HALEGAIA

1章:鳥籠 - 7 -

「……不思議です。ちっとも殺したいと思わない」
 ミラは、囁くように独りごとをいった。
 殺したいと思わない――普段であれば考えられないことである。しかし、この薄汚れた憐れな少年のことは、助けたいとすら思っている……らしい。
 掴んだ腕は棒きれのように細く、手も紙のように薄っぺらくて静脈が透けて見える。抱きしめた時両手に感じたのは、骨と皮ばかりの躰だった。よく見れば、目の周りやこめかみにも細い血管が透けている。彼が命に関わるほどの栄養失調に苛まれていることは、一目瞭然だった。
 昔、このような状態になるまで人間を衰弱させては癒す、という拷問を繰り返したことがある。しかし、この少年に限っては、同じ目にあわせようとは思わないから不思議だ。
 それどころか、いずれ自分は、流血を伴う禁断の召喚術をおかしてでも、この少年を繋ぎとめようとするだろう――紅蓮大紅蓮の焔のような、壮絶な予感に囚われた。
「……魔界ヘイルガイアうちに囚われているからでしょうか?」
 ミラの呟きは、陽一には全くの意味不明だった。どう反応すべきか迷い、ただ彼をじっと見つめてしまう。先ほど彼は、殺したいといったのだろうか? 聞き違えだろうか?
「あの……ミラ、さん?」
 少年は、陽一を見て天使のようにほほえんだ。
「ミラでいいですよ。悪魔の名前は、人間の舌では発音できないのです」
 陽一は、悪魔と名乗った少年を凝視した。確かに、尋常ではないほど整った容姿をしている。ここは地球外の未知の領域だし、悪魔がいたっておかしくはないのかもしれない。だが、どちらかといえば悪魔というよりも――
「天使ではなくて?」
 ミラは目を丸くし、ゆるゆると口元を笑みに和らげ、小さく噴きだした。
「……ふっ、あはは」
 思わず聞き惚れてしまう、水晶のような笑い声だった。
「長いこと存在していますが、天使に間違われたのは初めてです」
 本人が否定しているから、違うのだろう。しかし、彼があまりにも美しい容姿をしていて、柔らかな物腰で、絶望していた陽一に希望を与えてくれたから、天の御使いに思えたのだ。
「悪魔は、日本語を話せるんですか?」
「はい。悪魔は、人間に対して万能なんです。どんな言語でも操れますよ」
「本当に? じゃあ、ここがどこか判りますか?」
「ええ、ここは僕の創った、楽園コペリオンです。珍しい生きものを蒐集しているんですよ」
「コペリオン」
「はい。それにしても……驚きました。いつもならとっくに……こうも愉快な気持ちになるなんて」
 ミラは穏やかな笑みを浮かべている。けれど、神秘的な菫色の瞳に、正体不明の恐怖を感じて、陽一はおずおずと後ずさりした。
「や、なにがなんだか……あ、あの、貴方は、俺を助けにきてくれたんですか?」
「“落ち着いてください、陽一”」
 その声には、驚くべき鎮静剤の効果があった。穏やかな声を聞いた途端に、陽一の困惑は不思議と落ち着いた。ばくばくしていた心臓の鼓動が穏やかになり、荒れていた感情が凪いでいくのを感じる。
「質問はあとにして、食事と手当をしましょう」
 ミラは優しくいった。
 その言葉をどれほど訊きたかったことか……陽一は肩から力が抜けていくのを感じた。感謝を口にしようとしたが、食べもののことが脳裡をかすめ、腹が大きく鳴った。
 朱くなる陽一を見て、ミラはほほえんだ。
「先ずは、汚れを落としましょうね」
 思わず陽一は自分の恰好を見おろし、きまわりが悪くなった。貴公子のようなミラと比べたら、原始時代の野蛮人である。彼はよく、こんなにも汚い男を、躊躇わずに抱きしめてくれたものだ。
 ミラは恥じ入る陽一をじっと観察したあと、おもむろに手を伸ばし、信じられないことをやってのけた。
 優雅に手を動かしたと思ったら、床は瞬く間に光沢のある、あらゆる色あいの青――淡いターコイズブルーから、鮮やかな青金石色ラピスラズリ、そして、深い紺色まで――磁器タイルに覆われたのだ。緩やかな勾配がつけられており、水が排水口に流れるようになっている。
「えぇ……?」
 驚愕の表情を浮かべる陽一に構わず、ミラの魔法は続く。
 美しいタイルの上に、艶やかな赤銅色の卵型をした浴槽が露われた。おまけに湯気のたつ湯で満たされている。浴槽の傍にアンティークな化粧机、その上にタオルや着替えが詰まれ、バスマットにカーテン、真鍮のシャワースタンドまで次々に現れた。茫然としていた陽一は、不意に服を掴まれて狼狽えた。
「えっ? 何?」
「一人で湯あみできますか?」
「ゆあみ?」
 一瞬、何のことか判らなかったが、すぐに閃いた。
「あ、風呂? はい、できます!」
 そういって服に手をかけるが、弱弱しい動作で、釦をはずすのに苦戦してしまう。ミラは何もいわずに、服を脱ぐのに手を貸してくれた。
「……ありがとう、ございます」
「いえいえ」
