FAの世界

2章:慶びごと - 1 -

 すっきり目の覚めた虹は、顔だけ洗って、囲炉裏の前に腰を落ち着けた。火鉢にかけた薬缶やかんをとって、湯呑に白湯をそそぐ。ちびちび啜っていると、頭上で鸚鵡おうむさえずった。
“もうすぐアーシェルがきます”
 虹は視線をあげて、楡の枝に留まってる“星を歌いし者タワ・ダリ”を見た。
「判りました」
 神秘の鳥と会話をすることは、もはや日常茶飯になっている。
 千里眼をもつ“星を歌いし者タワ・ダリ”の宣告通り、間もなくアーシェルが居室のしきいに顕れた。相変わらず気配がない。凄腕の忍びみたいだ。
「お早うござます、虹様」
 美しいくちびるが微笑にほころぶ。今朝も非の打ち所がない美貌で、しかも上半身は裸だ。裾の長い白絹を腰にまいているが、引き締まった胸や腹は露わで、目のやり場に困ってしまう。
 アーシェルは優雅な物腰で片膝をつくと、そわそわしている虹の頭に、そっとキスを落とした。
 虹は、ぽーっと紅くなる。昨夜の記憶がいっぺんに蘇ってしまった。彼の完璧に美しいくちびるが、虹のくちを塞いで……
「お仕度をしましょう、虹様」
「はい」
 邪念を振り払って腰をあげた虹は、アーシェルに続いて居室をでると衣裳部屋に入った。
 広々とした部屋で、片側の一面は格子硝子でさんと明るい。
 魅力的な窓の造りで、ひさしから蔓性のクレマチスが垂れさがり、射しいる陽を柔らかくしている。
 部屋の奥に樫材の衣装箪笥があり、反対側に琺瑯ほうろう細工の化粧机と籐椅子、それから全身鏡が立てかけられている。壁棚に棒状の香が焚かれ、白いくゆりが立ち昇り、快い異国風の匂いが部屋を満たしていた。
「こちらへどうぞ」
 促されて籐椅子に座った虹は、鏡のなかのアーシェルを見つめた。
御髪おぐしから整えさせていただきますね」
「よろしくお願いします」
 軽く会釈すると、アーシェルは蒸した綿布を虹の黒髪に押し当て、寝ぐせを直し始めた。
「熱くありませんか?」
「平気です。気持ちいい……」
 丁寧な手つきで、頭皮を指圧されながら髪をふかれると、心地よさに瞼がおりてくる。さっき目が覚めたばかりなのに、とろりとした眠気に襲われてしまう。首がかくんとなり、控えめに頭の位置を直された。
「すみません」
 くすり、とアーシェルが微笑する。
「少し眠りますか? お時間にまだ余裕はございます」
「いえ、大丈夫です」
 ぱちぱちと目を瞬いて、虹は眠気を飛ばそうとした。
 丁寧に髪を梳かれたあと、顔に美容液を塗られた。ひんやりと心地よく、爽やかな香りがする。生まれて始めて薄化粧を施され、百合と月桂樹の冠を髪に飾った。
 仕上げに前髪をいじられながら、その繊細な指の動きに虹はうっとりする。
「気持ちいい……自分でしても何も感じないのに、人に触れられると全然違う」
 心地よさげに虹がいうと、鏡のなかでアーシェルは嬉しそうにほほえんだ。
「お綺麗ですよ」
「どうも……あの、どれくらいの人がくるのでしょうか?」
「国中の兄弟はらからです。数千、いえ万はいるかと存じます」
「そんなに!?」
 ぎょっとする虹に、アーシェルは優しく笑みかける。
「最初の披露目だけでございます。泉殿の聖餐は入場を制限しますから、ごく少数ですよ」
 少し安心した虹だが、まだ不安な気持ちをぬぐえなかった。
「想像がつかないな……僕なんかの顔を、そんなに大勢が見にくるだなんて」
「今日という日を、皆が待ち望んでいたのです。虹様の御姿を一目見たいと、誰もが胸を高鳴らせているのですよ」
「えぇ……?」
 思わず虹はアーシェルを見るが、彼は、こんなに素晴らしいことはないという顔でほほえんでいる。
「虹様。こちらに御着換えください」
「ありが……とう」
 差しだされた衣装を受け取った虹は、顔に困惑の色を浮かべた。ぴらっと広げたそれは、男娼の下着のように卑猥なものだった。
「何ですかこれ」
「本日の御召し物になります」
「冗談ですよね?」
