HALEGAIA

1章:鳥籠 - 6 -

 人間、やればできるのだ。
 興奮が次第に落ち着いてくると、陽一は、深く長いため息を吐いた。顔をあげると、晴れ渡る空が目に染みた。空は白い千切れ雲で、斑模様をなしている。
(やってやったぜ)
 悲願を叶えたのだ。悔いはないが、もう水を確保することはできない。
 一縷いちるの望みをかけて、格子扉から腕を伸ばし、台座に手で触れてみた。まるで空中に螺子か何かで固定されているかのような、硬い感触が伝わってくる。
 浮いてる原理は全くの不明だが、押し当てた掌から、不思議な波動、正体不明のエネルギーに接続しているような、未知の感覚がもたらされた。何かに手繰られているような気もするが、どうすればいいのだろう?
 番人は、どうやってこの乗り物で檻から檻へと移動していたのだろう?
(どうやるんだ? どうやったら動くんだ?)
 手で触って叩いたり、片脚を乗せて靴底で叩いてみたりしたが、さっぱり仕掛けが判らない。
 ある程度の重さが起動に必要なのかもしれない……思い切って、全体重を乗せてみるべきだろうか?
 迷っていると、視界に斜陽が射した。顔をあげれば、空はいきなり黄昏めいて、蒼穹に焔の縞模様をつけていた。
 あまりの美しさに魅入っていた陽一は、思いだしたように、足元に視線を落とした。
 果たして脱出の命綱になるのか、或いは死へと誘う疑似餌なのか……逡巡し、格子をしっかり握りしめ、台座に両足を乗せた。
 と、台座が煌めいた。
 どうしたことか、ふうっと躰が怠くなり、貧血のような脱力感に襲われた。格子を掴む手から力が抜け落ちる。膝からくずおれ、危うい浮遊感に包まれた時、腕を掴まれた。
 混濁していく意識が真っ黒に塗り潰される寸前、翼をもつ、美しい天使の幻覚を見た気がした。

 海の音……囁くような潮の音が聴こえている。
 意識が浮上してきて、ふっと目を醒ますと、誰かが陽一の顔を覗きこんでいた。
「えっ?」
 思わずびくっとなり、目を大きく見開いた。陽一と同い年くらいの少年が、陽一の傍に膝をついて、顔をのぞきこんでいる。
 てっきり陽一は、天使が迎えにきたのだと思った。
 なぜなら、自分の顔をのぞきこんでいる少年は、これまでお目にかかったことがない、想像すらできないほど、完璧な容姿をしていたのだ。
 襟足より眺めに整えられた癖のない真っすぐな、光輪の浮かぶ黒髪。繊細な薔薇いろを帯びた肌は白く、なめらかで、真珠の粉をまぶしたように輝いている。異国の天使を思わせる、アーモンド型の菫色の瞳。類稀たぐいまれな――否、とうてい此の世ならぬ美しさである。
「こんにちは」
 形のよい唇から柔らかな声がこぼれ落ちた。一瞬、日本語だと気づけなかった。ただぼうっと、美貌に憑かれていた。
「聞こえていますか?」
 もう一度、黒髪の少年が訊ねた。理解できることに、陽一は目を丸くした。身を起こそうとしたが、まるで力が入らなかった。
「大丈夫ですか?」
 少年はすっと手をさしのべた。美しい手だ。男性的な骨格だが、女性のように白くなめらかで、爪もきちんと整えられている。
 陽一が、触れていいものか躊躇っていると、彼の方から陽一の手を掴んできた。ぐんと引っ張られ、陽一はふらついたが、彼はびくともせずに軽々と受け留めた。異臭や汚れを気にすることもなく、陽一をぎゅっと抱きしめてくれた。その瞬間に、陽一の視界は潤んだ。
「ふ……っ」
 助かったのだ。
 日本語を話せる人間が、手を差し伸べてくれた。彼がどうやってここへきたのかは不明だが、優しい気遣いの言葉をかけてくれて、暖かな腕で抱き留めてくれた。
 深い安堵が胸にこみあげ、大きな涙の粒となり、こけた頬を伝い落ちていく。
 彼が救世主でないはずがない――陽一は信じて疑わなかった。
「……すみません」
 昂った感情がいくらか和らぎ、陽一は恥ずかしそうに躰を離した。しかし彼は、完全には離れていかず、気遣かわしげに陽一の肘に手を添えていた。
 こうしてみると、少年がいかに長身であるか判る。百七十と少しある陽一より、頭一つ分は高いだろう。均整のとれたしなやかな肢体を、絢爛華麗な異国の式服に包んでいる。黒い細身のズボンに、金装飾の緞子ダマスク織の黒い長衣をあわせ、宝石を鏤めた腰帯で結んでいる。帯から細身の剣をつるし、天鵞絨ベルベッドの外套を両肩の金房飾りで留めて、足元は鱗紋様の長靴といういで立ちである。舞台衣装めいているが、彼にはよく似合っていた。
「ありがとうございます……」
 心からの感謝を言葉にすると、少年はにっこりほほえんだ。
 その笑みの眩さときたら――彼の笑みを見た途端に、心拍数が跳ねあがった。晴れた日の陽光を浴びたかのように、躰がぽかぽかする。彼を見ていると、わけのわからない猛烈な欲求に駆られてしまう。自分でも狂気の沙汰だと思うが、彼に触れたい、触れてほしくてたまらない。中性めいた美貌とはいえ男なのに。彼のもたらす強烈な蠱惑に、躰中の細胞が浸食され、いまだかつて味わったことのない官能を引きずりだされそうな、壮絶な予感がした。
「えぇっと……」
 とても直視していられず、陽一は、自分がなぜ照れているかも判らぬまま視線を反らした。
 すると黒髪の少年は、陽一の方へ身を寄せた。恐る恐る顔をあげると、紫色の瞳と遭った。心臓がどくんと音を立てる。
「あ、の……?」
 すっと掌が伸ばされ、身構える陽一の頬に触れた。
「初めまして、遠藤陽一。僕はミラ********といいます。どうぞよろしく」
 名前を呼ばれて、陽一は目を瞬いた。
「なんで、俺の名前?」
「悪魔ですから、人間のことならなんでも知っています」
 悪魔?
 呆けたようにミラを見つめる陽一を、彼もまたじっと見つめ返してきた。