FAの世界
1章:楽園の恋 - 8 -
それからアーシェルは、夢のような水晶の森を、虹に案内してくれた。
彼は森を隅々まで知り尽くしていて、杣道 をゆきながら森の神秘と伝説の木や、わくわくするような隠れ家を教えてくれた。
樹間に戯れる兎や鹿を見て、虹は喜ぶ。森にはたくさんの鳥獣がいて、アーシェルは彼等の声で会話することができた。
高い樹々の枝で、焔のごとき翼をもつ緋鸚哥 、金色の鸚鵡 、優雅な白孔雀 、可憐な琴鳥 たちが羽を休め、美しい声で囀 っている。
森地の草花、光る苔、せせらぎ、すべてが美しかった。
なかでも、きらきらと輝きわたる鏡のような湖には、様々な神秘の水晶が氷塊のようにそびえ、岸辺に咲く繊細で華奢な花が目を楽しませてくれた。
見惚れて立ち尽くす虹のために、アーシェルは丈夫な琥珀織を敷いてくれた。
「ありがとうございます」
腰を落ち着けた虹は、その素晴らしい景を、一日中見ていられると思った。
深い色の瑠璃 や、海に浮かぶ氷のように澄み透った碧色がいりまじり、多角形の水晶柱がいたるところに突きでている。
傍に控えるアーシェルは、感動のあまり言葉を忘れてしまった虹が、ふたたび言語をつむぐまで、ただ優しい表情で見守っていた。
「満足しました。そろそろいきましょうか」
名残惜しいが、あまりじっとしているのも悪い気がして、虹は立ちあがった。
「良ければ、カヌーを御用意いたしましょうか?」
目を輝かせる虹を見て、アーシェルはほほえんだ。彼が掌を宙にかざすと、きらきら光の粒子が密集して、太陽の輻 のように弾けた。すると驚くべきことに、優美な胡桃のカヌーが湖に浮かんでいた。
「どこからだしたんですか?」
虹は驚きに目を丸くする。
「魔法ですよ」
「魔法……」
さも当然に“魔法”といわれても、虹にとっては非日常の驚嘆すべき出来事だ。
感心しながらカヌーに触れると、しっかりした胡桃材の感触が掌に伝わってくる。このように大きな物体を、何もないところからいきなり出現させられるなんて、まさしく魔法だ。
「御手をどうぞ」
先に乗りこんだアーシェルが、手を差し伸べてくれる。
「カヌーは初めてです」
少し照れながら、虹は手をあずけた。彼の手を借りて腰を落ち着けると、アーシェルが櫂 を渡してくれた。見た目よりも軽くて動かしやすい。
畔 から漕ぎいでると、やがて森を横断する大河に合流した。
前席にアーシェルがいることは、初心者の虹にとってありがたかった。殆ど彼が操縦してくれるので、舳先があらぬ方向に傾くことはない。
凪いだ水面をカヌーで渡りながら、虹は自然霊に充ちた森を眺め、目を引く神秘を指差しては、子供みたいに歓声をあげた。
河を渡る途中で、狩りをしている水晶族を見かけた。
彼らは虹に気がつくと、とても優雅な仕草で、左手を胸に押し当て、膝を軽くまげてお辞儀してくれた。
余所者を忌避するような者はひとりもおらず、それどころか王に敬意を払うように接してくれる。これまでアーシェルの慇懃さを大仰に感じていたが、そのように敬意を示す者は、彼だけではなかったのだ。
やがて白樺の谷間でカヌーをおりると、薬草採取や、ベリー摘みをしている水晶族が数人いて、彼らは艶やかな甘い実を虹にただで分けてくれた。
その場で口に含んだ虹は、最高に美味しいベリーの味を知った。
「美味しい!」
目を輝かせる虹を、彼らは嬉しそうに眺める。虹は決して大げさに振舞ったわけでなく、本当に美味しいのだ。ひとつひとつが野生の香りをたっぷり含んでいて、とても甘い。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
心からの感謝をくちにする虹に、彼らは小袋に包んだベリーをもたせてくれた。
そんな風に森を半日も見て回る頃には、虹のなかで水晶族に対する淡い親愛の情が芽生えて、自然と挨拶を返すようになっていた。
彼らの素朴で優しい暮らしは、文明社会で育った虹にとって、楽園そのもの。見るもの全てが新鮮で、魅惑に満ちていた。
かくも壮麗な、淡い黄金 と深紅に空は染め抜かれ、燠 のような色をした巨大な太陽が沈んでいく。
やがてSalvia Blueに染まる秘境世界の空に、銀色の宵の明星 が瞬いた。
開闢 から在ると思われる谷を歩きながら、虹は、太古の自然界をさまよっているような心地を味わった。
