HALEGAIA

1章:鳥籠 - 3 -

 凝視していると、怪物は水甕を背負い直し、持っていた頑丈そうな荷袋に手を突っこみ、ひっぱりだしたそれを、無造作に放った。
「ななな何っ!?」
 陽一は思わずびくっとし、落ちたそれをじっっと見つめた。死骸だ。ぴくりとも動かぬ、なにかの動物だ。
「……これ、何?」
 陽一の問いには答えず、怪物は興味をなくしたように背を向けて、扉をくぐり抜けた。何かに乗っているようだが、足元はよく見えない。次の瞬間、唐突に消えた。
「えっ」
 きょろきょろと首をめぐらせた陽一は、甲虫の鳥籠に視線を留めた。怪物がなかへ入っていくではないか。
 瞬間移動?
 奴は何をしたのだろう?
 よく判らないが、どうやら陽一の檻でしたことと、同じことを繰り返すつもりらしい。
 鳥籠のなかに入り、盥に水をいれて、死骸……餌を放って、鳥籠の外へでていく。
 その動作を、甲虫、肉食花、鷲獅子グリフォン半魚半蛙はんぎょはんあと順番にこなしていった。檻から檻への移動は、全くの理解不能で、物理的法則を無視した瞬間移動にしか見えなかった。光る円盤のようなものが宙に現れたと思ったら、怪物が現れる、といった次第である。科学? 魔法? 正体は判らないが、この上空に浮く檻に、出入りする方法が在ることだけは判った。
 ちなみに、怪物は、黒い靄の鳥籠には入らなかった。餌が違うのだろうか?
 肉眼で怪物の姿が確認できなくなると、陽一は盥の傍に近づいた。
(水だ)
 泥や葉っぱが混じって、多少濁っているが、そんなことは気にならなかった。
(水!!)
 顔を突っこみかねない勢いで水を飲んだ。清水でもないのに、世界で一番美味しい水だとすら感じた。
 やがて生き返った心地で身を起こし、口元を拭いながら、動物を見つめた。息絶えて横たわる獣は、狐ほどの大きさだろうか。致命傷を負ったのか、腹の周囲に赤黒い血が付着している。
(……これをどうしろと?)
 いくら空腹とはいえ、死骸を食べる気にはなれなかった。どんな生きものかも判らぬ、名状し難い六本足の獣で、不快極まる腐臭を放っているのだ。仮に調理できたとしても、こうも強烈な腐臭を放っていては、食中毒を起こしかねない。
 あの怪物は、鳥籠の飼育員なのだろうか?
 雑な扱いだが、一応、水と餌を気にするということは、陽一を殺す気はないらしい……
 かすかな安堵を覚えるものの、状況は絶望的だ。
 あんな奇怪な怪物、見たことがない。ドッキリ特殊メイクであってほしいが、望みは薄いだろう。陽一をこのような状況に陥れて、誰にどのような得があるというのだろうか。このまま、鳥籠に囚われたままなのだろうか……

 空が不規則に変化し、しばらく。
 再び怪物がやってきた。放置されたままの死骸を見るや、怒りも露わにぎろりと陽一を睨みつけた。
「ン―――ッ!!」
 縫いつけられた口の隙間から、憤怒を叫ぶ。あまりの恐怖に陽一は震えあがった。怪物は荒い足取りでやってくると、陽一の上着の襟を掴み、自分の顔に寄せた。陽一は、心底ぞっとする汚らわしい息が顔にかかるのを感じて、身震いした。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさ――」
 怪物は、陽一の後頭部を鷲掴み、叩きつけるようにして死骸の上に落とした。
「うぶぅっ」
 陽一は苦痛に呻いたが、後頭部を鷲掴まれていて、逃げることができない。
 呻きながら悟った。この怪物は、陽一に食えといっているのだ。身の毛もよだつ腐臭を放つ、この死骸を!
「やめろ! ……やめでぇっ!」
 必死に抗うも、まるで歯が立たない。頭を締めつけられ、あまりの痛みに反抗心をくじかれた。
 痛い、
 痛い、
 痛い、
 しくしく泣きながら、おぞましい、不快極まる腐臭に吐き気をもよおしながら、必死に噛みつくしかなかった。
「うぅぅっ……!」
 ところが獣は信じられないほど皮が分厚く、長毛が口のなかに突き刺さるようだった。実際に口のなかが切れて、血の味が拡がった。
 痛い、
 痛い、
 痛い、
 咀嚼することはとうてい無理だ。大口を開けて噛みつくのが精一杯、喉をせりあがってくる酸味を必死に嚥下しなければならなかった。こんなことすぐにでもやめたいが、すぐ頭上で、怪物の荒い息遣いがするから、まだ顔はあげられない。
 すっかり怯懦きょうだにさせられ、目から涙を流し、鼻水を垂らし、ぶるぶると震えている陽一を見下ろして、怪物はくぐもった声で笑っている。弱きものを嬲る、残酷な嗤いだった。
 陽一の顔は、己の吐瀉物と獣の血でたちまちぐちゃぐちゃになった。劣悪極まり、意識が朦朧とし始めると、ようやく怪物は手を離した。
 恐る恐る顔をあげた陽一は、怪物の顔を見て、ぞっとした。
 おぞましいつらには、陰湿で狡猾なものが浮かびあがっていた。飼育員だなんて、とんでもない。この怪物は、陽一が死んだってかまやしないのだ。こいつにとって陽一は、その辺に転がっている石ころも同然、心底どうだっていい、ちっぽけな存在なのだ。
 怪物は、怯え切っている陽一を、ボス猿のように威圧的に睥睨し、やおら背を向けて、悠々と檻の外へでていった。
 気配が完全に消え失せるまで、陽一はじっとこらえた。物音が聴こえなくなると、慎重に身を起こし、安全を確認してから盥に手を突っこみ、死にもの狂いで口をすすぎ始めた。がらがらとうがいして、ぺっと吐きだす。金属の床には丸穴が等間隔に開いているので、水はぽたぽたと鳥籠の下に落ちていった。
(うえぇ、気持ち悪っ……)
 どれだけうがいを繰り返しても、口のなかの違和感は消えなかった。いっそ洗剤で口のなかをごしごしと洗いたいくらいだ。しかし、飲み水が減る一方だと気がついて、延々と口をすすぐことは諦めた。
 顔をあげた拍子に、こめかみを生暖かい液体が伝うのを感じ、手で押さえた。
「あ……」
 掌に血が付着していた。死骸に顔を押しつけられた時に、怪我をしたようだ。
 と、両目から新たな涙が盛りあがった。
 視界が潤んで、ぱたぱたと雫となって落ちていく。手の甲に、生暖かい雫が落ちてはじけた。
「ふぅ……ぅぐっ……助けて……誰か助けて……っ」
 陽一は呼びかけた。家族を想い、心のなかで母を呼んだ。神にも祈った。
 けれども、誰にも届かなかった。