HALEGAIA
1章:鳥籠 - 5 -
さらに時が経ち、陽一の空腹は、いよいよ限界に達しようとしていた。
健康的なかつての姿は見る影もなく、頬はげっそりとこけ、髪はぼさぼさ、躰も垢に塗れて異臭を放っている。
まるで浮浪者だ。
最初は、どうにか身繕いしようと奮闘していたのだが、そのうちどうでもよくなった。この涯 ての監獄で、人目を気にしてどうするというのだ。
それでも、工夫はしている。ここには何もないので、シャツも靴もベルトも、どんなに汚れても、破れても、身につけているものは大切に使った。インナーシャツは躰を拭くタオル代わりにして、ベルトで尻を拭いている。汚れは死骸の毛皮にこすりつけ、死骸は鳥籠から落としている。
死骸が、唯一の食料であることは判っているが、どうしても、食べられなかった。
これは甘美な肉の塊なんだ。そう自分にいいきかせて、根性で噛みちぎろうと試したこともあるが、想像以上に毛が固くて、口のなかが血まみれになるだけだった。あの時、突き刺さった針のような毛を抜きながら、陽一の心はぽきりと折れたのだ。
「ふ、ぅっ……ぐすっ……」
これは食べられないのだ。どうしても食べられないのだ。
「食べられないんだよぅ……これは……食べられないんだよぅ……」
ひりつく胃の辺りを手でおさえ、喉をひきしめ、絶望的な空腹と、こみあげる吐き気をこらえながら、藁にも縋る思いでひたすらに祈った。
慈悲深き神よ。慈愛篤き神よ。誰か、誰でもいいから、助けて!
どうか、ここにいる自分を見つけて! ここからだして! なんでもするから……お願いします。
どれだけ願っても事態は変わらない……ここから逃げださない限り、生きる道はない。緩慢な餓死が待っているだけだ。しかし逃げるといっても、どうやって逃げだせというのだ? どうやって……
波の音。
風の音。
波の音。
風の音。
仰向けに寝転がり、鳥かごの天井を見つめている。
もう水を飲みにいく気力もなかった。このまま死ぬのだろうか……
(お父さん、お母さん……)
懐かしい、家族の食卓が脳裡を過った。
おでん、すき焼き、豚の生姜焼き、肉じゃが……母の料理はなんでも美味しかった。
食べ物のことばかり考えていたら、口のなかに唾液が滲んだ。食べ物以外のことを考えようと空に目を向けたが、今度は日常の光景が思い浮かんだ。
学校、家族、暖かくて、居心地の良い、家……
東京生まれの、東京育ちである。首都圏の真ん中、賑やかで便利な地域で、何一つ不自由のない暮らしを送っていた。ガス、電気、水道、清潔な服、寝る場所、水洗トイレと熱いシャワー、ネットにテレビ……当たり前のように享受していた文明のありがたさを、痛いほど感じる。それらのどれか一つでも、ここでは絶対に手に入らないものだ。
学校や宿題が面倒だとか、陸上のタイムが伸びないとか、今となってはなんて贅沢な悩みであることか。あの日々に戻れるのなら、何をさしだしても構わないのに――
遣る瀬無い追憶に耽っていると、視界に変化が起きた。天井にへばりついていた甲虫が、ぼたっと落ちたのだ。
最初はびくっとさせられた動きだが、今では見慣れてしまった。あいつも、暇なのかな……そう思う程度だ。
その時、直感が閃いた。
次に怪物がやってきたら、扉に入る瞬間を狙って、飛び蹴りするのはどうだろう。うまくすれば、やつを落下させられないだろうか?
いつも隅で縮こまっているから、まさか陽一が飛びかかってくるとは思わないだろう。予期せぬ突飛な行動をとられたら、さしもの怪物であっても、一瞬、硬直するかもしれない。
あいつを殺せるかもしれない。
怪物を殺したら水が手に入らなくなるが、このままでは、遅かれ早かれ飢え死にするのだ。だったら、その前にあいつを殺して、あの不思議な台座を奪えないだろうか?