 陽一は自分を情けなく感じたが、彼が少しも面倒そうな顔をしないことに救われた。労りに満ちた、看護者の手つきだった。
「それじゃあ、ごゆっくり。何かあれば、呼んでください」
 そういってカーテンの向こうへ消えたミラに、陽一は感謝の言葉をかけた。
 一人になり、スタンドにつけられた丸鏡を覗きこんで、陽一は顔をしかめた。
(うっわ、汚ね)
 垢に塗れて肌は黒ずんで見えるし、頬はこけている。唇の表面は荒れていて、不揃いな無精髭が、さらに不潔な雰囲気を醸している。まったく酷い御面相だ。
 硝子の歯車を捻ると、蜂の巣のような球体から、ほどよく熱い湯が勢いよく降り注いだ。熱い飛沫が湯気をたてながら、陽一の全身を濡らしていく。肌をなでる湯の暖かさにたちまち恍惚となった。
 備えつけの石鹸や麻布を拝借し、べたつく髪を洗い、躰中の垢を落とした。髭剃りで頬もすべすべになった。
 泡と共に昔年せきねんの穢れが落ちると、明るい色の肌があらわれた。元々日焼けしていたので、ここへくる前との差は判らないが、少し白くなったように思う。
 全身を石鹸の香に包まれ、満足して湯気のたち昇る浴槽に躰を沈めると、思わず呻き息が漏れた。
 ちりっとした熱による痛みは一瞬で、すぐに心地よい温もりに恍惚となった。腱、血管、筋肉、骨、細胞の一つ一つが謳いだし、溌剌とした生命の鼓動が、さざなみのように全身を駆け巡っていく……
 湯をでる頃には、筋肉の強張りがほどけて、躰の軋むような痛みもなおっていた。頭のてっぺんから爪先まで、全身ぴかぴかで、薄汚れた家畜から人間に戻った気分である。
 ありがたいことに、籐の衣装棚の上には、いい香りのする柔らかな麻布、真新しい肌着と服が置いてあった。
 鱗革のサンダルに足をすべらせ、とても深いアクアマリン色のコーデュロイのパンツに、象牙色の繻子サテンの上着という、優雅な室内着をまとった。
 カーテンを捲ると、ミラはどこから持ってきたのか、優美な猫脚の椅子に座って、外を眺めていた。彼は、ぱっ、と陽一を振り向いて、にっこりした。
「気分はいかがですか?」
「ありがとうございます、大分いいです」
 陽一もはにかんで笑みをこぼした。ミラは指をぱちんと鳴らし、陽一の濡れた髪を一瞬で乾かした。
「えっ? 乾いてる」
 もう一度指を鳴らすと、タイル敷と浴槽が消えて、クロスのかけられた丸テーブルと、猫脚の優美な椅子が現れた。
「さっきから、どうやってるの??」
 椅子をまじまじと観察する陽一を見て、ミラは小さく笑った。
「どうぞ、座ってください」
 勧められるがまま、陽一は恐る恐る椅子に腰をおろした。するとミラも隣に腰をおろした。長い脚を組んだと思ったら、指を鳴らし、卓の上に白い湯気の立つ紅茶ポッド、カップ、銀のスプーンと角砂糖、乳白色のスープ……次々と出現させていく。
「ご飯だ」
 目を輝かせる陽一を見て、ミラは愉しそうに目を細めた。さぁ、食べてと掌で示され、陽一は恐る恐る湯気のたつスープに口をつけ、驚愕に目を瞠った。
「うめぇ……っ」
 じゃが芋のような、優しい仄甘さが口いっぱいに拡がって、全ての味蕾みらいを一瞬にして虜にした。
 口に入れるまでは正体不明に思えたが、普通に美味しい。普通どころか、過去十六年間に渡って口にしてきたなかで、具は殆ど入っていない素朴な味つけのそれは、最高の食事だった。
「美味しい、美味しい……っ」
 陽一の目から涙が溢れた。まともに口に入れらる食事のありがたさを、これ以上はないというほど噛みしめた。
 泣きながらスープを飲む陽一を、ミラは暖かな眼差しで見つめている。陽一は涙を拭いながら、感謝の笑みを浮かべた。
「本当にありがとうございます」
「どういたしまして」
 陽一の目には、ほほえむミラの後ろに貴い光が射しているように見えた。彼は命の恩人だ。誰にも気づかれずに、飢え死にしかけていたところに、救いの手を差し伸べてくれた。清潔にしてくれて、食事を与えてくれて。なにからなにまで親切にしてくれた。
 スープを飲んで一息つくと、陽一は姿勢を正してミラを見つめた。
「あの、質問してもいいですか?」
「どうぞ」
「ここはどこなんでしょうか?」
「ここは、魔王城パンデモニウムの敷地にある、楽園コペリオンです」
「コペリオンって?」
「広大な自然公園のようなものです。真下に拡がる森を含め、あらゆる世界の、多種多様な生き物が生息しています」
 予想外の回答に、陽一は目を丸くした。
「自然公園? ここが?」
「はい」
「パンデモニウムっていうのは?」
「僕の住んでいる城の呼称です。この楽園コペリオンは、僕が創ったんですよ」
 どこか誇らしげにいうミラの顔を、陽一は戸惑った表情で見つめ返した。城に住んでいるというのも気になるが、それより楽園コペリオンを創ったとは、どういうことなのだろうか。
 まさか、あの凶悪な番人の仲間なのだろうか? ……そうは見えないが、もしそうなら、陽一が番人を突き落としたと知ったら、彼はどう思うだろう?
