FAの世界

1章:楽園の恋 - 10 -

 うららかな午後。虹はアーシェルと共に鷲獅子グリュプスの背に乗って、国のしきいである大水晶環壁かんぺきに向かっていた。
 巨獣ながら飛行はとても安定している。
 双翼は水平に保たれて、長い羽に陽があたり、真鍮色に輝いてとても綺麗だ。初めて飛んだ日――大地を力強く蹴って空に羽撃はばたいたときこそ恐怖心に取り憑かれたが、今では楽な姿勢で身を任せることができる。
 外見に反して穏やかな気性の獣は、ゆったりした動作をとることが多いが、その気になれば、上昇気流に乗って、爆発的推進力を発揮してみせる。
 まるでジェット機だ。
 恐るべき高速で眼下の景色はぐんぐんと流れていくが、アーシェルの魔法のおかげで、空気抵抗は殆ど減殺げんさいされている。
 過去最高速度で、間もなく辿りついた大水晶環壁かんぺきは、めまいがするほどの絶壁だった。
 展望座から眺めおろす景に圧倒される。
 海溝のごとく切りたった世界の淵は、たなびく薄雲が流れて、青白く冷たい凍結した水晶の焔、煌めく尖嶺せんれいの織りなす稜線が、どこまでも壮麗に続いている。
 不思議と空気の希薄さは感じないが、この楽園はかなりの高所にある。無窮むきゅうの空はくっきりと青く、天蓋てんがいの宇宙が透けて見えているのではないかと思うほどだ。
「この大水晶環壁かんぺきはひとの手で作られたのですか?」
 虹が訊ねると、いいえ、とアーシェルは頸を振った。
「天然水晶もまじっていますが、殆どは同胞の水晶核で形成されています。時代と共に堆積は増していき、半永久的な防衛機構に至りました」
 途方もなく太い水晶柱の群が、途轍とてつもない高さを有してそびえているのは、自然地形ではなく神秘的建築技術によるもの。それもおびただしい数の亡骸なきがらで築かれているのだと思うと、いささかゾッとする。
 ここは、久遠くおんの歳月を物語る、巨大な霊廟なのだ。
「この壁の向こうから、敵が攻めてくるのですか?」
「はい」
「交易することはないのですか?」
「ありますよ。我々は良き友人に対して、いつでも門戸を開いています。しかし空間のしきいを捻じ曲げてやってくる連中は、いつの時代でも侵略者です」
「……こんなにも美しい国なのに、戦争があるんですね」
 やがて空は見事な光彩に染まり、光り輝く緋色の雲が、濃紺と黄金の空を分割しているように見えた。どこか暗示めいた空模様に虹は怯える。
「虹様のことは、この命に代えてでも必ずお守りいたします」
 彼は真剣な瞳をしていった。騎士めいた誓言に虹は赤くなる。
(好きだなぁ……)
 温かな感情が、胸を満たした。さっきまでの不安な気持ちが、いっぺんに吹き飛んでしまった。
 これまで平和に生きてきた虹に、異次元の戦争苦慮は想像もつかないが、何が起ころうと、アーシェルさえ傍にいてくれたら不思議とどうにかなる気がする。

 その日の夜、囲炉裏でくつろぐ虹のもとにやってきたアーシェルは、聖寵せいちょうの泉が温水に変わったことを告げた。
「水晶ノ刻を迎えたのですか?」
「はい。明日の午後から披露目を執り行います」
「いまさらですが、僕は何か、準備しておくことはありますか?」
「全てこちらで用意いたしますので、ご安心ください。虹様の健やかなお姿をお見せくだされば、皆も喜ぶでしょう」
 柔らかく微笑するアーシェルに、虹は安堵しながらさらに訊ねた。
「ありがとうございます。挨拶文面も不要ですか?」
「はい、私にお任せください。明日の朝、いつもと同じ刻に参ります。お着換えの手伝いをさせていただきます」
「判りました。よろしくお願いします」
 虹は安心してほほえんだ。
「お任せください。ひとつお願いがございまして、今夜これから、みそぎをしていただいてもよろしいでしょうか?」
みそぎ?」
「祝宴の前に、心身を清めるのです。お時間はとらせません」
「判りました」
 虹が了承すると、アーシェルは虹を泉殿の裏にある滝に連れていった。
 紺青こんじょうの夜空に、煌めく無数の星が瞬いている。星明かりに照らされて、滝の飛沫は水晶のように煌き、静かで厳かな美しさに充ちていた。
「少しだけ、我慢してくださいね」
 そういってアーシェルは、虹の浴衣に手をかけた。
「自分で脱ぎます」
