FAの世界
2章:慶びごと - 6 -
出産を終えたとき、虹は精魂尽き果て、もはや指の一本すら動かせなかった。
乱れた寝台を隷 たちが粛々と清める間、ぐったりと横臥 する虹を、アーシェルはそっと抱きあげて、泉に運んだ。
「ん……っ」
清拭されながら、それすら刺激になって、虹は甘い息をもらす。アーシェルの手つきは優しく思い遣りに満ちていたが、一寸先にされたことを思えば、とても感謝の言葉をいう気持ちにはなれなかった。
やがて寝室に戻されると、虹はぐったりと疲弊して、ふたたび殆ど平静になった。怒りもわかねば、憎悪の気持ちもなかった。しかし、己に対する強い嫌悪の情、いっそう激しい軽蔑の念で胸が苦しくなった。
まさかまさか、生物の交接作用を身をもって体験することになろうとは!
秘孔を攻める竿の熱さ、子宮の疼 き、水晶珠を押しだす肉筒の感触――どれも知ってはならぬ悪徳だ。
彼らはなぜ、あのような獣的行為に惑溺 できるのだろう? いくら美しい姿をしていたって、中身は交接を恣 にする畜生と同じだ。
「……ここにいるだけでいいって、そういってくれたじゃありませんか。王の務めを果たさなくてもいいと、そういう意味だと」
虹は力なく呟いた。寝台の帳 を広げようとしていたアーシェルは、手を止めた。
「虹様が、いてくださるだけで幸せです。しかし、王の務めは、宇宙の御意でございます」
驚嘆すべき胡乱 の理論だ。虹の裡 に凄まじい怒りと、嘆きの念が湧きあがった。
「判りませんよ、そんなこといわれても」
声が鋭く尖ってくるが、止められない。
「僕は王の務めの詳細を知らなかったのに、あんな騙し討ちみたいな真似をするなんて卑怯でしょう」
「誤解を招いてしまい、申し訳ありませんでした。配慮に欠けていたことを、謹んでお詫び申しあげます」
アーシェルは真摯に謝罪したが、虹の感情はかえって昂った。
「歓迎の宴だって、てっきり御馳走になるのだと呑気に考えていましたよ。乱交だなんて思うわけないでしょう。親切にしておきながら、淫乱宗教の生贄にするつもりだったなんて信じられませんよ」
「淫乱宗教でありません。遥か古代の時節より続く、我らの儀式でございます」
「知りませんよ、そんなこと!」
理性的に話そうと試みるが、言葉の端々に抑えつけた苛立ちが滲んでいた。忌々しげにアーシェルを睨みつけると、もはや止めようのない罵倒を続けた。
「大体アーシェルさんは、どういうつもりで、ここにいるだけでいいだなんていったんですか? 最初から僕を騙していたんですか?」
「嘘ではありません。水晶の君をお迎えすることにまさる僥倖 はございません。虹様がおいでくださり、どれほど嬉しいか。今も、この心臓がどれほど高鳴っているか!」
乱れた語尾に、彼の本心が顕れていた。
「だけど、僕が誤解していたことに気づいていたでしょう? なぜ糺 さなかったのですか」
「虹様は“ファルル・アルカーン”を理解されていらっしゃらなかった。何もかもを打ち明けてしまっては、怯えられたでしょう。段階を踏んで、我らの流儀を少しずつ知っていただきたかったのです」
「それを詐欺というのです! “ファルル・アルカーン”がなんだかわかりませんが、どう言葉を繕ったって、僕を陥れたことに変わりありませんよ。あまりに酷い。心の底から軽蔑します」
森 ……と沈黙が満ちる。
アーシェルは、怒りに燃える黒い瞳にとらわれていた。心酔する主に拒絶されることが、これほど辛いことだとは知らなかった。弁明しなければと思うが、舌がうまく動かないことも、生まれて初めての経験だった。
虹は、暴言を吐いた自覚はあったが、こんな言葉くらいで彼が動揺するはずもないと思った。しかし、顔色をうかがって驚いた。
美しい顔は、痛みをこらえるように歪められていた。
(――騙されるな。そういう殊勝な態度も、俺を油断させる手管かもしれないのだから)
「やめてくださいよ。これじゃ、僕が悪いみたいだ……辛いのは僕の方ですよ」
「申し訳ありません」
