FAの世界
1章:楽園の恋 - 9 -
それからの数日、虹は、白昼夢のなかで日々を過ごした。
世俗と切り離された楽園で、至れり尽くせりの奢侈 な生活を送っている。食事も掃除もアーシェルが世話をしてくれるし、邸は広くて優雅で、なにひとつ不自由がない。
朝と夜に“星を歌いし者 ”と言葉を交わし、昼は鷲獅子 を連れてアーシェルと森や湖にでかけた。
生来、虹は理想主義者や夢想家ではないのだが、今はまさしく満ち足りた牧歌の世界を、自由な心身で、一日一日を慈しんでいる。
この日もアーシェルと森にいき、名もない小川で釣に興じることにした。
強い日差しのしたでも木陰は涼しく、木の葉は打ち伸ばされた濃緑色の青銅を思わせ、そよ風に撫でられると、涼しげにかさかさと鳴ってささやき交わす。
きらきら光る水面と、木漏れ日を目に愉しみながら、脚を川にひたして、魚が足をつつく感触に笑ったりした。
ぼんやり釣り糸を垂らしながら、過ぎ去った三十二年間を振り返り、都会の喧騒や、日々すれ違う路傍 の人々とかつての生活基盤を思いだし、人生とはかくも紆余曲折の連続であることかと回想に耽ったりする。
くんっ――手に振動が伝わる。
魚を釣りあげる瞬間の興奮は、かつての日常では絶対に得られなかった。
「お見事です、コウ様」
暴れる魚を掴んで針をとりながら、アーシェルが朗らかにいった。
「ありがとうございます。初心者でも結構釣れますね」
浮かれる虹だが、全てアーシェルのおかげだ。
実は先ほどから、虹は釣りあげるばかりで、針に餌をつけたり魚を容器に移す作業は、アーシェルが全てしてくれている。完全に接待プレイである。
しかもアーシェルは、虹の釣った魚を、自然の素朴な料理として振舞ってくれた。
慣れた手つきで魚を大きな葉でくるみ、泥を塗りつけて、真っ赤な焚火にくべると、間もなく焼きあがった椎茸と魚に、薬味と塩をひとふりして、虹に食べさせてくれた。
「美味しい!」
虹の目が喜びに輝く。毎日思うが、こんなに美味しいものは初めて食べた。
するとアーシェルの瞳も喜びに煌めき、彼は燗徳利 も用意していて、虹はご馳走に舌鼓を打ちながら幸せに浸った。
日が暮れて泉殿の邸に帰ると、不断の馨 しい光焔が燃やされ、虹を温かく迎えてくれる。アーシェルと夕餉を共にし、満たされた気持ちで寝室に戻ると、快い疲労困憊に襲われて、深い眠りに就いた。
森は、常に驚きと発見があった。一日中散策しても、まるで飽きがこない。
慣れ親しんだ文明機器がなくても、森の暮らしは豊かで、とても水晶族が衰退に喘いでいるとは思えない。少なくとも虹の目には、幸せに満ちているように見えた。
自然と精霊と鳥獣が共存する世界。
三次元と文明を超越した魔法とが、奇妙に混淆 していて、森の魔法、水晶の魔法があり、炎や水が言葉を紡ぐ世界に虹はすっかり魅了されていた。
最初の夜こそ泣いたものの、今では、ここで生きていくのも悪くないと思っている。
森にいると、ただ呼吸をしているだけで心が安定していく。心身が健やかになっていく心地がするのだ。
穏やかな凪が続いたある日、アーシェルは虹を睡蓮の美しい沼に連れていった。
青く、高く澄んだ空と、すばらしい翡翠の静寂 。
鏡のように凪いだ翡翠色の沼に、繊細な睡蓮が浮かぶ景は、まさしく楽園という言葉がふさわしかった。
驚いたことに、大きな蓮は虹が乗っても沈まず、ふたりで水上の蓮の歩廊を歩いた。
不意に立ち止まったアーシェルは恭しい手つきで、虹の髪に可憐な睡蓮を飾り、虹を赤面させた。
「僕より、アーシェルさんの方が似合うと思います」