 思い切って虹が脱ぐと、アーシェルも帯を解いて長衣を脱ぎ、一糸纏わぬ姿で虹の前に立った。
 そこには神話のおもむきがあった。糸筋の滝と翡翠の苔、黄金きん色の金雀花えにしだを背に、非の打ちどころのない、均整のとれた白罌粟けしの裸身が浮きあがって見える。
「虹様、こちらへ」
 恭しく手を差し伸べられ、虹は我に返った。躰中の細胞が、アーシェルを意識している。不躾に視線をさげないよう気をつけながら手をさしだすと、触れる瞬間、ぱちっと電流が走った気がした。
 唖然呆然、陶然……手を引かれるがまま、水晶の連なりを思わせる滝へと導かれる。
 少し後ろを歩きながら、アーシェルを嘆賞の眸で見つめてしまう。
 筋肉を纏ったしなやかな肢体……がっしりした肩、長くて力強い腕、腰の位置は驚くほど高く、臀部はきゅっとひきしまっている。無毛の肌は天鵞絨びろうどのようになめらかだ。
 繋いだ手をひどく意識してしまう。そのような年でもあるまいに、まるで初恋のようだと思う。
 草原で一緒ににじを見たときから、彼に対する恋心が日に日に大きくなっていくのを感じる。少し冷静になった方がいいように思うが、制御できるようなものではなかった。
「さぁ、こちらへ」
 滝の手前で立ち止まり、アーシェルが振り向いた。虹は深呼吸をして、糸筋のなかへ躰をいれた。水は少し冷たいが、我慢できないほどではない。
 ちらりと隣をうかがうと、アーシェルは目を閉じていた。
 透明な滴が、シャープな横顔から伝い落ちる。緩やかに上下する胸、引き締まった腹部、無毛のずっしりとした陰茎と睾丸まで滴が伝い、水晶のように煌めいている。
(……まさしく、濡れしたたる美男子だな)
 視線が強すぎたのか、アーシェルは目を開けた。碧い瞳が虹を捕らえる。
 虹は、咄嗟に視線をそらすことができなかった。もの静かで熱い視線を見つめ返して、ごくりと喉をならす。
 しまったと思うが、もう遅い。心身を落ち着けるはずのみそぎが、急に官能の緊張感を帯びて、息が詰まりそうになる。
「虹様……」
 恭しく手をもちあげられ、目を見つめたまま、指先にくちびるが触れた。愛おしいと囁くように。宝物に触れるように。
「お慕いしております、虹様」
「……そんなことをいわれたら、勘違いしちゃいますよ。僕のこと、好きなのかなって」
 どうにか冗談めかす虹に、アーシェルはひたむきな視線を向けた。
「勘違いではありません。虹様を心から愛しています。私のすべては貴方様のものです」
 震えるほどの歓喜が、虹の体内を駆け巡った。幸せすぎてどうしていいか判らないまま、手を伸ばして、ひんやりと冷たい頬を撫でた。
「僕も貴方が好きです」
 碧い双眸が喜びに輝いた。
 次の瞬間、背にたくましい腕が回されて、のけぞりながら、ひんやりとした、柔らかいくちびるを受ける。と、甘美な焔が体内を駆け昇った。春の宴のような快い陶酔感。炎に炙られた薔薇が胸のなかに花ひらく。
 ――彼が好きだ。
 生まれも育ちもまるで違う、釣りあうとも思えないけれど、どうしようもないほど惹かれてしまう。虹に心を捧げてくれた美しいひと。熱狂的な崇拝者。彼のようなひとに出会ってしまっては、気持ちを抑えようがなかった。
 キスをほどいたアーシェルは、虹を愛おしげに見つめた。頬を撫でながら、
「私が今どれほど嬉しいか、虹様には判らないでしょう」
「……僕と同じくらい、嬉しいといいのだけれど」
 虹が視線を伏せると、親指でくちびるをそっと撫でられた。
「私の喜びの方が、千倍も大きいでしょう」
「僕だって……」
 顔をあげると、神々しいまでのアーシェルの微笑が視界いっぱいに映った。
 きらきらと世界が輝いて見える。太陽と月が同時に昇り、彗星が飛来して、初々しいふたりを祝福してくれるみたいに。
「私がどれほど虹様を想っているか……」
 吐息が触れそうなほど顔を近づけて、アーシェルは囁いた。
 腕が勝手にアーシェルの首にまきつく。つま先立ちになると、彼の方も虹のうなじを片手でつかみ、反対の手は背中に広げ、ぴったり躰を押しつけてくる。下腹部の強張りがはっきりと感じられた。
 動揺して、虹は身じろぐ。
 全身が火照っている。欲望のままに互いを貪り、渇きを満たしたい――でも、このまま進めてしまっていいのだろうか?