番人は、陽一を生かす唯一の命綱だが、同じくらいの比重で、陽一を狂わせるものに、妄執になっていた。番人の無関心さが憎かった。奴は陽一に関心などないのだ。生きようが死のうが、どうでもいいと思っている。それが赦せなかった。
(殺してやる)
陽一の積もりに積もった怒りは、ここへきてついに自己憐憫と哀感を、沸騰寸前の暴力衝動へと変えたのだった。
そして怪物がやってきた。
陽一の疲労困憊は限界に達しようとしていたが、アドレナリンが全身を駆け巡り、頭のなかは冴え渡っていた。
怪物が扉を開けてなかへ入ってこようとした時、陽一は常軌を逸した兇猛 な勇気で、飛び蹴りをお見舞いした。相手は強靭な皮膚に全身を覆われた巨躯だが、狙った通り、不意打ちを食らって蹈鞴 を踏んだ。
「らァッ!」
平衡を乱してよろめく怪物の胸に、さらに反動をつけた渾身の力で蹴りをいれる。ぐらりと巨躯をよろめかせたが、咄嗟に格子を掴んで態勢を整えようとした。
「このッ」
陽一は死に物狂いになり、格子を掴んで足を振りあげ、怪物の無防備に開いた胸を、力いっぱい蹴飛ばした。それでも怪物はなんとか檻に入ってこようとするが、陽一も遮二無二 蹴飛ばした。
「死・ね・よォッ!」
がりがりの躰のどこにそんな力が秘められているのか不思議なほど、最後の絶望的な力を振りしぼり、強烈で重たい蹴りだった。
「ングッ……!」
ついに怪物は巨体をぐらつかせ、足を踏み外して虚空に踊りでた。伸ばされた手は虚空を鷲掴み、あっけなく、二千メートル下へと落ちていった。
陽一はばくばくする心臓の音を聴きながら、森へと落下していき、しまいには小さな点となって消えていく怪物を見守った。
「……やった」
震える声で呟いたあと、闘争本能が昂って、変な笑いがこみあげてきた。
「は、ははっ……はははははは………ざまぁみろっ」
陽一は誇らしげに中指を突き立てて、鬱蒼とした茂みを見下ろした。怪物の姿はもうどこにもなかった。
健康的なかつての姿は見る影もなく、頬はげっそりとこけ、髪はぼさぼさ、躰も垢に塗れて異臭を放っている。
まるで浮浪者だ。
最初は、どうにか身繕いしようと奮闘していたのだが、そのうちどうでもよくなった。この
それでも、工夫はしている。ここには何もないので、シャツも靴もベルトも、どんなに汚れても、破れても、身につけているものは大切に使った。インナーシャツは躰を拭くタオル代わりにして、ベルトで尻を拭いている。汚れは死骸の毛皮にこすりつけ、死骸は鳥籠から落としている。
死骸が、唯一の食料であることは判っているが、どうしても、食べられなかった。
これは甘美な肉の塊なんだ。そう自分にいいきかせて、根性で噛みちぎろうと試したこともあるが、想像以上に毛が固くて、口のなかが血まみれになるだけだった。あの時、突き刺さった針のような毛を抜きながら、陽一の心はぽきりと折れたのだ。
「ふ、ぅっ……ぐすっ……」
これは食べられないのだ。どうしても食べられないのだ。
「食べられないんだよぅ……これは……食べられないんだよぅ……」
ひりつく胃の辺りを手でおさえ、喉をひきしめ、絶望的な空腹と、こみあげる吐き気をこらえながら、藁にも縋る思いでひたすらに祈った。
慈悲深き神よ。慈愛篤き神よ。誰か、誰でもいいから、助けて!