髪にさした睡蓮をとって、長身を屈めてくれた彼の髪にさしなおすと、アーシェルは思わずうっとりするような微笑を浮かべた。
「ありがとうございます。手ずからさして頂けるなんて感激です。大切にしますね」
「いや、そんな……」
優しい碧い瞳に見つめられると、虹は、己のとった行動にますます赤面してしまう。
アーシェルは虹に対して、実に心を砕いて接してくれる。
律儀な水晶族の青年で、規則正しさを旨 とし、たいへんな美貌の持ち主でありながら、虹にたいして驚くほど礼賛家 である。とても献身的で、虹を見る眼差しにはいつも変わらぬ憧憬の念が見てとれる。
彼は森のすべての道を知悉 していて、素晴らし案内人であり、実に手先が器用で、どのような質問にも明瞭な回答をくれる学者でもあった。
この未知の世界で、虹が何不自由なく過ごせるのは、すべて彼のおかげだ。衣食住の世話も然 ることながら、細やかな気配りと快い会話で、常に虹を楽しませてくれる。話しているだけで癒される聡明な美男子である。
なにしろ美貌なので、ふとした視線や言葉の甘さに、不意を衝かれては赤面させられてしまう。
初めてあった夜の情事を、今では幻のように感じている。とんでもなく淫らな行為をしたにも関わらず、厭悪が湧かないのは、忘却という心の防衛機能が働いているだけではないだろう。
あれ以来、アーシェルは虹に性的に触れようとしない。
これが普通なのだと思う一方で、彼の白くて長い指が、頬や髪をかすめるたびに、熾火のような熱を思いだして、本人にはとてもいえないが、奇妙な躰の疼きを覚えていた。
正直に吐露すれば、もういちど彼に触れてほしい。眩いばかりの焔に包まれながら、彼の名前を呼んでみたい。
崇敬だけではない情を、向けられている自信はある。きっと勘違いではないはずだ。ときどきアーシェルの目が、幽 かに興ありげな微笑を浮かべて、虹にじっと注がれるのに、はっきり気がついていた。
目があうと、優しく微笑してくれるが、瞳の奥に熾火がちらついて見える。
そんな風に熱っぽく見てくるから、最近は、目を閉じても、瞼の奥にアーシェルの姿が見える。彼のことばかり考えてしまう。
夢見るような楽園で、美しい時間が流れていく。
一日が過ぎた。
ついで一夜が。
さらに一日が。
水晶ノ刻が迫る、ある俄 雨の晴れあがり、空に七色の橋が架った。
玄関先から空を仰ぎ見る虹のもとに、折よくアーシェルが尋ねてきた。
虹は束の間、自分に向かって歩いてくる彼の姿に、煌めく光の幻影を見た。
光が漣 と戯れ、周囲の樹々にきらきらと反射している。妖しく交錯する清らかさと美しさに、思わず見惚れてしまう。
「こんにちは、コウ様」
「……こんにちは」
虹は慌てて微笑を浮かべた。
目の錯覚だろうか。一瞬、彼の背に、飴細工のような翼が見えた気がした。
「空に奇瑞 が顕れております。見晴らしの良い草原で鑑賞いたしましょう」
虹は誘いを嬉しく思いつつ、幽 かな不安を覚えた。
「ここのところ、僕につきっきりですが、アーシェルさんのお仕事に支障はありませんか?」
「水晶の君にお仕えすること以上に、重要なことはありません」
「……お手数をおかけします」
碧い眼差しがとろりと甘くなり、虹は紅くなる。社交辞令だと思うのに、胸がきゅんとしてしまう。
自分でも初心だと思うが、魅力的すぎるアーシェルがいけない。絶世の美男子に優しくされて、ときめくなという方が無理だ。
本当に彼は不思議なほど、虹を甘やかしてくれる。
阿 るでもなく、誰がどう見ても平凡な容姿をしている虹の容貌まで褒めそやし、真実の優しと、嘘偽りのない崇敬の気持ちが感じられるのだ。
