FAの世界

2章:慶びごと - 8 -

 それから数日、相変わらず虹は邸に引きこもっていた。
 温かい寝具の繭にくるまって、或いは溶け崩れた豆腐みたいにクッションにもたれながら、謎めいた声の再来を待っていた。色々と訊きたいことがあるのに、その機会は得られず、暗闇にそっと呼びかけてもいらえはない。
 日が経つにつれて、あの一度きりで終わりなのかという思いは強くなったが、どうしても諦められなかった。
 もしかしたら水晶の近くにいけば何か変わるかもしれないと思い、朝夕に泉周辺を散歩するようになった。
 多少は活動的になった虹を見て、アーシェルは嬉しそうにしている。彼にしてみれば、喜ばしい変化だったのだろう。
 ある朝、いつものように白湯を運んできた彼は、これまでにない提案をしてきた。
「良ければ、八職はちしきと話してみませんか?」
 八職はちしきとは、この国の防衛機構である大水晶環壁かんぺきに配された枢要すうような八柱に就く水晶もりのことだ。
 これまでアーシェル以外の八職はちしきとは面識なかったが、聖餐で虹を抱いた男たちは八職はちしきなのだと、後から知った。
 美しい男たちだったと思う……が、あのときは薬で頭がイカれていたので、ろくに顔を覚えていない。
 自分を犯した相手の顔を見てやりたい気持ちはあるものの、疑懼ぎくの念が強かった。
「……話すだけですか?」
 アーシェルは困ったようにほほえんだ。
「ええ、招くのはふたりだけです。中庭に席を設けますので、どうぞ気楽にお越しください」
「そんなことをいって、また俺を騙そうとしていませんか?」
「とんでもございません」
 傷ついたようなアーシェルの表情を見て、虹はかすかに罪悪感を覚えた。彼を傷つけたところで気が晴れるわけでもないのに、いちいち疑心暗鬼から抜けだせない。
 だが、アーシェルも一言余計だった。
「もし虹様の御心が赦すのなら、ひとしずくの蜜を頂戴できれば、我ら至福の悦びでございます」
 虹はうんざりした表情を隠すことができなかった。不毛な道徳的談義にまだこりていないとは驚きだ。
「許すわけがないでしょう」
「無理にとは申しません。我らの忠誠は無償の愛。見返りが欲しくて、虹様にお仕えしているのではございません」
「……」
「ただ、彼らがその心を囁き、ほんのひとかけらの寵愛を請うことを、どうかお許しください。八職はちしきは、その身を賭して里を守っております。その働きをほんの少しでもお認め頂けたならば――」
「厭ですよ」
 虹は冷たく遮った。
「……無理は承知でお願しております。しもべに求められたときは、どうか御一考ください。奉仕を重ねて絆を結ぶことは、とても重要なことなのです」
 虹は虚ろな眼差しになる。
「奉仕って……厭だもう。セクハラじゃないですか……僕に拒否権はないんですか」
「我らの生きる流儀でござます。いつかきっと、虹様にもご理解頂けると信じております」
「無理だと思います」
 アーシェルは悲しげに視線を伏せた。
「……のちほど、お声をかけに参ります」
 腹立たしさから、虹は返事をしなかった。アーシェルは恭しくお辞儀をして、寝室をでていく。
 ひとりになると、虹は気力が萎えるのを感じた。空虚さに押し負けてしばらく寝転がっていたが、昼になると渋々起きあがり、軽い昼餉をとった。
 そのまま居室で寛いでいると、いよいよアーシェルに呼ばれた。
 虹は、足取り重く中庭に向かったものの、水晶族の男がふたり顕れたとき、思わず飛びあがりそうなほど緊張していた。
「水晶の君、ご機嫌麗しく。ユシュテルと申します」
 華やかな微笑を浮かべて、ふたりのうち片方が挨拶をした。
 かたちの良い唇から発せられた声が、柔らかくも低い男性のそれでなければ、女性と勘違いしていたかもしれない。
 極めて端麗な顔立ちをしており、神秘的な紫水晶の瞳の持ち主である。
 中性的な美貌にくわえて、淡い桜色を帯びた艶のある長髪を編みこみ片側に流しており、また金糸の縫いとりのある紫霞しかの繻子の裾の長い衣装をまとっているので、どこか典雅な春の女神を思わせる。
「お初にお目にかかります、我が水晶の君。ソードと申します」
 つぎに、暗い瑠璃色の髪を複雑に編みこんだ男が名乗った。
 彼も非の打ちどころのない美丈夫である。左は翡翠色、右は琥珀色という、えもいわれぬ稀有けうな瞳をしている。涼しげな眼差し、凛とした佇まい、全身を戦闘服めいた濃い群青に身を包んでおり、ザ・無感動ハード・ボイルドを思わせる。
 明るい色彩のユシュテルと夜闇をまとうソード。印象はまるで違うふたりだが、それぞれに美しい。
 恐るべし水晶族――他種族に狙われる理由は、水晶の希少さばかりではないと思う。彼らの光放つ美貌も、欲望と羨望をかきたてるに違いない。