 大きな手が腹から腰へとおりていくと、虹は咄嗟にその手を掴んだ。アーシェルは動きを止めた。
「どうか怖がらないで……触れるだけです」
 耳元にくちびるが触れて、心臓が痛いほど高鳴る。肯定も否定もできずにいると、下半身へおりていった。
 あの最初の夜が思いだされた。
 あのときは、訳も判らず滾る熱に翻弄されていたけれど、いまは心を伴っている。彼が欲しい。ほんの少し怖いけれど、求められれることが嬉しくてたまらない。
「ぁ……」
 反応しかけている性器を、そっと優しく握りしめられて、虹は甘いため息をこぼした。
 二度三度と優しく擦られるだけで、芯を帯びていく。恥ずかしくて前屈みの姿勢をとると、アーシェルは虹の腕を掴んだまま、ゆっくり膝をついて、上目遣いに見あげた。
「脚を開いて」
 虹はみるみる頬を染めたが、いわれた通りにした。アーシェルは内腿にくちびるをつけた。焦らすように、ゆっくり屹立に近づいていくさまを、虹は恐れと期待をこめて待っていた。
「んっ」
 陰嚢を舌で優しく揺すられて、虹は驚きに目を瞠る。予想外の刺激に、思わず腰を逃がそうとしたが、アーシェルは指がくいこむほど、虹の大腿を強く掴んだ。
「ぁ、嘘っ……んぁ、はぁッ」
 陰嚢をすっぽりくちに含まれた瞬間、衝撃のあまり頭のなかが真っ白になった。
 えもいわれぬ快感――飴玉を舐めしゃぶるみたいに優しく愛され、時折、ずずっと水音を立てて吸いつかれる。緩急をつけた巧みな舌技に、蜜口は金魚のようにぱくぱく喘ぎ、すすり泣いて蜜をこぼしている。こんなに濡れたのは生まれて初めてだ。
 やがて、ちゅぽっと淫靡な音をたてて、くちびるから陰嚢が解放されたとき、虹は、ふぅっと四肢から力が抜け落ちていくのを感じた。
「ぁ、はぁ……アーシェル……」
 よろめく下半身を、アーシェルが両腕で支えてくれる。濡れて月白げっぱくに煌めく髪に手をやり、虹は、引き寄せたいのか突き放したいのか、判断がつきかねた。
「虹様……」
 熱のこもった瞳で虹を見つめたまま、アーシェルは角度をもった陰茎に、そっとくちびるをつけた。
「ぁ……」
 ちゅっちゅっと啄むようなキスが繰り返されるたびに、ぴくぴくと性器が震える。先端までたどりつくと、花びらのようなくちびるを開いて、ゆっくり亀頭を飲みこんだ。
「ぁ、ふァ……すご……っ」
 快感の焔は、突風に煽られたように大きく揺らいだ。
 想像していたよりもずっと、自慰とは比べものにならないほど気持ちがいい。液状の絹にくるまれているみたいだ。息があがる。肌を伝い落ちる水は冷たいのに、アーシェルの肌と舌が熱くて、じんわり額に汗がにじむ。
 天国にいるみたいだが、このままでは彼のくちのなかで果ててしまう。
「ありがと、気持ちぃ……でちゃいそ……」
 そっと髪に手をやり、今度こそ遠ざけようとする。それを拒むように大腿を掴む掌にぐっと力が入り、舌の動きが大胆に加速した。
「待って、ほんとに……っ」
 虹は切羽詰まった声で窮状を訴えるが、ちらりと視線をあげたアーシェルは、強い欲望を訴えてきた。
 丁寧なのに荒々しい口淫は、虹の躰を波打たせる。火焔かえんが大きくなる。絶頂に抗おうとしたが、容赦のない愛撫に、嵐のごとく翻弄された。脳裏に白い稲妻が閃いて、眩いばかりの焔に包まれる。
「ぁ、あ、イく……あ゛ッ!」
 爆発したように欲望がほとばしると、止める間もなく、アーシェルは喉奥を拓いて、馳走とばかりに熱い蜜を飲み干していく。
 ――飲まれた。
 悦楽の余韻のなか、若干の後ろめたさを覚えるが、アーシェルはくちを離そうとしなかった。