さらさらと小川が流れ、ひな菊が点々と露の精のように咲き、樹々にかけられた鈴は、芳香のただよう薄暮のなかで、妖精の鐘のように鳴っている。
帰りは再び鷲獅子 に乗って、水晶の国を眺めおろしながら棲み処に戻った。
邸に着く頃には、黄昏の残照も消えて、夜の帳 がおりていた。
風のない、きらきらした夜で、黒い艶々した針葉樹の群が、星明りに照らされた鏡のような泉に映りこんでいる。
肌寒さに震えて両腕をさする虹に、アーシェルは金刺繍のされた異国風の袢纏 を着せてくれた。
寒いから屋内に戻ればいいのだが、泉の密やかな魅惑の美にしばし酔いしれた。
名残惜しくも平屋に戻ったあとは、囲炉裏の前で、まさしく王様のように御馳走の饗応 にあずかった。
水晶族の男が数人やってきて、長火鉢に銅壺 をかけ、燗徳利 をいれてくれた。
間もなく、給仕の様子を興味深く眺める虹の前に、骨董めいた翡翠の膳が運ばれてきた。皿小鉢が幾つも乗っていて、川魚の白焼 、雉 の丸焼き無花果 添え、自然薯 の和え物、杏と胡麻の麺麭 に燻製乾酪 という豪華な牧歌の恵み膳だ。
酌をするアーシェルに、一緒に食べようと誘うと、彼は嬉しそうに頷き、自分にも膳を運ばせた。
座っているだけで美味しい料理と酒が振舞われ、草津温泉の時にも増して、大勢に傅 かれて、まるで王様にでもなったような気分になる。
興味深い異国の古譚 に耳を傾けながら、一刻ばかり柘榴 酒を飲み、快い酩酊感に浸されて外にでた。
森 とした夜の空気が、酒精に火照った肌に心地よい。高所から眺めおろすと、ところどころに家屋の燈火が、さらに遠くの湖には漁火 が見えた。梢のそよぎ、梟の鳴き声。どこからか、幽 かな音楽も聞こえる。牧歌的な旋律を、しばし聴くともなしに聴いていた。
旅情というものが胸にこみあげてくる。
あまりにも遠くへきてしまったけれども、途方に暮れるというよりは、未知への興奮と解放感が強かった。
躰が冷えてきたところで、屋根のしたに戻り、寝 に就いた。
しかし、意識は冴えてなかなか眠れない。
昨夜とは打ってかわって、高揚感から眠れないのだ。
心臓がどきどきしている。
酒に酩酊しているだけではない。
今日経験したことは、三十二年の虹の人生のなかで、あまりにも鮮烈だった。
彼らの素朴な生活情景は、優しく美しい牧歌だ。
都会の喧騒とは縁遠い、愉快で、自由な、生活の静けさ想像してみると、胸に秘めた憧憬のようなものを刺激される。
ここにはテレビゲームも漫画もないけれど、魅惑的な浪漫がある。弓を触ってみたいし、狩りも経験してみたい。カヌーも、もっと上手に漕げるようになりたいと思う。
(……ここで暮らすのも、悪くないかもしれないな)
昨日は途方に暮れていたが、一日を過ごしてみて、意外なほど前向きな気持ちになっていた。水晶族にも好感がもてるし、彼らともっと打ち解けたいと思う。
異国二日目の夜は、明日への期待を胸に、穏やかな眠りに就いた。
彼は森を隅々まで知り尽くしていて、
樹間に戯れる兎や鹿を見て、虹は喜ぶ。森にはたくさんの鳥獣がいて、アーシェルは彼等の声で会話することができた。
高い樹々の枝で、焔のごとき翼をもつ
森地の草花、光る苔、せせらぎ、すべてが美しかった。
なかでも、きらきらと輝きわたる鏡のような湖には、様々な神秘の水晶が氷塊のようにそびえ、岸辺に咲く繊細で華奢な花が目を楽しませてくれた。
見惚れて立ち尽くす虹のために、アーシェルは丈夫な琥珀織を敷いてくれた。
「ありがとうございます」
腰を落ち着けた虹は、その素晴らしい景を、一日中見ていられると思った。
深い色の
傍に控えるアーシェルは、感動のあまり言葉を忘れてしまった虹が、ふたたび言語をつむぐまで、ただ優しい表情で見守っていた。
「満足しました。そろそろいきましょうか」
名残惜しいが、あまりじっとしているのも悪い気がして、虹は立ちあがった。
「良ければ、カヌーを御用意いたしましょうか?」
目を輝かせる虹を見て、アーシェルはほほえんだ。彼が掌を宙にかざすと、きらきら光の粒子が密集して、太陽の
「どこからだしたんですか?」
虹は驚きに目を丸くする。
「魔法ですよ」
「魔法……」
さも当然に“魔法”といわれても、虹にとっては非日常の驚嘆すべき出来事だ。
