HALEGAIA

1章:鳥籠 - 1 -

 とある人間界、とある年の十月一日。東京。東京都江戸川区。
 逢魔ヶ刻おうまがとき
 高校一年生の遠藤陽一は、いつものように、学校の帰り道を歩いていた。
 どこにでもいそうな、ごく普通の少年である。
 身長百七十余、体重五十五キロ。勉強はそこそこだが、運動は得意で、陸上部に所属している。日に焼けた健康的な肌に、一度も染めたことのない短髪の黒髪。笑うと左頬にえくぼができる、平凡純朴な顔立ち。陽気で明るく、人に好かれやすい性質をしており、家では六つ年下の妹の面倒をよく見る兄である。
 この善良な男子高校生の身に、間もなく奇想天外な難が降りかかろうとは、誰にも想像できないだろう。
 もちろん、当の本人も全く警戒していない。彼は、iPhoneで音楽を聴きながら、家に帰ってからすることを、つらつらと考えていた。
 先ずは、着替えて自主練にいく。部活があってもなくても、近所にある江戸川の河川敷を十キロ走ることは日課だ。その帰りにコンビニに寄って、今日発売の少年誌を買って、帰ったら風呂に入ってご飯を食べて……
 と、その時、すみません、そう囁く誰かの声を聴いた気がした。
「え?」
 陽一は振り向いたが、そこには誰もいなかった。なんら変哲のない光景が拡がっているばかり……だというのに、心のいとをたぐり寄せる、何かがあった。
 一刹那、視界が暗転し、足がもつれて転んだ。硬い床を尻と掌に感じながら、痛みに呻く。
「いってぇ……」
 悪態をつきながら立ちあがったものの、あまりの視界の変化に、茫然となった。
 どうしたことか、均等間隔で並ぶ真鍮の格子が、真っすぐに届く陽を浴びて、白金に輝いている。
 まるで、牢屋のなかにいるみたいだ。格子に近づいてみて、その奇怪な光景にさらに驚いた。
「高っ!」
 眼下に緑の山々の峰、鬱蒼とした森が拡がっている。その向こうには、茫洋ぼうようたるエメラルドグリーンに輝く海……とんでもない眺望である。
 くっきりと明るい真昼の青空に、果たして目の錯覚なのか、無数の鳥籠・・が浮いている。
 と、ここで自分が牢屋ではなく、空に浮いている鳥籠の一つにいるのだと思い至った。
「は……? どうなってんの?」
 空の彼方には、渦巻く銀河が見える。色とりどりの星が極度に密集した領域があり、塵一つない大気のなかで煌めいている。
 どのような仕組みなのか、陽一が入っている鳥籠は、支えるものもなしに地上から遥か上空に浮いていて、たなびく雲が眼下を流れていた。
「そ、んな馬鹿な……」
 陽一は右へ左へ顔を向け、真剣に食い入るように、摩訶不思議な光景を眺め回した。
 視界に映る全てが想像を絶するもので、到底現実世界とは思えない。まるでシュルレアリスムの幻想絵画に、入りこんでしまったみたいだ。
(何がどうなっているんだ?)
 浮いているように見える仕掛けが、何かあるはずなのだ。鏡を反射させているとか、背景はCGによるもので実は浮いていないとか……しかし、リアルだ。
 空気はひんやりしているが、凍てつくほどではない。上空で風は唸っているかといえばそうでもなく、微風が吹いている程度だ。
 なぜだろう……
 陽は蒼穹から眩しく照りつけているが、暑くない。まるで繻子にされたみたいに、柔らかく感じる。
(夢? 夢を見ている??)