「ン……ちゅ……虹様……美味しい……」
 吐精を終えても陰嚢を優しく揉みしだきながら、蜜口にちゅっちゅっとくちづけ、精管の残滓までも優しく奪いとっていく。
 丁寧で愛情深い奉仕に、虹がへなへなとくずおれると、アーシェルは腕を掴み、抱っこするように正面から虹を抱えて、水のなかに腰をおろした。
「……うまし蜜に感謝を。ああ、本当に……生き返る心地がいたします」
 ゆっくりと、言葉を噛むようにしてアーシェルはいった。
 虹は黙っていた。火照った躰に、ひんやりとした水が心地よい。
「どこか辛いところはありませんか?」
「平気です」
 どこか夢見心地のまま、虹は、アーシェルの引き締まった胸に触れた。熱い肌がぴくりと脈打つ。そのまま下腹部に向かっておりていくと、アーシェルは狼狽したように目を見開いた。
「虹様」
 彼が素早い動きで、自分の躰のうえから虹をおろしたので、不安になった虹は手をひっこめた。
「厭でした?」
「いいえ! そのようなことは……」
 潤んだ瞳で眉根を寄せ、アーシェルは悩ましげに呻いた。くちびるから漏れる吐息は媚薬のようだ。
「明日は祝宴です。私には八職頭はちしきかしらの役目がございます。ですが明日の夜には……どうか、虹様のすべてに触れるお赦しをくださいませ」
 艶冶えんやとした流し目を送られて、虹は壮絶な色香にくらくらした。心臓が烈しく動悸している。
「……はい」
 虹は小さく頷いた。めくるめく情事、アーシェルとひとつになるところを想像して、思考が弾け飛びそうになる。今からこの調子で、明日の夜まで心臓はもつのだろうか?
 熱い眼差しを直視できずに視線を泳がせると、頬にはりついた髪を、優しい手つきで耳にかけられた。
「もう戻りましょう。お躰が冷えてしまいます」
 再びアーシェルを見たとき、美しいかんばせには慈悲深い天使のような微笑が浮かんでいた。けれども頬は仄かに紅潮し、碧眼はとろりと甘く溶けている。
 その表情を見て、想い通じあえたのだと虹は実感した。
 みそぎを終えて邸に戻った後も、アーシェルは甲斐甲斐しく虹の寝支度を整えてくれた。もう十分ですよ、とこちらから声をかけても、虹がしとねに横になるまで傍にいた。虹の方も少しでも一緒にいたいから、申し訳ないと思いつつ彼の献身に甘えた。
「ごゆっくりおやすみなさいませ、虹様」
「おやすみなさい、アーシェルさん」
 アーシェルは月の精霊のような微笑をうかべると、丁寧に寝台のとばりをおろした。
 虹は静かに目を閉じる。
 そうしながら、アーシェルとの運命的なめぐりあわせに、何か目には見えぬ、大いなる力が働いたのではないかと想像していた。
 三十二年間、無神論者として生きてきた虹も、今なら神を信じられる気がした。
 永久とこしえの宇宙を司る神の御業により、この世界の扉を開いて、虹を招き入れてくれた。美しいアーシェルと引きあわせて、同じ運命を共有せよとおっしゃっられたのだ。美しい幻想恋愛物語のように。
 夢見心地のなか胸をときめかせながら、一方で強い現実感も抱いている。
 この先ずっと、ここで生きていくのだから、享受するばかりではいけない。今日までアーシェルは本当によくしてくれた。これまでに出会った水晶族の誰もが、虹を温かく受け入れてくれた。
 虹もここでの暮らしを受け入れて、生活基盤を確立したい。
 ここはもう第二の故郷だから。
 明日の祝宴を終えたら、アーシェルにこの決意を伝えよう。きっと応援してくれる。少しずつでも、虹にできることを探していこう。
 この時は、確かにそう思ったのだ。