感心しながらカヌーに触れると、しっかりした胡桃材の感触が掌に伝わってくる。このように大きな物体を、何もないところからいきなり出現させられるなんて、まさしく魔法だ。
「御手をどうぞ」
先に乗りこんだアーシェルが、手を差し伸べてくれる。
「カヌーは初めてです」
少し照れながら、虹は手をあずけた。彼の手を借りて腰を落ち着けると、アーシェルが
前席にアーシェルがいることは、初心者の虹にとってありがたかった。殆ど彼が操縦してくれるので、舳先があらぬ方向に傾くことはない。
凪いだ水面をカヌーで渡りながら、虹は自然霊に充ちた森を眺め、目を引く神秘を指差しては、子供みたいに歓声をあげた。
河を渡る途中で、狩りをしている水晶族を見かけた。
彼らは虹に気がつくと、とても優雅な仕草で、左手を胸に押し当て、膝を軽くまげてお辞儀してくれた。
余所者を忌避するような者はひとりもおらず、それどころか王に敬意を払うように接してくれる。これまでアーシェルの慇懃さを大仰に感じていたが、そのように敬意を示す者は、彼だけではなかったのだ。
やがて白樺の谷間でカヌーをおりると、薬草採取や、ベリー摘みをしている水晶族が数人いて、彼らは艶やかな甘い実を虹にただで分けてくれた。
その場で口に含んだ虹は、最高に美味しいベリーの味を知った。
「美味しい!」
目を輝かせる虹を、彼らは嬉しそうに眺める。虹は決して大げさに振舞ったわけでなく、本当に美味しいのだ。ひとつひとつが野生の香りをたっぷり含んでいて、とても甘い。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
心からの感謝をくちにする虹に、彼らは小袋に包んだベリーをもたせてくれた。
そんな風に森を半日も見て回る頃には、虹のなかで水晶族に対する淡い親愛の情が芽生えて、自然と挨拶を返すようになっていた。
彼らの素朴で優しい暮らしは、文明社会で育った虹にとって、楽園そのもの。見るもの全てが新鮮で、魅惑に満ちていた。
かくも壮麗な、淡い
やがてSalvia Blueに染まる秘境世界の空に、銀色の宵の
さらさらと小川が流れ、ひな菊が点々と露の精のように咲き、樹々にかけられた鈴は、芳香のただよう薄暮のなかで、妖精の鐘のように鳴っている。
帰りは再び
邸に着く頃には、黄昏の残照も消えて、夜の
風のない、きらきらした夜で、黒い艶々した針葉樹の群が、星明りに照らされた鏡のような泉に映りこんでいる。
肌寒さに震えて両腕をさする虹に、アーシェルは金刺繍のされた異国風の
寒いから屋内に戻ればいいのだが、泉の密やかな魅惑の美にしばし酔いしれた。
名残惜しくも平屋に戻ったあとは、囲炉裏の前で、まさしく王様のように御馳走の
水晶族の男が数人やってきて、長火鉢に
間もなく、給仕の様子を興味深く眺める虹の前に、骨董めいた翡翠の膳が運ばれてきた。皿小鉢が幾つも乗っていて、川魚の
酌をするアーシェルに、一緒に食べようと誘うと、彼は嬉しそうに頷き、自分にも膳を運ばせた。
座っているだけで美味しい料理と酒が振舞われ、草津温泉の時にも増して、大勢に
興味深い異国の
旅情というものが胸にこみあげてくる。
あまりにも遠くへきてしまったけれども、途方に暮れるというよりは、未知への興奮と解放感が強かった。
躰が冷えてきたところで、屋根のしたに戻り、
しかし、意識は冴えてなかなか眠れない。
昨夜とは打ってかわって、高揚感から眠れないのだ。
心臓がどきどきしている。
酒に酩酊しているだけではない。
今日経験したことは、三十二年の虹の人生のなかで、あまりにも鮮烈だった。
彼らの素朴な生活情景は、優しく美しい牧歌だ。
都会の喧騒とは縁遠い、愉快で、自由な、生活の静けさ想像してみると、胸に秘めた憧憬のようなものを刺激される。
ここにはテレビゲームも漫画もないけれど、魅惑的な浪漫がある。弓を触ってみたいし、狩りも経験してみたい。カヌーも、もっと上手に漕げるようになりたいと思う。
(……ここで暮らすのも、悪くないかもしれないな)
昨日は途方に暮れていたが、一日を過ごしてみて、意外なほど前向きな気持ちになっていた。水晶族にも好感がもてるし、彼らともっと打ち解けたいと思う。
異国二日目の夜は、明日への期待を胸に、穏やかな眠りに就いた。