FAの世界

2章:慶びごと - 7 -

 それからの日々、殆ど茫然自失状態でいた。
 怒涛の展開が嘘のように穏やかな時のなか、虹は幻想世界と精神世界の間にあり、優しく扱われ、最高の食事を振舞われ、淫らな饗宴を強要されることもなかった。
 繰り返される単調な日々に、心神耗弱は和らいでいったが、虚しさは常にあった。
 夜はとくに、明かりを落とした寝室に独りきりでいると、郷愁や孤独、どうにもならない恋情が胸にこみあげてきて、涙が溢れそうになる。
 さやか月光に秋波しゅうはを送っても、応える声はない。
 無為に過ごす日々は、数日が一年のようにも感じられた。幽霊が通り過ぎるように、現実感のないまま、懶惰らんだなときが流れていく。
 望郷の念が潮のように押し寄せてきたときなどは、性懲りもなく泉に入ってみたりもしたが、何も変わらなかった。
 常緑の水晶の森は美しく、翡翠の炎めいた泉の端によると、大きく曲流する川と対岸の森まで、うちわたしてみえる広い眺めがあり、じっと見ていると骨まで顕れるような清爽な感じがする。
 泉はおそろしいほど澄み透っていて、周囲には金と銀のダリアが咲き誇り、緑のなかで可憐な白い鈴蘭が星をちりばめたように揺れている。
 遥か彼方には、燐光を放つ青みを帯びた水晶。水の涼しげに流れる音がして、可憐な水鳥がさえずり、壮麗な白樺の群は、風の竪琴を鳴らしている。
 美しい幻想世界。
 楽園のように美しいのに、無限に広がる景のなか、痛いほど孤独を感じる。
 己を崇拝する美しい水晶族にかしずかれていても、心は充たされない。緑と水晶の永牢に押し籠められているのだから。
 憂悶に沈む虹の傍で、アーシェルの美貌にも影が射しているように見えた。玲瓏れいろうとした面輪はいっそう青白く、こちらを見つめる眼差しには、隠しようのない哀切が浮かんでいた。
 つれない虹の態度に傷つきながらも、アーシェルは根気よく、言葉の端々に誠意をにじませ、優しく接してくる。
 今日も、寝台から起きあがろうとしない虹に、森へいこうと誘ってきた。
「放っておいてくれませんか」
 虹は冷たく拒んだ。
 けれどもアーシェルは寝台に腰かけ、枕を抱きしめて臥せっている虹の背中に、そっと優しく手をあてた。
「お食事はいかがですか? 昨晩から何も口にしていらっしゃないでしょう」
 それはどこまでも優しい声だったが、虹は、無言で反撥した。
 もはや彼との間には、どのような信頼もなく、致命的な亀裂――幾千尋いくちひろの海溝が横たわっているように感じていた。
「……楽に死ねないかな」
 くちびるから絶望がこぼれおちた。
 アーシェルは一瞬、躰を強張らせたが、ふたたび手を動かし、虹の背を優しく撫でた。
「そんなことをおっしゃらないでください」
「……忘れたいのに、忘れられないんだ。あんな淫らな、あんなことを……もう取り返しがつかない」
 すすり泣くようにいった。
「聖餐は淫靡な邪教ではありません。我らの絆を結ぶ、神聖な行為なのです」
「……とてもそんな風には思えません」
「我らは聖餐に救われました。幾年も心をむしばんでいたすさまじい飢えが、虹様のおかげで消え失せたのです」
「救った覚えはありませんよ。そんなじゃない」
「いいえ、愛しいかた……虹様。心から愛しています」
 優しく囁いて、髪にキスをおとす。
 虹はそろそろと顔をあげた。比類のない美貌を凝然と見つめていると、アーシェルはもう一度囁いた。
「我が水晶の君、虹様。私は貴方様の永遠なる忠実なしもべでございます。言葉にいいつくせないほど、お慕いしております」
 額に優しいキスをして、鼻のあたまにも甘いキスが落ちる。
 ぼんやりする虹を、アーシェルは愛おしそうに見つめている。唯一無二の恋人にそうするように。
「……それはどうでしょう。僕にはよく判らないな。他の男にあてがえるような相手を、慕っているといえますかね?」
 虹は自嘲の笑みを浮かべた。
 甘美で恍惚とした催眠状態に陥り、救いのような痴態をさらしてしまった。淫らな交歓を悦んでしまった己が、今も恥ずかしくて堪らなかった。
 道徳的罪深さに打ちのめされていることもそうだが、それ以上に、好きな相手に、アーシェルに、大勢の前で淫らな行為を強要されたことが辛かった。
「我らは決して、虹様を貶めようなどとは考えておりません。我らは貴方様を全身全霊で愛し、身も心も捧げているのです。交歓はわたしたちの絆を高めるために行う、神聖な儀式なのです」
 アーシェルは熱心に訴えるが、虹は沈痛な心地で黙りこんだ。
 神聖とは聞いて呆れる。虹は、アーシェルだけで良かったのだ。
 他の水晶族が嫌いなわけではないが、全員と愛を交わしたいとは思わない。ふたりきりの恋人として在りたいのに、交歓を良しとするアーシェルの思想には嫌悪が湧くし、一歩引いてかしずく態度にも、他の男との共有を肯定する博愛的な態度にも傷つく。
 そもそもの考え方が、決定的に違うのだ。
 愛していると告げながら、種族の存亡のためなら、虹の気持ちなんてどうでも良いと思っている。ふたりきりで理性的に話していても、通じているようで通じていない。