重苦しい、沈黙が流れた。
「……ひとりにしてください」
弱弱しい声で虹はいった。その声はまるで、打ちひしがれた老人のようだと思った。
「虹様……私は……そのように苦しめてしまうとは、露ほども考えておりませんでした。一族挙げての祭儀ですから、虹様も聖餐が始まれば、きっとその素晴らしさを実感されると思ったのです」
虹は喉をひくつかせた。
「僕はこの土地で育ったわけじゃないから……儀式の全容を知らせずに、どうして喜んで受け入れると思ったんです?」
「ここでの暮らしを受け入れ、笑顔を見せてくださる虹様を見て、今なら我らの流儀もご理解いただけると……言葉ではなく、体感していただければ、きっと覚醒されると思ったのです」
その言葉をうけて、虹は静かにアーシェルを見つめた。彼の表情は沈んでいる。思慮深い憂慮。けれども、彼のなかで何かが傷つく音が聴こえた。
それは、虹も同じだった。思い通じあえたと喜んだのはほんの数日前のことなのに、今は心の一角が壊れていくのを感じている。
「水晶族の風習や流儀を否定するつもりはありませんが、それを僕に押しつけないでください。無理強いはしないって、いったじゃありませんか……っ」
声が無様に震えた。
騙された。裏切られた。悲痛の重い波が押し寄せてきて、負の感情に押しつぶされてしまいそうだ。
「愚かな私をお赦しください。虹様の御意向をないがしろにするつもりはございませんでした。覚醒の手助けになればと……いいえ……私が間違っておりました」
「……」
虹は黙りこんだ。アーシェルが謝罪するのは筋だと思うが、それでこの話に、決着をつける気にはなれなかった。そんな軽い問題じゃない。この悍 ましい出来事を、己は生涯忘れることはできないだろう。それほどの傷を心に負ったのだ。
「愛しい方、御恵 み深き水晶の君……心からお慕いしております。この気持ちに偽りはございません」
二日前なら、その言葉に天にも昇る気持ちになれただろう。今は白々しく聞こえるだけだった。
「……今日はもう、やめましょう。休ませてください」
少しばかり沈黙が流れた。
顔をそむけながら、虹は衣擦れの音に全意識を注いでいた。
「ゆっくりお休みください」
アーシェルは帳をおろして丁寧にお辞儀をすると、静かに部屋をでていった。
虹は刺すような惨めな気持ちで、したを向いた。
己はもう人間ですらないのかもしれない……そう思うと、幻滅の悲哀に涙が溢れでそうになる。
あれは聖餐ではない――淫靡な魔宴 だ。
内心で激しく罵りながら、寝台に横になると欲望が滾 った。優しい慮辱を、炎の律動を、奥処 を突きあげる感覚を思いだして罪深い孔が疼く。思考がはじけとび星屑になるほどの悦楽を再び覚えたくてならなかった。
「厭だ……こんな……」
この身は悪魔慰撫 に穢されてしまった。不安と恐怖と……幽 かな期待に打ちのめされて、虹は歔欷 する。
もうここを楽園とは思えない。黄金の魔法はとけてしまった。
その晩は、とても眠れなかった。
全身を不安と倦怠感が蝕んでいて、頭のなかは昏い想念に支配されていた。目を閉じていても、己は何者なのか――形而上学 的な苦悶に囚われ、脳が眠ることを拒否していた。
「厭だッ」
突然に悲鳴をあげた。心臓が高鳴りはじめ、猛烈な震えが始まった。心を平穏に保とうと努力するが、輾転 とするばかりで眠れない。
自問自答は明け方にまで続き、やがて眠ることを諦めて、邸をでようとした。
“どちらへ?”
虹は心臓が口からとびだすかと思った。楡の枝から、鸚鵡 の“星を歌いし者 ”が虹をじっと見ていた。
薄闇のなか、猛禽のように眸が朱金に輝いている。見慣れているはずなのに、不気味な地獄の番人みたいだと思った。
「……“ファルル・アルカーン”ってどういう意味ですか?」
“水晶の支配者、という意味ですよ”
「支配者なんて……僕は違いますよ」
虹は自嘲気味に嗤いながら、奇妙だと思った。言語の疎通はできるのに、なぜその言葉だけうまく解釈されないのだろう?