 疑問に思った瞬間に、ぞくりと肝が冷えた。心臓が早鐘を打ち始め、次第に太鼓のように鳴り響いた。
 蒼白な顔で押し黙る陽一を見て、どうかした? といいたげにミラが首を傾げた。
「あ……の、俺、どうやってここへきたのか、知っていますか?」
 番人のことを訊ねるのは憚られ、別のことを訊ねてみた。
「この鳥籠にいた聖霊の仕業です。聖霊は悪魔と違って、自由に端境はざかいに干渉できますから。陽一のいた人間界を経由して天界パルティーンへ戻るとは、なかなか器用な真似をしましたね」
 ミラは感心したようにいった。
 日本語のはずなのに、彼の説明が全く理解できず、陽一は胃がねじれるような不安に駆られた。
「……よく判らないけど、俺は、家に帰れるのでしょうか?」
 ミラはかぶりを振って、
「それは難しいでしょう。魔界ヘイルガイアから人間界へは、簡単に行き来できない制約があるのです」
 穏やかな声だが否定的な内容で、陽一には冷徹に聞こえた。焦りと恐怖を覚えながら、脳に浸透するまで、何度もミラに訊ねた。彼は、繰り言にうんざりしたりせず、温厚な調子で丁寧に答えてくれたが、陽一を安心させるような答えはくれなかった。
 思考を手放しかけながら、どうにか、陽一が飲みこめた理解は次のようなものである。
 ここは、陽一が暮らしていた世界とは異なる、全く別の次元にある、魔界ヘイルガイアで、悪魔たちの住処だという。
 陽一がここにいる直接の原因は、ミラによってこの鳥籠に囚われた聖霊の仕業で、彼は鳥籠から逃げるために、たまたま陽一を質量交換とやらに利用して、どこぞへ消えた――らしい。完全に理解の範疇を超えている。
「……つまり、その聖霊は、俺を利用して、ここから逃げたんですか?」
「そうですね。悪魔には不可知ですが、恐らく天界パルティーンに戻ったのでしょう」
 陽一は喚きたくなる衝動を堪えた。ミラの説明はいちいち意味不明だが、疑問を抱いては話しが進まない。感情を落ち着けて、沸き起こる幾つもの疑問とミラへの苛立ちを抑えこんだ。
「……そもそも、どうやって捕まえたんですか?」
「普通に、魔王城パンデモニウムにやってきたところを捕まえましたよ」
「それって……そもそも、その聖霊はどうして、魔王城パンデモニウムにきたんですか?」
「彼は天界パルティーンから遣わされた、人間界の世界門を閉じる封じ手なんです。仕事を終えたら、僕に報告する義務がありますから」
 えっ、と陽一は目を瞠った。
「聖霊って、神様の遣いなんですか? 神様の遣いを捕まえちゃったんですか?」
「ええ」
「悪魔か!」
「悪魔ですが?」
 平然と肯定するミラを見て、陽一は脱力した。お前はいったい何者なのだと問いただしたくなる。悪魔か。悪魔なのか。
「そんなことをして、罰があたるんじゃ……」
「いつものことですから。天罰をくだしたくとも、向こうは魔界ヘイルガイアに干渉できませんしね」
 にっこり笑うミラを、陽一は胡乱げに見つめた。
 困ったことに、話を聞けば聞くほど、ミラへの不信感が増してしまう。彼の話が本当なら、陽一がここにいるそもそもの原因は、彼のせいということになる。
 つまり、彼が楽園コペリオンなぞ創らなければ……聖霊をとじこめたりしなければ、陽一はこんなところにいなかったのだ。
「……俺がここにいるのは、ミラさんのせいなの?」
 訊かずにはいられなかった。
「そうかもしれません」
 悪びれもなく肯定するミラを、陽一は理解不能という目で見た。
「じゃあ……だったら、俺を家に帰してくださいよ」
 しぼりだすような低い声でいったが、ミラは怯むどころか、穏やかな微笑すら浮かべた。
「嫌ですよ。せっかく面白いのに、手放したくありません。このまま飼育します」