FAの世界
3章:大水晶環壁 - 8 -
さらに数日が過ぎた日の夜、アーシェルは厳かな声で、虹に水晶ノ刻が満ちたことを伝えた。
囲炉裏の火鉢を眺めながら、虹はぼんやりと彼の報告を聞いていた。
ふたつの感情が胸をよぎった。それぞれの感情が息をのむほど強烈だった。
最初に感じたのは、望郷。八畳のアパートが思いだされた。天井は低く、狭くて、質素で、奢侈 な暮らしとは無縁だったが、居心地は良かった。いまはもう幾星霜の彼方に遠のいてしまった、かつて寝起きしていた家、日常への憧れ。
次に感じたのは、怒り。理解の及ばぬ力に攫われ、世界から切り離されたこと。理不尽な要求、そして与えられた立場に対する憤り。
ふたつの感情はぴったり均衡をたもっていて、虹をその場に縛りつけた。衝動的に席を立ちはしなかったが、躰は瘧 にかかったように震えていた。
「どうか欠席させてください」
無駄と知りつつ、くちにせずにはいられなかった。
「豊穣の宴を皆が心待ちにしております」
宥めるようにアーシェルがいった。不服げに沈黙する虹を見て、さらに続ける。
「虹 様の、虹 をかけて噴きあがる御汐噴きをひと目見たいと願い、命を呼び醒ます土壌に種を蒔きたいと皆が希 っているのです」
虹は、頭のなかが渦巻くような混乱を覚えた。
「やめてください。邪教の生贄にされるのはまっぴらだ」
「そのようなことを――一族の連帯と万物蘇生を標榜 する我らの信仰でございますよ」
彼が本気でそう思っていることは、真剣な表情を見ればわかる。
虹には胡乱 の理論でも、アーシェルにとっては、息を吸うように当たり前に紡がれるのだ。
「聖餐に列席したいと、此度も多数の申請がありました。もちろん虹様の負担にならぬよう厳選いたしましたが、とても難しい選択でした」
と、アーシェルは生き生きと語るが、虹は絶望に顔をゆがめた。
「僕は厭ですよ。今度こそ本当に心を病みそう……だけど、そんなことはどうだっていいんですよね」
「まさか、違います」
アーシェルはきっぱりと断じた。虹の顔が苦悶に歪む。
「だけど、僕はまた犯されるんでしょう? ……異常ですよ。住民全員が強姦魔なんて、こんな里はさっさと滅んだ方がいいと思う」
「虹様! 言葉が過ぎますよ。我らは虹様の忠実な隷 でいますのに」
「忠実? どこらへんが? 僕がやめてと訴えたって、やめてくれないくせに」
「虹様……」
空気が張り詰めるのを感じて、虹はくちを閉じた。ただ注意深さと頭のめぐりとを研ぎ澄ますべく務めるが――
「先日、キャメロン王の亡霊を見ました」
アーシェルは少し怪訝そうな顔をしたあと、表情が変わった。
「彼 の御方が、来駕 されたのですか?」
「敵が攻めてくるのは、僕がアーシェルさんたちを受け入れないせいだとなじられましたよ。受け入れられるわけ、ないじゃないですか」
強い意志をこめて告げたが、アーシェルは眉をひそめるだけだった。
「我らの心は一つです。どうか恐れずに、御心を開いてくださいませぬか」
「僕は貴方たちとは違う。里の流儀にも宗教にも同調できないんです。ここで強要されていることが、苦痛でたまらないんです」
「容易ではないことも、時間がかかることも承知しております。それでもどうか、諦めないでいただきたいのです」
「すみません、どうしても無理なんです。あんなこと……僕にはなじめっこない」
大慶 の祝宴――画家ヒエロニムス・ボスもびっくりする快楽の極 だ。まったくひどい世界だ。傍観者でいられるのならご勝手にどうぞだが、当事者としては黙っていられない。
「とても御立派にお役目を果たされておりましたよ」
「お役目って……」
不意に、林檎の腐敗したような甘い香りが蘇った。
喘ぎすぎて喉がひりひりする感じ。舌に感じた酒精。乳首に疾 る射精感。燃えるように熱い奥処への突きあげ――現実以上に生々しい感じがして、ぎゅっと硬く目をつむる。
「……厭だ。思いだしたくない」
心を守る防衛本能が、凝視に堪えぬ記憶に蓋をした。これまでにも何度かあることで、虹は、記憶の揺り返しに溺れそうになると、思考を朧にさせる癖がついていた。
「虹様」
背に掌が押し当てられ、虹はびくっとする。身をよじって、慰めの仕草から逃げた。
「ひとりにしてください。お願いです。もうでていってください」
抑揚のない声には、はっきりと拒絶が滲んでいた。アーシェルの戸惑う気配がする。
「御心を悩ませてしまい、申し訳ありませんでした。ごゆっくりとお休みください」
そっと顔をあげると、アーシェルは寂しげに顔を伏せていた。
――休めるわけがない。虹は憤りを覚えたが、奇妙な眠気が忍び寄ってくるのを感じた。
「今夜は特別な香を焚いております。御心が少しでも癒されますように」
疑問を読んだように、アーシェルがいった。
ぼんやりと虹は顔をあげた。
“星を歌いし者 ”のとまっている楡の枝から銀の香炉がふたつ吊りさげられ、香りのよい薬草を炭火の上で焼いて、空気を香しいものにしている。いつもと変わらぬ仄かな柑橘の香りだ。けれども特別な調合がされていたのだろう。催眠、精神安定の類の。