何か不可視の、精神的な衝撃を感じた気がしたが、一瞬の知覚であったので、正体を突き詰めるには至らなかった。
「……少し、泉に入ります。どうか気にしないでください」
そういって、居室を通り過ぎた。
鸚鵡 は騒ぎたてたりはしなかったが、虹が不審な行動をとれば、迷わずアーシェルを呼びにいくのだろう。
外にでると、澄んだ空気が肺に流れこんできた。星が無数に瞬いている。
清冽な泉に身を浸しても、凍えたりはしない。不思議な、ひんやりとした心地よさに包まれる。
頭まで潜ってみた。一秒、二秒、三秒……しばらくして浮上してみたとき、やはり景観は同じだった。
判っていたことだが、それでも落胆が胸に兆 した。もう二度と、草津温泉に戻ることはできないのだ。
泉の縁により、山々を眺めおろしてみる。
例えばロビンソン・クルーソーのように、たくましく自給自足する己を想像してみるが、まるで現実味がなかった。物語の主人公のような、精神力も体力も虹にはない。誰の助けもなく森をさ迷えば、餓死するか、獣に喰われるのがオチだ。
遠く隔てられた未知の世界で、ひとりきり。祖国とは絶望的に離れている。帰る場所はどこにもない……
乱れた寝台を
「ん……っ」
清拭されながら、それすら刺激になって、虹は甘い息をもらす。アーシェルの手つきは優しく思い遣りに満ちていたが、一寸先にされたことを思えば、とても感謝の言葉をいう気持ちにはなれなかった。
やがて寝室に戻されると、虹はぐったりと疲弊して、ふたたび殆ど平静になった。怒りもわかねば、憎悪の気持ちもなかった。しかし、己に対する強い嫌悪の情、いっそう激しい軽蔑の念で胸が苦しくなった。
まさかまさか、生物の交接作用を身をもって体験することになろうとは!
秘孔を攻める竿の熱さ、子宮の
彼らはなぜ、あのような獣的行為に
「……ここにいるだけでいいって、そういってくれたじゃありませんか。王の務めを果たさなくてもいいと、そういう意味だと」
虹は力なく呟いた。寝台の
「虹様が、いてくださるだけで幸せです。しかし、王の務めは、宇宙の御意でございます」
驚嘆すべき
「判りませんよ、そんなこといわれても」
声が鋭く尖ってくるが、止められない。
「僕は王の務めの詳細を知らなかったのに、あんな騙し討ちみたいな真似をするなんて卑怯でしょう」
「誤解を招いてしまい、申し訳ありませんでした。配慮に欠けていたことを、謹んでお詫び申しあげます」
アーシェルは真摯に謝罪したが、虹の感情はかえって昂った。
「歓迎の宴だって、てっきり御馳走になるのだと呑気に考えていましたよ。乱交だなんて思うわけないでしょう。親切にしておきながら、淫乱宗教の生贄にするつもりだったなんて信じられませんよ」
「淫乱宗教でありません。遥か古代の時節より続く、我らの儀式でございます」
「知りませんよ、そんなこと!」
理性的に話そうと試みるが、言葉の端々に抑えつけた苛立ちが滲んでいた。忌々しげにアーシェルを睨みつけると、もはや止めようのない罵倒を続けた。
「大体アーシェルさんは、どういうつもりで、ここにいるだけでいいだなんていったんですか? 最初から僕を騙していたんですか?」
「嘘ではありません。水晶の君をお迎えすることにまさる
乱れた語尾に、彼の本心が顕れていた。
「だけど、僕が誤解していたことに気づいていたでしょう? なぜ
「虹様は“ファルル・アルカーン”を理解されていらっしゃらなかった。何もかもを打ち明けてしまっては、怯えられたでしょう。段階を踏んで、我らの流儀を少しずつ知っていただきたかったのです」
「それを詐欺というのです! “ファルル・アルカーン”がなんだかわかりませんが、どう言葉を繕ったって、僕を陥れたことに変わりありませんよ。あまりに酷い。心の底から軽蔑します」
アーシェルは、怒りに燃える黒い瞳にとらわれていた。心酔する主に拒絶されることが、これほど辛いことだとは知らなかった。弁明しなければと思うが、舌がうまく動かないことも、生まれて初めての経験だった。
虹は、暴言を吐いた自覚はあったが、こんな言葉くらいで彼が動揺するはずもないと思った。しかし、顔色をうかがって驚いた。
美しい顔は、痛みをこらえるように歪められていた。
(――騙されるな。そういう殊勝な態度も、俺を油断させる手管かもしれないのだから)
「やめてくださいよ。これじゃ、僕が悪いみたいだ……辛いのは僕の方ですよ」