「いいえ、由緒正しい、水晶の君の御正装でござます」
 穏やかに真面目に返されて、虹は頬の筋肉が引きつるのを感じた。
「いや、これ下着っていうか、透けているし、紐じゃありませんか」
 いわゆるTバックのような縫製で、後ろは小さな水晶珠の連なりがあるだけなので、尻が丸見えだ。腰布は繊細な薄紗で、素肌にまとったら股間が透けて見えてしまう。間違っても、人前にさらしてよい姿ではない。
「きっとお似合いですよ」
「似合ってたまるか」
 思わず素ですごんでしまう。えへん、と咳払いをして、
「こんなもの履くくらいなら、裸の方がマシですよ」
「それでも構いませんが、よろしいのですか?」
「よろしいわけないでしょう。普通の服を貸してくださいよ」
 アーシェルは小首を傾げると、衣装箪笥から別の衣服を取りだした。
「こちらはいかがでしょう?」
 受け取り、広げたそれは、またしても卑猥な縫製の下着だった。可憐な刺繍を施された布は厚みがあるが、面積が極端に小さく、股間のあちこちがはみでてしまう。
「なんでこんなのばかり……まともな服はないんですか?」
 うんざりしたように虹が呟くと、アーシェルは口惜しげな顔で、
「ご期待に沿えず、誠に申し訳ありません。大変恐縮ですが、今日のところは、いずれかのなかからお選びいただけないでしょうか?」
 彼が本心からいっているのだと、虹にもようやく判り、困ってしまう。
「アーシェルさんと同じ衣装ではいけませんか?」
「これはしもべの装いでございます。虹様が着るものではございません」
「でも、こんな下着姿で恥ずかしくて人前にでられませんよ」
「では、衣装のうえから、丈の長い外套を羽織るのはいかがでしょうか?」
「羽織っていいなら、なかに何を着ていてもよくありませんか?」
「いいえ、外套は途中でお脱ぎいただく必要がございます」
「え、無理です」
「そうおっしゃらず、どうか」
「無理です、無理」
「虹様」
「無理! 無理です!」
「ふふっ」
「なんで笑った!?」
 目をつりあげる虹を見て、アーシェルは微笑した口元を手で覆い隠した。
「おかわいらしくて、思わず」
「アーシェルさんがおかしいんです! 僕は至ってまともな反応をしているだけですよ! こんな下着姿をひと様の目にさらしたら、公共猥褻罪で逮捕されますよ」
「まさか、誰が水晶の君を捕縛するというのです。虹様の艶やかな御姿を見れば、随喜渇仰ずいきかつごうし、心からの歓呼を叫ぶことでしょう」
 アーシェルの目は本気マジだ。虹は、笑っていいものやら判らず、戸惑って、長いこと彼を見つめてしまった。しまいには、とうとうやけになって、
「判りました。僕のこんな姿をアーシェルさんの知りあいに見せてもいいんですね? いいんですね!? 本当に着ちゃいますよ!!?」
「ぜひ、お願いします」
 アーシェルの碧い瞳が喜びに輝く。
「……マジか……」
 虹は卑猥な衣装を指で摘まみ、束の間、煩悶はんもんする。覚悟を決めると、アーシェルに尻を向けて寝間着を脱ぎ、ひらひら透け透けの下着を着用した。恐る恐る、全身鏡の前に立ってみる。
「うわ――……」
 卑猥さのあまり卒倒してしまいそうだ。股間は透けて見えるし、後ろは尻が丸見えだ。こんな姿で人前にでたら、気色の悪いショーにしかならない。
「お似合いですよ」
 鏡のなかのアーシェルは、嘆賞たんしょうの眸で見ていた。碧い瞳の奥処おくかに、危険な何かが沸騰し始めている気がして、虹は慌てて視線をそらした。
「何か、羽織るものを貸してください」
 銀糸の縁取りのある白い外套を、ひったくるようにして受け取ると、急いで袖を通した。
 素肌が隠れると、ほっと息をついて、ようやくアーシェルを振り向くことができた。
「虹様、柘榴酒です。気が落ち着きますので、どうぞお飲みください」
「ありがとう」
 虹はさしだされた翡翠の杯を受けとり、口をつけた。甘くてすっきりした味わいだ。それと奇妙な違和感。砒素ひそ入りの砂糖のような甘さを感じた。