「……ああ……僕を眠らせるのか……」
怒りはなかった。動揺すら。ただ静かな無念の情が満ちてきた。虚しさが。水底に沈んだ故郷の湖面を渡る漣 が……
傾く虹の躰を、アーシェルは丁寧な手つきで支え、抱きあげた。そのまま丁重に寝室まで運び、褥 のうえに寝かせた。
「……いつかご理解いただけると信じております。我が水晶の君」
力なく横臥する虹に、アーシェルはそっと上掛けをかけた。
「お休みなさいませ、虹様」
祈るように小さく囁く。すぐにはその場を離れず、寝顔をしばし見守り、やがて寝台を囲う帳 をおろした。
囲炉裏の火鉢を眺めながら、虹はぼんやりと彼の報告を聞いていた。
ふたつの感情が胸をよぎった。それぞれの感情が息をのむほど強烈だった。
最初に感じたのは、望郷。八畳のアパートが思いだされた。天井は低く、狭くて、質素で、
次に感じたのは、怒り。理解の及ばぬ力に攫われ、世界から切り離されたこと。理不尽な要求、そして与えられた立場に対する憤り。
ふたつの感情はぴったり均衡をたもっていて、虹をその場に縛りつけた。衝動的に席を立ちはしなかったが、躰は
「どうか欠席させてください」
無駄と知りつつ、くちにせずにはいられなかった。
「豊穣の宴を皆が心待ちにしております」
宥めるようにアーシェルがいった。不服げに沈黙する虹を見て、さらに続ける。
「
虹は、頭のなかが渦巻くような混乱を覚えた。
「やめてください。邪教の生贄にされるのはまっぴらだ」
「そのようなことを――一族の連帯と万物蘇生を
彼が本気でそう思っていることは、真剣な表情を見ればわかる。
虹には
「聖餐に列席したいと、此度も多数の申請がありました。もちろん虹様の負担にならぬよう厳選いたしましたが、とても難しい選択でした」
と、アーシェルは生き生きと語るが、虹は絶望に顔をゆがめた。
「僕は厭ですよ。今度こそ本当に心を病みそう……だけど、そんなことはどうだっていいんですよね」
「まさか、違います」
アーシェルはきっぱりと断じた。虹の顔が苦悶に歪む。
「だけど、僕はまた犯されるんでしょう? ……異常ですよ。住民全員が強姦魔なんて、こんな里はさっさと滅んだ方がいいと思う」
「虹様! 言葉が過ぎますよ。我らは虹様の忠実な
「忠実? どこらへんが? 僕がやめてと訴えたって、やめてくれないくせに」
「虹様……」
空気が張り詰めるのを感じて、虹はくちを閉じた。ただ注意深さと頭のめぐりとを研ぎ澄ますべく務めるが――
「先日、キャメロン王の亡霊を見ました」
アーシェルは少し怪訝そうな顔をしたあと、表情が変わった。
「
「敵が攻めてくるのは、僕がアーシェルさんたちを受け入れないせいだとなじられましたよ。受け入れられるわけ、ないじゃないですか」
強い意志をこめて告げたが、アーシェルは眉をひそめるだけだった。
「我らの心は一つです。どうか恐れずに、御心を開いてくださいませぬか」
「僕は貴方たちとは違う。里の流儀にも宗教にも同調できないんです。ここで強要されていることが、苦痛でたまらないんです」
「容易ではないことも、時間がかかることも承知しております。それでもどうか、諦めないでいただきたいのです」
「すみません、どうしても無理なんです。あんなこと……僕にはなじめっこない」
「とても御立派にお役目を果たされておりましたよ」
「お役目って……」
不意に、林檎の腐敗したような甘い香りが蘇った。
喘ぎすぎて喉がひりひりする感じ。舌に感じた酒精。乳首に
「……厭だ。思いだしたくない」
心を守る防衛本能が、凝視に堪えぬ記憶に蓋をした。これまでにも何度かあることで、虹は、記憶の揺り返しに溺れそうになると、思考を朧にさせる癖がついていた。
「虹様」
背に掌が押し当てられ、虹はびくっとする。身をよじって、慰めの仕草から逃げた。
「ひとりにしてください。お願いです。もうでていってください」
抑揚のない声には、はっきりと拒絶が滲んでいた。アーシェルの戸惑う気配がする。
「御心を悩ませてしまい、申し訳ありませんでした。ごゆっくりとお休みください」
そっと顔をあげると、アーシェルは寂しげに顔を伏せていた。
――休めるわけがない。虹は憤りを覚えたが、奇妙な眠気が忍び寄ってくるのを感じた。
「今夜は特別な香を焚いております。御心が少しでも癒されますように」
疑問を読んだように、アーシェルがいった。
ぼんやりと虹は顔をあげた。
“
「……ああ……僕を眠らせるのか……」
怒りはなかった。動揺すら。ただ静かな無念の情が満ちてきた。虚しさが。水底に沈んだ故郷の湖面を渡る
傾く虹の躰を、アーシェルは丁寧な手つきで支え、抱きあげた。そのまま丁重に寝室まで運び、
「……いつかご理解いただけると信じております。我が水晶の君」
力なく横臥する虹に、アーシェルはそっと上掛けをかけた。
「お休みなさいませ、虹様」
祈るように小さく囁く。すぐにはその場を離れず、寝顔をしばし見守り、やがて寝台を囲う