一は赤面し、視線を落とした。女性の目をまもとに見ることができない。
「お友達を連れてきましたよ」
微妙な空気にも怯まず、ミラは楽しそうにいった。
「お友達?」
陽一は困惑気味に、おずおずとミラと女性とを交互に見比べた。
「****?」
女性は困ったような表情で、なにかを喋った。陽一は、彼女の言葉を欠片も理解することができなかった。
「****? ****!」
彼女は取り乱したように籠のなかを歩きまわり、何が起きているのか確認しようとした。
「あの、この鳥籠、浮いているけど落ちないから。ていうか、意味不明ですよね……」
陽一が宥め口調で話しかけると、彼女は必死に異国の言葉で訴えてきた。言葉は全く理解できないが、彼女の混乱と焦燥はたやすく理解できた。
「あの、落ち着いて……や、無理か。おいミラ! なんとかしろよ!」
陽一は、ミラを振りむいて怒鳴った。彼は椅子に座って、我関せず、寛いだ様子で本(文鳥の飼育本)なぞ読んでいるのだ。
ミラは顔をあげて陽一を見たが、面白がるような笑みを見せて、眺めているだけだった。この状況に、手を貸す気はないらしい。
不意に肩を掴まれ、陽一は彼女を見た。彼女は、訴えるような表情で陽一を見、ミラを指さしてなにやら喚いた。
「あいつは、ミラっていいます。魔王で、糞野郎で、誘拐犯なんだけど」
しどろもどろで陽一が答えると、後ろでミラが小さく吹きだした。
「ミラ~~~ッ」
陽一は唸り声をあげた。
ミラに会話をする気がないらしいと知り、女性は陽一に身振り手振りで訴えてくる。しかし、意志の疎通は困難を極めた。藍色の瞳がみるみる絶望に染まっていく。しまいには、両手に顔を沈めて、しくしくと泣き始めてしまった。
「だ、大丈夫ですか……」
大丈夫なわけがなかった。陽一がそうだったように、こんなわけの分からない状況に突き落とされて、混乱するなという方が無理な話である。
「ミラってば! なんとかしろよ!」
切羽詰まって陽一が怒鳴ると、ミラはようやく本から顔をあげた。
「彼女は、
「はーれい? 何?」
「ふふ、仲良くしてくださいね。あとで様子を見にきますから」
と、ミラは鳥籠をでていこうとする。陽一は慌てて後ろを追いかけたが、女性に腕を掴まれて足を止めた。振り向くと、涙に濡れた藍色の目と遭った。不安でたまらないという瞳を見て、この
「参ったなぁ……あの、とりあえず、ここに座って」
手を引っ張って誘導すると、彼女は大人しく椅子に座った。どうにかしてこの
「****……」
感謝の言葉をいわれたように感じて、陽一も笑顔になった。
いくらか落ち着いたところで、ようやく、お互いの名前が判明した。彼女はティティというらしい。陽一を味方と認識しているようで、しきりに話しかけてきたが、鳥籠からでられそうにないと思い知るにつれ、肩を落とした。
彼女の心の機微が、陽一には痛いほど判った。
幸いにして、この鳥籠は当初に比べたら大分マシな状態になっている。残虐な
(……そんなこと、なんの慰めにもならないだろうけど)
陽一は弱り切った顔で頭を掻いた。この肝心な時に、ミラはどこへいってしまったのだろう? 彼なら、ティティの言葉を話せるはずなのに。そう思っても、ここへ呼ぶことは躊躇われた。舌の
(参ったなァ……)
彼女の見ている前でキスをされるのは嫌だった。既に一度見られているが、二度は……
と、しばらく陽一は葛藤したが、結局、彼女のためだといい聞かせ、ミラを呼んだ。
「こんにちは、陽一」
やってきたミラは、椅子に腰かけるティティと、その傍らで彼女を気遣うように身を屈めている陽一を見て、奇妙な表情を浮かべた。どこか警戒したような、戸惑ったような表情だ。かと思えば、流れるような自然な動作で陽一を抱き寄せ、いつものようにキスを迫ってくる。
「待て! 今はやめろ! するなら、彼女を帰してからにしろ!」
