HALEGAIA

1章:鳥籠 - 0 -






















 三千世界の一つ、とある人間界の命運が尽きた。
 神は、腐敗を極めた地上世界を見放し、再生の工程に入ることを決めたのである。
 この時を、ジュピターは長いこと待っていた。端境はざかいを行き来するジュピターは、天界パルティーン魔界ヘイルガイアの伝達役、また、地上界の結界を解き、魔界ヘイルガイアの王に進軍を依頼する役も負っている。
 ジュピターは黄金の巻き毛に翡翠の瞳と翼をもつ、迦陵頻伽かりょうびんがのように艶麗、つ清麗な両性具有の聖霊である。
 これまでに天使も、悪魔も、妖も、人間も、多くの男や女がジュピターの気を惹こうとしてきた。聖霊とはそういう存在なのだ。
 だが、ジュピターが愛しているのは魔界ヘイルガイアの王、ただ一人。
 どのジュピターも・・・・・・・・彼に夢中で、好きで好きでたまらなくて、まわりのものは目に入らないほど、声を聴くだけで四肢が震えるほど、添い遂げられるなら永劫に消滅してもいいと思えるほど、彼のことを愛していた。
 だから、この日をずっと待っていた。愛おしい魔王に一目あえる日を、一日千秋の想いで待っていた。
 送り手であるジュピターが魔王に会えるのは、人間界の結界を解いて、神が再生の工程を終え、封じ手が結界を閉じるまでの間だけだ。他の送り手たちと感覚を共有しているから、無数に在る人間界のどれかが破滅する度に会えるとはいえ、悪魔たちのようにいつでも魔王城パンデモニウムに出入りできるわけではない。
(今度の蹂躙は長く続くと良いわ)
 そうねがいながら人間界の結界を解き、数世紀ぶりに、意気揚々と魔王城パンデモニウムを訪れた。
 期待に胸を膨らませながら謁見広間へ入ると、愛しい魔王の姿が目に飛びこんできた。
 長い脚を組んで豪奢な椅子に座しているのは、魔王ミラ――魔界ヘイルガイアの絶対君主、比類ない美貌、黒い翼と巻きあがる対の角をもち、悪魔文字の刻まれた数百千万もの血を吸った剣、ベムブリンガムをく者だ。
「ご機嫌麗しく、魔王さま……」
 ジュピターは玉座前で跪き、恭しくこうべを垂れた。夢にまで見た、凛々しい顔貌かんばせ……艶やかな黒髪、魔性に煌めく紫の瞳、おさなくも妖艶な美貌に、これ以上はないというほど胸を高鳴らせながら、丁寧な口調で続ける。
「万事滞りなく、結界を解いて参りました。尽きましては、暁闇のうちに出兵をされますよう、お願い申しあげます」
「判りました」
 ミラは事務的に応じると、やおら億劫そうに立ちあがった。
 ジュピターは不興を買う恐れを抱きながら、意を決し、あの……と続けた。
「かの封じ手を帰してほしい、神がおっしゃられています」
 するとミラは、愉快そうに、少しだけ口角をもちあげてみせた。
あの世界・・・・は、もう少し遊びたいです。結界もほんの少ししか解かれていないし、大目に見てくださいよ」
 ジュピターは恐縮した顔で頷いた。神も絶対とはいっていなかった。魔王がそう望むのなら仕方がない。
 懸命にもジュピターは反論を控え、ミラが広間をでていく様子を、跪いたまま見送った。
 今しがたの彼等の会話だが、これは天使と悪魔の金科玉条きんかぎょくじょうに触れる話である。
 すなわち、天使は生きものを傷つけることはできないので、天地創造のために、悪魔に大量虐殺を依頼するのである。
 悪魔は人間が大好きで、彼等を前にすると嬲らずにはいられないのだが、人間界へ自由に出入りできない。人間界は神の結界に守られているのだ。しかし、今回のように神が地上を見放し、結界を解けば、悪魔の出番というわけだ。

 かくして、某人間界の世紀末。
 魔族降臨。悪鬼外道が焦熱地獄と共に地上へ降りてくる。
 魔族の筆頭であるミラは、黒と深紅の衣を翻し、ほのおの軍馬にまたがる数千騎もの悪魔を従え、威風堂々と宣言した。
同胞はらからたちよ、殲滅しなさい」
 魔王の命令一下いつか矮躯わいく、巨躯の悪鬼たちは唸るような雄たけびをあげた。
 淑女ならびに紳士の皆さまレディス・アンド・ジェントルマン! お待ちかねの血みどろ芝居グラン・ギニヨルの始まり始まり――欣喜雀躍きんきじゃくやくしながら跳ねていく。
 地上はたちまち阿鼻叫喚に包まれた。
 日常が地獄に、笑いが恐怖に、恐怖が笑いに、未曾有みぞうの大混乱、悪魔の燔祭ホロコーストに呑みこまれて、血飛沫、肉飛沫の雨霰あめあられ
 間もなく、全ての大都市メトロポリス灰燼かいじんに帰し、死都ネクロポリスに堕ちるだろう。
 冥界ハデスの門が開き、魂を回収したあと、天界パルティーンから光が射す。
 そして、神々は創造を始める。
 大波で地上を洗い、原始の産声をあげて海底が隆起する。天衣無縫にして驚天動地の御業で、新世界を孵化させるのだ。
 一大叙事詩ともいえる光景だが、ミラにとっては、いつもの光景である。
 今さら悪魔たちに交じって、最後の花火を楽しむ気にもなれない。強姦、輪姦、破壊、虐殺、拷問、解剖……なにもかも、やり尽くしてしまった。千差万別の無辜むこな、或いは混沌を求めている人間も、最後は一様に血と臓物と肉片、糞尿をまき散らし、事切れてしまう。そのような地獄絵図はもう、見飽きてしまったのだ。
「はぁ~……暇……」
 かくと燃える大都市を見下ろしながら、ミラは退屈をもて余していた。途方もない幾星霜在る上位次元者特有の悩みに、彼もまた苛まれているのだ。
(もう、ぱぱっと終わらせて魔界ヘイルガイアに帰ろうかしら。でも、久しぶりの娑婆しゃばに皆浮かれているしなぁ……)
 仕方がないので、しばらく昼寝でもしようかと考えた時、魔界ヘイルガイアに異変を察知した。
 奇妙な、不明瞭な接続である。魔界ヘイルガイアにおいて、ミラに感知できないことは滅多にない。
 正体を見極めようと霊感を巡らせると、無数にある鳥籠の一つに異変を感じた。そう、興味本位に閉じこめた、端境はざかいの封じ手の存在を感じられなかった。
(逃げた? でも、どうやって?)
 不思議なことである。鳥籠にいれたはずの聖霊の気配はないが、どういうわけか、別の存在を感じる。どうやら、奇妙なことに、人間が入っているらしい?
「魔王さま、いかがされましたか?」
 一点を見つめて黙考するミラの様子に、側近の一人、オデュッセロが不思議そうに訊ねた。ミラは彼を振り向いて、悪戯好きの悪童のような笑みを浮かべた。
楽園コペリオンに戻ります。あとのことは任せましたよ」
 血なまぐさい謝肉祭カーニバルよりも、もっとずっと、興味深い。
 ミラは、予期せぬ出来事に、本当に久しぶりに、少しだけ胸を高鳴らせながら、翼を広げた。