「虹様……」
 アーシェル自身も違和感に気がついているのか、虹の手をそっと握り、物憂いため息をついた。
「どうすれば伝わるのでしょう。どのように言葉を紡げばよいのでしょう。私の心を開いて見せることができたらよろしいのに」
「……その気持ちは、僕がアーシェルさんを好きだと思う気持ちとは、違うのでしょう」
「いいえ! 好きです。好きでたまりません! 気がおかしくなりそうなほど、ぁ、貴方様のことばかり考えています。思考のすべてを奪われるほどに」
 いつでも理性的なアーシェルらしからぬ、少し乱れた口調だった。熱い激情が伝わってきて、虹は頬を赤らめる。
「虹様……」
 親指でそっと唇をなぞられ、ぞくっとした震えが走った。その瞬間、どういうわけか嫌悪や恐怖は遠ざかり、彼と激しく舌をからませたいという、およそ信じられぬ欲望に駆られた。
 慌てて顔を横むけると、頬に掌を押してられた。正面を向かされ、強力な熱視線に囚われる。
 焔を灯した碧。危険なまでにかつえる捕食者の眸だ。呼吸すら許されず、欲望という名の、海の深みに連れ去られてしまう――
「厭だ」
 ぎりぎりの淵で拒絶すると、アーシェルも自制心を発揮し、苦しげに眉根を寄せながら、ゆっくりと躰を起こした。
 虹が黙っていると、アーシェルは少し躊躇ってから言葉を続けた。
「……どうか、触れられることを恐れないでください。貴方様こそ我らの王。水晶の国に君臨し、支配しうる唯一の王にあらせられるのですから」
 理性的な声だが、その調子には、どこかじりじりするようなものが感じられた。
「……僕には無理です。すみません、僕にはとても務まらない」
 結局のところ、アーシェルは虹に王であってほしいだけなのだ。ほかの水晶族の誰ひとりとりして、主君を礼讃らいさんして、祈りを捧げない者はいない。いいかえれば、虹を個人として見てくれるひとは、ここには誰もいないのである。
 そこに気がついてしまうと、虹は暗澹となって、深く長く、息をはく。
 するとアーシェルの美貌にも、愁いが射した。主君の勘気かんきに触れた臣のように、そっと視線を伏せる。
「……少しお休みください。のちほど、粥を持って参ります」
 彼が寝室をでていくと、虹は寝台に横臥おうがした。
 しばらく耳を澄ませていたが、廊下からは何の物音も聞こえなかった。
 相反する思いが苦しい。アーシェルの傍にいたい。傍にいたくない。忠誠心がほしいわけではない。同じ目線で一緒にいられたら、どんなに……
 沈んだ心を反映するように、雨が降りだした。
 しとしと……ひさしからしたたる真珠母色しんじゅぼいろの雨滴が、泉水に流れさる。泉水に雨が落ちる音。風雅な音が、今は悲嘆の調子に聴こえる。
 雨の連なりのように、途切れることのない悲しみと、やり場のない憂愁はあまりに重く、このまま水底まで沈んで二度と浮上できないように思う。
“……コウ、諦めないで”
 突然、声がした。
「えっ……」
 跳ね起きた虹は、せわしなく視線を彷徨わせた。寝室に“星を歌いし者タワ・ダリ”が入ってきたのかと思ったが、姿が見当たらない。
 ――幽霊?
 そう思った瞬間、ぞぞぞ……っと背筋が冷えた。逃げるように寝台をおりたところで、再び声が聴こえた。
“私はかつてこの国を治めていた王、キャメロンです”
 虹は凍りついた。
 本当に幽霊かもしれない。先王は千年も昔に死んだと聞いている。
 しかし、恐怖よりも驚愕が勝った。己はこの声を知っている。草津温泉で、呼びかけてきた声だ。
“どうか、ここにいて……” 
 虹は肩から力を抜いた。正体不明だが、堪らなく懐かしいような気分だった。
「もしかして、僕に“ファルル・アルカーン”と囁いた方ですか?」
“あのとき、邪悪な錬金術師に阻まれてしまい、水晶核の継承は不完全です。コウが拒絶するほどに、水晶核は乖離かいりしてしまう……気をつけて”
「あの、どこにいるんですか? 姿は見えませんが……」
 きょろきょろと虹は視線を彷徨わせた。姿を探しながら、脳裏には艶麗えんれいな金髪翠瞳すいとうの青年の姿が浮かんでいた。それは草津温泉の、無限の一瞬の白昼夢で見た姿だった。
“私は死の超越世界、無辺際界の残滓ざんしです。コウの逃避を望む心が生んだ、象徴的意識に過ぎません”
 姿なき亡霊は、静かな、不思議な優しさにみちた声音で応えた。
「それは……たましいということですか?」
“宇宙のおりです。コウ、もう私を呼んではいけません。貴方は水晶の国の王なのだから。忘れないで”
 精神感応は唐突に断ち切られた。
 しとしと、雨音が聴こえてきて、幽明の堺から現実世界に生還したような気がした。
 まだ心臓がどきどきしている。恐怖心ではない。それどころか、久しぶりに高揚している。
 異界へ導いた相手と、言葉を交わすことができた。虹の拒絶がに繋がるというのなら、きっとまた会えるはずだ。どうにもならないと思った現状を、打開できるかもしれない。
 不思議な邂逅を反芻はんすうしながら、暗闇のなかに光明を灯したように感じられた。