「申し訳ありません」
重苦しい、沈黙が流れた。
「……ひとりにしてください」
弱弱しい声で虹はいった。その声はまるで、打ちひしがれた老人のようだと思った。
「虹様……私は……そのように苦しめてしまうとは、露ほども考えておりませんでした。一族挙げての祭儀ですから、虹様も聖餐が始まれば、きっとその素晴らしさを実感されると思ったのです」
虹は喉をひくつかせた。
「僕はこの土地で育ったわけじゃないから……儀式の全容を知らせずに、どうして喜んで受け入れると思ったんです?」
「ここでの暮らしを受け入れ、笑顔を見せてくださる虹様を見て、今なら我らの流儀もご理解いただけると……言葉ではなく、体感していただければ、きっと覚醒されると思ったのです」
その言葉をうけて、虹は静かにアーシェルを見つめた。彼の表情は沈んでいる。思慮深い憂慮。けれども、彼のなかで何かが傷つく音が聴こえた。
それは、虹も同じだった。思い通じあえたと喜んだのはほんの数日前のことなのに、今は心の一角が壊れていくのを感じている。
「水晶族の風習や流儀を否定するつもりはありませんが、それを僕に押しつけないでください。無理強いはしないって、いったじゃありませんか……っ」
声が無様に震えた。
騙された。裏切られた。悲痛の重い波が押し寄せてきて、負の感情に押しつぶされてしまいそうだ。
「愚かな私をお赦しください。虹様の御意向をないがしろにするつもりはございませんでした。覚醒の手助けになればと……いいえ……私が間違っておりました」
「……」
虹は黙りこんだ。アーシェルが謝罪するのは筋だと思うが、それでこの話に、決着をつける気にはなれなかった。そんな軽い問題じゃない。この
「愛しい方、
二日前なら、その言葉に天にも昇る気持ちになれただろう。今は白々しく聞こえるだけだった。
「……今日はもう、やめましょう。休ませてください」
少しばかり沈黙が流れた。
顔をそむけながら、虹は衣擦れの音に全意識を注いでいた。
「ゆっくりお休みください」
アーシェルは帳をおろして丁寧にお辞儀をすると、静かに部屋をでていった。
虹は刺すような惨めな気持ちで、したを向いた。
己はもう人間ですらないのかもしれない……そう思うと、幻滅の悲哀に涙が溢れでそうになる。
あれは聖餐ではない――淫靡な
内心で激しく罵りながら、寝台に横になると欲望が
「厭だ……こんな……」
この身は悪魔
もうここを楽園とは思えない。黄金の魔法はとけてしまった。
その晩は、とても眠れなかった。
全身を不安と倦怠感が蝕んでいて、頭のなかは昏い想念に支配されていた。目を閉じていても、己は何者なのか――
「厭だッ」
突然に悲鳴をあげた。心臓が高鳴りはじめ、猛烈な震えが始まった。心を平穏に保とうと努力するが、
自問自答は明け方にまで続き、やがて眠ることを諦めて、邸をでようとした。
“どちらへ?”
虹は心臓が口からとびだすかと思った。楡の枝から、
薄闇のなか、猛禽のように眸が朱金に輝いている。見慣れているはずなのに、不気味な地獄の番人みたいだと思った。
「……“ファルル・アルカーン”ってどういう意味ですか?」
“水晶の支配者、という意味ですよ”
「支配者なんて……僕は違いますよ」
虹は自嘲気味に嗤いながら、奇妙だと思った。言語の疎通はできるのに、なぜその言葉だけうまく解釈されないのだろう?
何か不可視の、精神的な衝撃を感じた気がしたが、一瞬の知覚であったので、正体を突き詰めるには至らなかった。
「……少し、泉に入ります。どうか気にしないでください」
そういって、居室を通り過ぎた。
外にでると、澄んだ空気が肺に流れこんできた。星が無数に瞬いている。
清冽な泉に身を浸しても、凍えたりはしない。不思議な、ひんやりとした心地よさに包まれる。
頭まで潜ってみた。一秒、二秒、三秒……しばらくして浮上してみたとき、やはり景観は同じだった。
判っていたことだが、それでも落胆が胸に
泉の縁により、山々を眺めおろしてみる。
例えばロビンソン・クルーソーのように、たくましく自給自足する己を想像してみるが、まるで現実味がなかった。物語の主人公のような、精神力も体力も虹にはない。誰の助けもなく森をさ迷えば、餓死するか、獣に喰われるのがオチだ。
遠く隔てられた未知の世界で、ひとりきり。祖国とは絶望的に離れている。帰る場所はどこにもない……