HALEGAIA

1章:鳥籠 - 4 -

 ふと目を醒ました時、淡い真珠色がかった水色の朝空を背に、怪物が扉の向こうに立っていた。いつものように鍵を開けて、なかへ入ってくる。
「あ、あの」
 陽一は、勇気をだして声をかけてみた。怪物は陽一を見たが、意味をなさぬ唸り声しか発さなかった。口を縫いつけられているので当然といえばそうなのだが、そもそも、言葉は理解できているのだろうか?
「水、ありがとうございます」
 盥をさして、ぎこちなく笑ってみた。怪物は無言で陽一をじっと見つめた。かと思えば、手にしていた死骸を放った。陽一は慌てていった。
「待って! それは食べられないんです」
 目を見つめながら、必死に首を振ってみせる。
 怪物は不愉快げに目を細め、ずかずかと大股でやってきたと思ったら、巨躯を必死に見あげる陽一を威圧的に睥睨した。
 棍棒のような腕が振りあげるのを見、陽一の胸に恐怖と混乱がふくれあがった。咄嗟に両腕で頭を庇うが、容赦のない、凄まじい衝撃が全身を襲った。
「ぐッ!」
 視界に無数の白い星が飛び散り、浮きあがった躰は硬い床に叩きつけられた。
ぅっ……」
 耳鳴りがして、周囲の音をうまく拾えない。次の拳が飛んでくる前に早く立ちあがらないと――どうにか身を起こした時には、怪物は扉の外にでていた。そのまま火花がぱっと散るようにして、光の粒子を瞬かせながら消えてしまった。
 残された陽一は、ずきずきと痛むこめかみを手で押さえながら、顔を歪めることしかできなかった。
「……うっ……くぅ」
 泣いてもどうにもならないのに、あまりにも惨めで、悔しくて、哀しくて、こらえようのない嗚咽がこみあげた。
 酷い扱いだが、水と餌を持ってくるくらいなのだから、殺す気はないのだ。それなのに、餌が適していないことに頓着しないのは、なぜなのだろう? 腐臭が酷くて、どんなに腹が空いていても、それを食べることはできないのだ。
 鳥籠は無数にあるから、一つ一つに構っている余裕がないのだろうか?
 理不尽な念でいっぱいだが、怪物を怒らせないために、重たい死骸を檻から捨てねばならなかった。
 そうした一連の作業を淡々と繰り返すうちに、当然かもしれないが、陽一は神経を病み、不眠と悪夢に苛まれるようになっていった。
 すなわち、自分は今、果てしなく強烈な夢を見ているのだ。或いは、死後の世界かもしれない。いずれにせよ、陽一は既に死んでいて、肉体はとうに消滅し、魂の監獄に捕らわれているのだ。
 危険な譫妄せんもう状態に陥りながら、理不尽な状況への怒りだけが、かろうじて陽一の意識を繋ぎ留めていた。
 どうしてこんなことになってしまったのか……もしも天罰というのならば、どのような過ちが原因なのだろうか?
 思い返せば、親に反発したこともあるし、いじめられている同級生を見て見ぬふりをしたことも、出来心で万引きしたこともある。
 清廉潔白な人生とはいえないかもしれないが、誰かを容赦なく傷つけるような、極悪人のような振る舞いはしていない。陽一なりに精一杯生きていた。このような目にあういわれはない。
 第一、赦しを求めたくとも、誰に請えばいいのか判らない。番人は陽一がどうなろうとも気にしないのだ。
 打つ手なし、だ。
 怪物の訪れは不規則で、天候や時間に関係なく、気まぐれにやってきた。そのたびに陽一は息をひそめ、鳥籠の隅にじっと座ってやり過ごした。
 もう、食事への不満を訴えたりしない。自分の意見を述べたあとに待ち受ける結果を、嫌というほど思い知ったから。黙っていたって、怪物は気分で陽一を殴ることもあるのだ。そのせいか最近、左耳がよく聴こえない。
 波の音。
 風の音。
 波の音。
 風の音。
 風の音に目を醒ました陽一は、精神的にも肉体的にもぐったりしていた。
 全身が拒絶反応を起こして、気分が悪い。おまけに空腹で、微塵も動く気にならない。けれども、檻のなかの死骸を見て、呻きたくなった。
 あれを始末しておかないと、次に怪物がきた時に嬲られる。
 仕方がないので、消耗した躰を鞭打って、重たい死骸を引きずっていった。
 息切れしながら、檻の淵に死骸をのせる。いつも同じ格子の隙間から落としているので、その付近だけ血がこびりついてしまった。まるで処刑場だ。
 苦労して死骸を捨てた時、落下していく塊を見てふと思った。
 自分もこの檻から飛び降りたら、死ねるのだろうか……
 と、次の瞬間、彗星のように滑空してきた巨大な猛禽が、鋭い鉤爪で獲物をキャッチした。
「えっ……」
 なんてこった――猛禽は獲物を捕まえたまま、悠々と空の彼方へ消えていく。
 これまでに何度か、ここから飛び降りる妄想をしてきたが、猛禽の爪に串刺しにされるところまでは想像できなかった。
(せめて、ひと思いに死ねたらいいのに……)
 感情があるから、辛いのだ。
 普通にある気持ちを切り捨て、淡々と過ごせば、気分はいくらかマシになる。
 脱出して助けを求めるという漠然とした希望は、無為に時間が過ぎていくうちに、ずたずたに切り裂かれてしまった。
 平穏な生活を送っていた時には、自殺願望を抱いたことなんてなかったのに、今では、死ぬことばかり考えている。
(ごめん皆……だけどもう、疲れたよ)
 生きているのか死んでいるのか、よく判らない状態に終止符を打ちたい……
 もしもこれが死後の世界だというのなら、重たい感情に苛まれることのない、完全なる無の世界に連れていってほしかった。