「さ、参りましょう」
恭しくさしのべられた手に、虹は遠慮がちに手を重ねた。
雨あがりの空気に、鷲獅子 もご機嫌麗しく足取り軽やかに、草原をかけていく。
なだらかな平原にいくと、大きな二重の虹 の、端から端までしっかり見ることができた。
「大きな虹 だなぁ」
きて良かったと思いながら、虹は空を仰ぎみた。
「空に架る橋は吉兆でございます。コウ様がいらしてから、よい日が続きますね」
アーシェルが優しく微笑する。虹は、彼を見てほほえんだ。
「僕の名前の虹 は、虹 を意味する文字なんです」
掌に“虹”の一文字を書きながら説明すると、アーシェルは瞳を輝かせた。彼の裡から明るい光が放たれる。
「素敵な御名ですね。まさしく虹様は、幸せを招く架け橋でございますね」
きらきらした笑顔を見て、虹は躰に電流が流れた心地がした。
遥か遠い昔に味わった感覚、優しさのこもる熱い感情が押し寄せて、胸の奥が苦しくなる。
彼に恋をしている。まばゆいほどの恋を。
世俗と切り離された楽園で、至れり尽くせりの
朝と夜に“
生来、虹は理想主義者や夢想家ではないのだが、今はまさしく満ち足りた牧歌の世界を、自由な心身で、一日一日を慈しんでいる。
この日もアーシェルと森にいき、名もない小川で釣に興じることにした。
強い日差しのしたでも木陰は涼しく、木の葉は打ち伸ばされた濃緑色の青銅を思わせ、そよ風に撫でられると、涼しげにかさかさと鳴ってささやき交わす。
きらきら光る水面と、木漏れ日を目に愉しみながら、脚を川にひたして、魚が足をつつく感触に笑ったりした。
ぼんやり釣り糸を垂らしながら、過ぎ去った三十二年間を振り返り、都会の喧騒や、日々すれ違う
くんっ――手に振動が伝わる。
魚を釣りあげる瞬間の興奮は、かつての日常では絶対に得られなかった。
「お見事です、コウ様」
暴れる魚を掴んで針をとりながら、アーシェルが朗らかにいった。
「ありがとうございます。初心者でも結構釣れますね」
浮かれる虹だが、全てアーシェルのおかげだ。
実は先ほどから、虹は釣りあげるばかりで、針に餌をつけたり魚を容器に移す作業は、アーシェルが全てしてくれている。完全に接待プレイである。
しかもアーシェルは、虹の釣った魚を、自然の素朴な料理として振舞ってくれた。
慣れた手つきで魚を大きな葉でくるみ、泥を塗りつけて、真っ赤な焚火にくべると、間もなく焼きあがった椎茸と魚に、薬味と塩をひとふりして、虹に食べさせてくれた。
「美味しい!」
虹の目が喜びに輝く。毎日思うが、こんなに美味しいものは初めて食べた。
するとアーシェルの瞳も喜びに煌めき、彼は
日が暮れて泉殿の邸に帰ると、不断の
森は、常に驚きと発見があった。一日中散策しても、まるで飽きがこない。
慣れ親しんだ文明機器がなくても、森の暮らしは豊かで、とても水晶族が衰退に喘いでいるとは思えない。少なくとも虹の目には、幸せに満ちているように見えた。
自然と精霊と鳥獣が共存する世界。
三次元と文明を超越した魔法とが、奇妙に
最初の夜こそ泣いたものの、今では、ここで生きていくのも悪くないと思っている。
森にいると、ただ呼吸をしているだけで心が安定していく。心身が健やかになっていく心地がするのだ。
穏やかな凪が続いたある日、アーシェルは虹を睡蓮の美しい沼に連れていった。
青く、高く澄んだ空と、すばらしい翡翠の
鏡のように凪いだ翡翠色の沼に、繊細な睡蓮が浮かぶ景は、まさしく楽園という言葉がふさわしかった。
驚いたことに、大きな蓮は虹が乗っても沈まず、ふたりで水上の蓮の歩廊を歩いた。
