FAの世界

3章:大水晶環壁 - 7 -

 虚ろなまま数日を過ごした。
 夜、窓から流れこむ星明りが寝室を青白く濡らしている。
 虹は、食事もせずに、ぼんやりと寝台に横臥していた。
 遠くから聴こえてくる、滝のせせらぎ、梢の葉擦れ、水鳥の囁きを別世界の音のように感じる。風雅を感じる余裕はなく、すっかり気が抜けている。過ぎ去った恋の逢瀬の煌めきが、現在からすっかり生気をし取ってしまったみたいに。
 ――逃げたい。
 ここは鳥籠だ。あの大水晶環壁かんぺきは、外界から隠匿するための防壁であると同時に、裡にいる者を逃がさない檻のように思う。
 逃げたいけど逃げられない。己は本当に、途方もなく遠くへ来過ぎてしまったのだ……
 不意に空気が動く気配がした。顔をあげると、勃然と光の粒子が生じて、輪郭を帯びようとしていた。
「あなたは……」
 虹は信じられない思いで躰を起こした。
“私にこれ以上姿を与えてはいけません”
 誰かが囁いた。
 星の瞬きのような微光が次々に生まれて、人の輪郭をかたどる。やがてひとりの青年が顕れた。
 キャメロン――千年前に水晶族を統治していた、美しい青年王。
 初めてまみえたのに、虹は不思議な既視感を覚えた。
 透き通るような肌に、淡い巻き毛の金髪、煌めく焔めいた緑柱石ベリルの瞳。宝石のような双眸に魅入られる。澄み透った瞳のなかに、途方もない深淵が見えた。まるで太古の森を覗きこんでいるような……
「キャメロンさん……」
 虹は茫然と呟いた。あれ以来どんなに呼びかけても応答がなかったのに、どうして今このタイミングで顕れたのだろう?
「これは真理に反する姿です。私は水晶波の残滓。コウの逃げたいという心が生みだした、意識の投影に過ぎません」
 若々しい青年の声は、幾星霜の哀切を帯びていた。記憶のなかの幻聴と同じ……彼は亡霊なのか?
「僕は幻覚を見ているのですか?」
 警戒心と希望をたたえた目を大きく見開いて、虹は困惑気味に呟いた。
「そう捉えて頂いて構いません。これ以上私を認識してはいけません。私は既に水晶核をたくしたのです。どうか拒絶しないで」
「草津温泉で僕に声をかけたのは、貴方ですよね?」
 キャメロンの微笑を見たとき、虹の胸に、形容し難い感情が迸った。
「どうして僕だったんですか?」
 最も訊きたい質問は、それに尽きた。
「水晶が囁いたのです。私は死と共に無数の煌めきとなって、宇宙を永劫無限に旅しました。そうして音叉が音響をとらえるように、囁きを聴いたのがコウだったのです」
 いとも厳かに呪文をじゅするような口調だ。水晶が囁いた? 目眩がしてくる説明だ。
「聴きたくて聴いたわけじゃありません。僕は了承した覚えなんてないのに、どうして勝手に連れてきたんですか」
「水晶が囁いたのです。遠国とつくにの王よ」
 免罪符のように繰り返されて、虹は叫びだしたい気分になった。
「いや、理由になっていないでしょう」
「真理です。虹にも解るはずなのですが、その胸に疑懼ぎくを抱いているのは、継承を阻まれたせいです。召喚はなされたのに、いまだ水晶核が定着していない」
「阻まれた? 誰に?」
「黄金の錬金術師です。私が最期を迎えてあまねく宇宙に水晶波を送ったとき、彼らはその欠片を捕らえ、大水晶環壁かんぺきを破壊する恐るべき計画を思いついたのです。私と接触することは非常に危険です」
「すみません、ちょっとよく判らない……」
「コウの拒絶が水晶核の定着を拒むのです。どうか受けれてほしい。大水晶環壁かんぺきが破壊される前に」
「そういわれても……僕が本当に持っているなら、水晶核をお返ししたいのですが」
「それはできません。次の水晶王はコウ、貴方です。どうか我が一族を助けてください」
「僕だって、水晶族の滅亡なんて望んでいません。皆に不幸になってほしいわけじゃないんです。ただ、日本に帰りたいだけで……っ」
 帰りたい。虹は狼狽して、片手で顔を覆った。
「ここは貴方の新たな故郷です。同胞たちは、貴方の心の慰めにはなりませんか?」
 真摯に訴えられて、幾人かの顔が脳裏をよぎる。そしてアーシェル。刺すような熱い悲しみを覚えた。ふたりきりの恋人でいられたのなら、彼の質問にも笑顔で頷けたかもしれない。今は傍にいても苦しいだけだ。
「……皆親切にしてくれるけど、僕を種づけの道具だと思っている。そこに気がついてしまうと、何もかも虚しいだけですよ」
「道具だなんて。貴方の意向に心からの讃嘆と、崇敬と、恭順の念を抱いているはずですよ」
「僕にはそう思えません。水晶族の繁殖と里を守る為なら、僕の意思なんて二の次ですよ。僕がどんな目にあったか、貴方は知っているんですか?」
 まくしたてながら、果たして己は誰としゃべっているのだろうと疑問に思う。現実逃避のあまり、幻覚を見ているのだろうか?
 キャメロンは悲しそうな顔になる。
「もう時間がありません。間もなく宿敵が大水晶環壁かんぺきに攻めてくるでしょう。無血開城とはなりません。この国の安寧は虹の覚醒なくしてありえないのです」
「そんなことをいわれたって……」
 言葉を躊躇う虹を、キャメロンはじっと見つめた。
「水晶ノ刻が近づいています。無垢な心で、しもべとの絆を深めるのです」
 虹は眩暈がした。
「無茶をいわないでください。日本に帰りたい最たる理由は、まさにその淫乱宗教だというのに」
 キャメロンの朧な輪郭がいちだん明るく、くっきりと輝いた。
大慶たいけいの祝宴は、貴方を貶めるようなものではありません。一族の結束を、絆を高めるためにあるのです」
「それはおたくらの主義でしょ。僕のじゃない」
 思った以上に冷たい声がでた。会話が途切れて、しまったと感じるが、取り繕うのも違う気がした。
 だったら無言を貫けばいいのだが、小心者のさがで沈黙に焦り始めた。言葉の接ぎ穂を探していると、先にキャメロンが口火を切った。
「コウ、これ以上の精神交流は危険です。乖離かいりが進んでしまう。一刻も早く水晶核を定着させるのです」
「だから、そんなこといわれても――」
「恐らくこれが最後の警告になります。次はもう、取り返しがつかない」
 一瞬、彼の姿が消えた。虹が焦って脚を踏みだしたとき、ふたたび彼の姿は顕れたが、殆ど透けていた。幽霊みたいに。
「キャメロンさん?」
「コウ、どうか祝宴を遂げてください」
 その言葉を最後に、フッと彼の姿はかき消えた。
「あっ、待って!」
 思わず手を伸ばしたが、空を掻いただけだった。輝く微光を散らしながら、彼は消えてしまった。