 まったく、アーシェルは恐れ慄く虹を懐柔しようと、一族きっての美貌をよこしたのではないかと疑ってしまう。
「こんにちは……」
 虹がぎこちなく挨拶すると、ふたりの双眸は喜びに輝いた。
 向けられる好意に戸惑いながら虹は、熱っぽい崇敬の眼差しに、危険な既視感を覚えた。淫らに交わった記憶が脳裏をよぎったのだ。
「すみません、僕はその、奉仕はちょっと……」
 しどろもどろに釘をさしながら、虹は真っ赤になった。まだ何もいわれていないのに、先走りすぎたかもしれない。
 けれども、彼らの思想は突拍子もなく過激なことがある。茶を飲むつもりが、急展開しないとも限らない。魔宴の二の舞は御免だった。
 いくら虹がゲイで、彼らが完璧パーフェクト容姿アピアランスをしているからといって、さぁ乱交しましょう! とは思えないのだ。
「良ければ、琴を奏でてもよろしいでしょうか?」
 ユシュテルは優しくほほえんだ。
 彼の提案が予想外だったので、虹は気まずさも忘れて、ユシュテルに訊き返した。
「琴ですか?」
「ええ、お時間は取らせませんので、一曲聴いて頂けたら嬉しいです」
「ぜひ聴かせてください」
 虹は大きく頷いた。
 ユシュテルが優雅な仕草で手を閃かせると、魔法の光が散り、大きな竪琴が眼前に顕れた。
 淡い桜色の象牙に、水晶を象嵌ぞうがんされた美しい竪琴で、繊細な針金のように強い羊腸線が、きらきら陽に煌めいている。
「綺麗ですね」
 虹は感心したように呟いた。
 ユシュテルはにっこりすると、水晶の椅子に腰を落ち着けて、竪琴を抱えた。白い指が絹のような羊腸線に触れて、弦の調子をあわせはじめた。
 調律の様子に魅入っていると、虹の前に、花の香の紅茶が運ばれてきた。
 透きとおった音色に耳を澄ませながら、虹は紅茶にくちをつけた。ちらりとソードをうかがうと、目が遭った。思いのほか柔らかく笑みかけられ、ドキリとさせられる。
 ぎこちなく虹も笑み返したものの、会話の糸口が見つからず、彼の方も喋ろうとはしなかった。ふたりして黙殺された緊張に身を浸しながら、調律の様子を見守っていた。
 ややしてユシュテルは顔をあげると、
「お待たせいたしました」
 匂いたつような優美なしぐさに見惚れていた虹は、淡い紫水晶の眸と遭って狼狽えた。なぜ照れているのかも判らぬまま、軽く一揖いちゆうする。
 繊細な指が弦に触れたとんに、雨滴のように、音がこぼれはじめた。
 音は光と化したのか、きらきらと輝いて見える。揺れる梢に、水面に、光を溜めて、美しく煌めきわたる。
 音の輪舞に肌が総毛立つ。まるで何人もの演奏者がいるように折り重なって音が聴こえる。
 森が、泉の波が立つごとく、震えている。
 ユシュテルは竪琴を奏でながら、優しそうな薄いくちびるを開いて、美しい声で歌を紡いだ。虹が今まで聴いたこともない歌で、心を奪われる旋律だった。
 聴くものを酔わせる伶楽れいがくの旋律に耳を傾けていると、忘我の心地になって、まるで背に翼がはえたみたいに、心をはるか彼方まで運びさる。
 一瞬とも永劫ともつかぬ時のなかに、己をあずけた。竪琴の魔力のとりこになって、耳を澄ませていた。
 心地よい時が流れて、竪琴の最後の顫動せんどう、最後の和音の余韻が消えたとき、しんと静寂が戻った。
 虹はとっさに言葉がでてこなかった。すっかり魅了されていたのだ。我に返って手を鳴らしながら、
「ありがとうございます。感動しました。本当に、素晴らしい演奏でした」
 心からの讃嘆をこめて言葉にした。同意を求めてソードを見れば、彼も薄く微笑し、ゆっくりした動作で手を鳴らしていた。
「我が悦びです、水晶の君」
 ユシュテルは、花が綻ぶような微笑を浮かべていった。感謝するのはこちらの方なのに、菫色の眼差しには、憧れの光が浮かんでいた。面映ゆくて、虹の方が視線を逸らしてしまう。
 場の空気がなごんだ後、ユシュテルはもう一曲披露してくれた。
 弦楽を奏でるユシュテルは艶麗えんれいと美しく、穢れのない精霊のようで、虹は言葉もなく見惚れた。
 まさしく演奏の蘊奥うんおうを極めた歌い手だ。何百千万と竪琴を弾いて、なみならぬ修練を積んだに違いない。
 音楽は偉大である。
 少なくとも今この瞬間、やり場のない鬱憤はどこかへ消え去り、ふたりに対する嫌悪も壁もなかった。尽きぬ好奇心と興奮が勝り、その後の歓談では自然と笑い声をあげたりもした。
 会話はもっぱら虹とユシュテルが交わし、ソードは静かに耳を傾けていた。彼の無口ぶりときたら、緘黙かんもく症を疑うほどだが、ときどき浮かべる微笑はとても優しく、会話を楽しく聞いていることがうかがえた。
 はじめこそ乗り気ではなかったが、この素晴らしい小さな演奏会に、虹は確かに癒されていた。