「嫌です」
「こ、このっ」
陽一は必死に逃げようとしたが、魔族の蠱惑を漂わせるミラを前に、無駄な抵抗だった。あっけなっく全面降伏し、唇を明け渡すしかなかった。
「ん……っ」
ティティの前で嫌なのに、敏感な口内をまさぐられ、くぐもった声が漏れてしまう。しまいには抵抗も忘れて、ミラにしがみつき、キスをねだるように背伸びすらしてしまうのだった。
「はぁ、はぁ……」
短くも長くもないキスのあとに、陽一は唇を拭いながら、おずおずとミラを仰いだ。もうさっさと要件を伝えてしまおう。
「あのさ……彼女はティティっていうんだ。色々と不安に思っているだろうから、質問に答えてあげて。っていうか、帰してやれよ」
「随分と打ち解けたようですね」
陽一は困った顔で首を傾げた。
「いや、言葉通じないし……でもティティは偉いよ、懸命に自制していると思うよ」
「ふぅん……」
腰を抱き寄せようとするミラの手を、陽一は慌てて逃れた。
「なんだよ」
「判りました。彼女は帰してきます」
一瞬、陽一は聴覚を疑った。信じられずに
「陽一のために連れてきましたが、いらないというのなら、元の場所に戻してきます」
その言葉を聞いた瞬間、陽一は、世界が失われたような、信じていたものが足元から消え失せたような感覚に襲われた。
そんなにも、簡単に彼女を帰せるのなら、なぜ陽一もそうしてくれないのだろう?
複雑な感情が胸に渦巻いて、ティティを気にかける余裕もなく、強い目でミラを睨みつけた。
「……ついでに、俺も家に帰してくれよ」
「嫌です」
ミラは悪魔じみた笑顔でいった。
心臓から血が流れでたような痛みに襲われ、動けずにいる陽一に構わず、ミラは穏やかな調子でティティに何やら言葉をかけている。
「****!」
ティティは弾んだ声をあげた。彼女の顔に拡がっていく希望と安堵を、陽一は苦々しい気持ちで見守っていた。
「****」
彼女は感激の表情で陽一を振り向き、想いのこもった、恐らくは感謝の言葉を口にした。陽一はかろうじて口元に笑みを溜めたものの、寡黙に頷くことしかできなかった。
もはや彼女に対する善意は消え失せ、裏切られたという気持ちが、痛烈に押し寄せてくる。鳥籠からでていける彼女に安堵する一方で、嫉妬の念がむらむらと湧きあがるのを抑えることができなかった。
感情の波に抗っている間に、ティティは、ぱっと姿を消した。手品かなにかのように、一瞬にして視界から消えたのだ。
「ほら、彼女は帰しましたよ」
褒めて、といわんばかりにミラは陽一を見た。
けれども陽一は、返事をする気になれなかった。ミラが何を考えているのかさっぱり判らない。彼女はいともあっさり手放したくせに、どうして陽一はだめなのだ?
「陽一?」
ミラはうかがうような、慎重な声で呼びかけた。陽一の機嫌を損ねたことに、今さら気がついたというように。
拳を握りしめたまま、陽一は荒れ狂う感情をぶつけたい欲求に抗った。しかし、それはとても困難で、黙って背を向けることしかできなかった。ミラに腕をとられそうになると、音を立てて、振り払った。
「触るな」
冷たく吐き捨てると、ミラは怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうして?」
「今は、お前の顔を見たくねーんだよ」
そういって急いで梯子をのぼり、布団に逃げた。帳をおろして世界を遮断する。ミラは半二階にあがってきたが、帳を捲ろうとはしなかった。黙ったまま、そこにいる。沈黙に彼の困惑がうかがえた。
「陽一? どうして怒っているのですか?」
「……胸に手をあてて、よく考えてみろ」
そういったきり、陽一はむっつりと黙りこんだ。ミラの気配を無視して、胎児のように躰を丸めて、目を閉じる。
残されたミラは、いわれた通りに掌を胸に当て……小さく首を傾げた。