不意に立ち止まったアーシェルは恭しい手つきで、虹の髪に可憐な睡蓮を飾り、虹を赤面させた。
「僕より、アーシェルさんの方が似合うと思います」
髪にさした睡蓮をとって、長身を屈めてくれた彼の髪にさしなおすと、アーシェルは思わずうっとりするような微笑を浮かべた。
「ありがとうございます。手ずからさして頂けるなんて感激です。大切にしますね」
「いや、そんな……」
優しい碧い瞳に見つめられると、虹は、己のとった行動にますます赤面してしまう。
アーシェルは虹に対して、実に心を砕いて接してくれる。
律儀な水晶族の青年で、規則正しさを
彼は森のすべての道を
この未知の世界で、虹が何不自由なく過ごせるのは、すべて彼のおかげだ。衣食住の世話も
なにしろ美貌なので、ふとした視線や言葉の甘さに、不意を衝かれては赤面させられてしまう。
初めてあった夜の情事を、今では幻のように感じている。とんでもなく淫らな行為をしたにも関わらず、厭悪が湧かないのは、忘却という心の防衛機能が働いているだけではないだろう。
あれ以来、アーシェルは虹に性的に触れようとしない。
これが普通なのだと思う一方で、彼の白くて長い指が、頬や髪をかすめるたびに、熾火のような熱を思いだして、本人にはとてもいえないが、奇妙な躰の疼きを覚えていた。
正直に吐露すれば、もういちど彼に触れてほしい。眩いばかりの焔に包まれながら、彼の名前を呼んでみたい。
崇敬だけではない情を、向けられている自信はある。きっと勘違いではないはずだ。ときどきアーシェルの目が、
目があうと、優しく微笑してくれるが、瞳の奥に熾火がちらついて見える。
そんな風に熱っぽく見てくるから、最近は、目を閉じても、瞼の奥にアーシェルの姿が見える。彼のことばかり考えてしまう。
夢見るような楽園で、美しい時間が流れていく。
一日が過ぎた。
ついで一夜が。
さらに一日が。
水晶ノ刻が迫る、ある
玄関先から空を仰ぎ見る虹のもとに、折よくアーシェルが尋ねてきた。
虹は束の間、自分に向かって歩いてくる彼の姿に、煌めく光の幻影を見た。
光が
「こんにちは、コウ様」
「……こんにちは」
虹は慌てて微笑を浮かべた。
目の錯覚だろうか。一瞬、彼の背に、飴細工のような翼が見えた気がした。
「空に
虹は誘いを嬉しく思いつつ、
「ここのところ、僕につきっきりですが、アーシェルさんのお仕事に支障はありませんか?」
「水晶の君にお仕えすること以上に、重要なことはありません」
「……お手数をおかけします」
碧い眼差しがとろりと甘くなり、虹は紅くなる。社交辞令だと思うのに、胸がきゅんとしてしまう。
自分でも初心だと思うが、魅力的すぎるアーシェルがいけない。絶世の美男子に優しくされて、ときめくなという方が無理だ。
本当に彼は不思議なほど、虹を甘やかしてくれる。
「さ、参りましょう」
恭しくさしのべられた手に、虹は遠慮がちに手を重ねた。
雨あがりの空気に、
なだらかな平原にいくと、大きな二重の
「大きな
きて良かったと思いながら、虹は空を仰ぎみた。
「空に架る橋は吉兆でございます。コウ様がいらしてから、よい日が続きますね」
アーシェルが優しく微笑する。虹は、彼を見てほほえんだ。
「僕の名前の
掌に“虹”の一文字を書きながら説明すると、アーシェルは瞳を輝かせた。彼の裡から明るい光が放たれる。
「素敵な御名ですね。まさしく虹様は、幸せを招く架け橋でございますね」
きらきらした笑顔を見て、虹は躰に電流が流れた心地がした。
遥か遠い昔に味わった感覚、優しさのこもる熱い感情が押し寄せて、胸の奥が苦しくなる。
彼に恋をしている。まばゆいほどの恋を。