どうか、ここにいる自分を見つけて! ここからだして! なんでもするから……お願いします。
どれだけ願っても事態は変わらない……ここから逃げださない限り、生きる道はない。緩慢な餓死が待っているだけだ。しかし逃げるといっても、どうやって逃げだせというのだ? どうやって……
波の音。
風の音。
波の音。
風の音。
仰向けに寝転がり、鳥かごの天井を見つめている。
もう水を飲みにいく気力もなかった。このまま死ぬのだろうか……
(お父さん、お母さん……)
懐かしい、家族の食卓が脳裡を過った。
おでん、すき焼き、豚の生姜焼き、肉じゃが……母の料理はなんでも美味しかった。
食べ物のことばかり考えていたら、口のなかに唾液が滲んだ。食べ物以外のことを考えようと空に目を向けたが、今度は日常の光景が思い浮かんだ。
学校、家族、暖かくて、居心地の良い、家……
東京生まれの、東京育ちである。首都圏の真ん中、賑やかで便利な地域で、何一つ不自由のない暮らしを送っていた。ガス、電気、水道、清潔な服、寝る場所、水洗トイレと熱いシャワー、ネットにテレビ……当たり前のように享受していた文明のありがたさを、痛いほど感じる。それらのどれか一つでも、ここでは絶対に手に入らないものだ。
学校や宿題が面倒だとか、陸上のタイムが伸びないとか、今となってはなんて贅沢な悩みであることか。あの日々に戻れるのなら、何をさしだしても構わないのに――
遣る瀬無い追憶に耽っていると、視界に変化が起きた。天井にへばりついていた甲虫が、ぼたっと落ちたのだ。
最初はびくっとさせられた動きだが、今では見慣れてしまった。あいつも、暇なのかな……そう思う程度だ。
その時、直感が閃いた。
次に怪物がやってきたら、扉に入る瞬間を狙って、飛び蹴りするのはどうだろう。うまくすれば、やつを落下させられないだろうか?
いつも隅で縮こまっているから、まさか陽一が飛びかかってくるとは思わないだろう。予期せぬ突飛な行動をとられたら、さしもの怪物であっても、一瞬、硬直するかもしれない。
あいつを殺せるかもしれない。
怪物を殺したら水が手に入らなくなるが、このままでは、遅かれ早かれ飢え死にするのだ。だったら、その前にあいつを殺して、あの不思議な台座を奪えないだろうか?
番人は、陽一を生かす唯一の命綱だが、同じくらいの比重で、陽一を狂わせるものに、妄執になっていた。番人の無関心さが憎かった。奴は陽一に関心などないのだ。生きようが死のうが、どうでもいいと思っている。それが赦せなかった。
(殺してやる)
陽一の積もりに積もった怒りは、ここへきてついに自己憐憫と哀感を、沸騰寸前の暴力衝動へと変えたのだった。
そして怪物がやってきた。
陽一の疲労困憊は限界に達しようとしていたが、アドレナリンが全身を駆け巡り、頭のなかは冴え渡っていた。
怪物が扉を開けてなかへ入ってこようとした時、陽一は常軌を逸した
「らァッ!」
平衡を乱してよろめく怪物の胸に、さらに反動をつけた渾身の力で蹴りをいれる。ぐらりと巨躯をよろめかせたが、咄嗟に格子を掴んで態勢を整えようとした。
「このッ」
陽一は死に物狂いになり、格子を掴んで足を振りあげ、怪物の無防備に開いた胸を、力いっぱい蹴飛ばした。それでも怪物はなんとか檻に入ってこようとするが、陽一も
「死・ね・よォッ!」
がりがりの躰のどこにそんな力が秘められているのか不思議なほど、最後の絶望的な力を振りしぼり、強烈で重たい蹴りだった。
「ングッ……!」
ついに怪物は巨体をぐらつかせ、足を踏み外して虚空に踊りでた。伸ばされた手は虚空を鷲掴み、あっけなく、二千メートル下へと落ちていった。
陽一はばくばくする心臓の音を聴きながら、森へと落下していき、しまいには小さな点となって消えていく怪物を見守った。
「……やった」
震える声で呟いたあと、闘争本能が昂って、変な笑いがこみあげてきた。
「は、ははっ……はははははは………ざまぁみろっ」
陽一は誇らしげに中指を突き立てて、鬱蒼とした茂みを見下ろした。怪物の姿はもうどこにもなかった。