 首を捻りつつ、扉を確かめる。外側に複雑な装置――緑青ろくしょうをふいた銅の配管、筒状の硝子管をもつ巨大な鍵が設置されている。硝子管は、黄緑色の光彩を放っており、なんとも異妖だ。
「なんなんだよ?」
 押したりひっぱたりしてみたが、開きそうにない。力いっぱい蹴ってもみたが、びくともしなかった。
 しかし、仮に開けられたとしても、何ができるだろう? 自分は今、地上から二千メートルは上空にいるのだ。パラシュートを背負って落下するか、ヘリか何かで救出してもらうしかない。
 陽一の混乱は深まるばかりだった。
 夢かうつつか、とにかくでたらめな環境で、陽一の常識は一切通用しない。
 先ず、時間の流れが普通ではなかった。
 明らかに陽は暮れつつあったのに、突然、真昼のように明るくなったのだ。少し経つと雨にも降られたが、不思議と鳥籠が濡れることはなく、飛沫が跳ねるようなこともなかった。まるで球体の硝子に覆われているかのように、雨は鳥籠のちょっと離れたところを滑りおちていった。そのあと、からりと晴れた。
 このように空模様も出鱈目だが、万有引力を無視して空に浮いている鳥籠も全くの謎である。
 視認できる鳥籠は五つ。籠の形はどれも同じだが、大きさはまちまちで、なかの住人・・にあわせてあるらしい。
 一番手前の鳥籠は、黒い靄が充満していて、なかの様子が全く判らない。檻のなかに嵐雲らんうんでも発生しているのか、時折不気味に光っている。おまけに黒い靄は生きものみたいに絶えず蠢いており、その正体は判らないが、陰気臭くて禍々しい。
 その奥に、鷲獅子グリフォンがいる。鷲の翼と頭部に、獅子の四肢。躰はかなり大きい。殆ど身動きせず、交差した前脚に頭をのせ、腹を床につけた姿勢で寝そべっている。
 反対側に、亀のような、謎の巨大な甲虫がいる。恐らく、六畳の陽一の部屋くらいの大きさだろう。甲羅は下から上にかけて、蒼から赤の美しいグラデーションを織りなしている。
 その隣に、これまた巨大な植物がいる。鳥籠も大きい。毒々しいチューリップのような形状で、花弁の内側にびっしり牙が並んだ凶悪な外貌からは、肉食を思わせる。空腹なのか、時々不気味な唸り声を発している。
 一番高度の低い位置にある鳥籠には、原初的な古い時代の姿形を思わせる、海碧色の半魚半蛙はんぎょはんあがいる。丸い瞳は、死んだ魚のように無彩色で、純粋つ邪悪。どこを見ているのか全くの不明で、大きな口は少し開いている。苦痛も退屈も感じていなさそうな面で、檻の中央に鎮座している。
 そして、陽一。
 檻の住人たちは、生きているという点をのぞいて、共通点が皆無だ。それぞれが、全く別世界のスピシーズのように見える。
「おーい、誰か! 助けてっ! 誰かぁっ」
 もう何度も叫んでいるが、一度もいらえはない。否、鷲獅子グリフォンと甲虫は反応しなかったが、黒い靄と肉食花は反応を示した。黒い靄は渦になり、突然、無数の黒い手を突きだし、檻を掴んだのである。
「うわっ! 何っ!?」
 陽一はびっくりして格子から離れた。
 正体不明の黒い靄は、威嚇するような暗澹あんたんたるおどろおどろしさで、変幻自在に見えるが、どうやら檻の外へはでられないらしい。或いは、重力とは無縁の形態に見えるが、外へでた途端に落下してしまうのだろうか?
 一方、肉食花は、蒼天に向かって喧嘩を売るかのように、怒りの咆哮をあげている。言葉は意味不明だが、怒りの感情は伝わってくる。黒い靄も、肉食花も、この状況が不本意なのだ。じっとしている鷲獅子グリフォンや甲虫は、諦めてしまっているのかもしれない。
 陽一は高所恐怖症でも閉所恐怖症でもなかったが、この状況には発狂しそうだった。
 ここはどこなんだ?
 これは現実なのか?
 なにか重大な事件に巻きこまれて、途方もない僻地へきちに攫われてしまったのだろうか?
 その疑問に導かれるようにして、漠たる不安が胸に押し迫った。
 もしかしたら、空想の世界なのかもしれない。不運な事故に遭ったかなにかで、躰は病院のベッドに横たわり、野放図な夢を見ているのかもしれない。
 そうであってほしいが、誤魔化しようのない尿意が、これは現実なのだと訴えてくる。
 トイレはないので、上空からいたした。雄大な峰々をみおろしながら自分を解放するのは、なかなか貴重な体験であった。そういえば、雨は目に見えぬ防壁に弾かれたのに、小便はそのまま地上へ落ちていった。しかし、小便はまだしも大便は勘弁してほしい。
 一刻も早く、救出してほしい。水も食料もないのだ。このままの状態が続けば、遅かれ早かれ飢死してしまう。
 しかし、助けを呼ぼうにも、手段がない。おまけに肩にかけていた鞄もない。なかには飲み水とチョコバー、iPhoneが入っていたのに。
「誰か! 助けてっ! 誰かいませんかーっ!?」
 叫んでもいらえはない。否、離れたところで、黒い靄がざわめいて、肉食花が雄たけびをあげている。それ以外は、なんの変化もなかった。
「誰か……」
 陽一は戦慄わななく唇を噛み締めた。瞼の奥が熱くなる。
「うっく……誰か、助けて……っ」
 言葉にできない絶望感、わけが判らないという無力感、唖然たる思いに捕らわれて、手すりを掴んだまま、ずるずると屈みこんだ。そのまま膝の間に顔をうずめて、抑えようのないすすり泣きを漏らした。