FAの世界

1章:楽園の恋 - 7 -

 翌朝、虹は海の底から浮きあがるような気持ちで、明瞭に目が醒めた。
 鳥がさえずっている。爽やかな異国の香がして、緞子どんすとばりの隙間から、仄かに陽がこぼれている。
「……夢じゃねぇのかよ……」
 躰を起こした虹は、深いため息をついた。
 奇怪千万せんばん。世界一周の驚異どころじゃない、草津温泉から次元の隧道ずいどうをくぐり抜けて、宇宙の別次元にきてしまったらしい。
 おまけに昨夜の艶めかしい情事まで蘇り、眩暈がするほどの虚脱感に襲われた。
(あれも現実だっていうのか? 勘弁してくれよ……)
 とんでもない痴態を見せてしまった。あられもない声をあげて、胸から乳を垂れ流したのだ。
 思わず襟首を指で広げて胸に視線を落とせば、なんら変わりのない乳首がそこにある。けれども昨夜は、指と舌で刺激されて、乳を垂らしたのだ。
「まさか……な?」
 服の下に手を突っこみ、乳首に触れてみるが、異変は感じられない。いくらなんでも、搾乳された記憶は捏造かもしれない。
 巨大なしとねをおりて、沙幕カーテンをめくると、かくも明るい幻想的世界に目を奪われた。
「わ――……綺麗……」
 水晶柱のちりばめられた、滝が見える。
 織りなす緑の絨毯に、金雀花えにしだの茂みが陽に照り映え、素晴らしいコントラストをなしている。
 窓の向こうに、このように閑雅かんがな景色が広がっているとは知らなかった。まるで魔法にかけられた世界を見ているようだ。
 すっかり見惚れてしまい、しばらく窓の前で立ち尽くしていた。
 ようやく時が動きだして、重厚な金襴きんらんをめくって居室に入ると、
“お早うございます、我があるじ
 いきなり声をかけられて、虹はびくぅっと肩を撥ねさせた。
「あ……鸚鵡おうむ……?」
 視線をあげると、豊かな樹冠をいただにれの枝に、緋色と翡翠の鸚鵡おうむがとまっていた。
“もうすぐ、アーシェルがきます”
「了解です……?」
 会話が成立していることが不思議でならない。
 現実味のない、奇妙な心地で洗面所にいくと、丸鏡の前に白磁の器が置かれ、湯がはられていた。誰かが用意してくれたのだろうか?
 疑問に思いながら顔を洗い、ついでにうがいをして、備えつけの柔らかい亜麻布リネンで顔を拭くと、気分はよくなった。銀張りのブラシで髪を整え、多少寝癖がついているが、見苦しいほどではないことを確認して洗面所をでた。
 再び囲炉裏のある居室に戻ったところで、ちょうどアーシェルが顕れた。
「お早うございます、コウ様」
 彼はその場にひざまずき、熱烈な礼拝を捧げる敬虔な信徒のように、恭しくこうべを垂れた。
 丁重すぎる挨拶に、虹は慌てた。思わず正座をして頭をさげてしまう。
「お早うございます」
「コウ様は、そのようにかしずかなくて良いのですよ」
「アーシェルさんも、僕にかしこまらないでください。お世話になっているのは、僕の方なんですから」
「お優しいですね、コウ様は」
 にっこりほほえみ、アーシェルが優雅な所作で立ちあがった。
 彼は素足に、長い白絹を躰に巻きつけ、宝石をちりばめた金糸織りの飾帯でとめている。露わな腕や脚頸に宝飾を身につけ、ふくらはぎに届くほど長い月白げっぱくの髪を後ろに流し、金と瑠璃ヴァイドゥーリャの髪留めを身に着けている。
 異国の神官めいたみやびな衣装も素敵だが、なんといっても彼自身にはなやぎがある。
 陽のあたる部屋で、天使長然と輝く美貌を見ていると、昨夜の艶事は幻かなと思えてくる。このように美しいひとと熱烈にキスをしたなんて、今でも信じられない。
「……アーシェルさんは綺麗ですね。肌も髪もきらきらして、なんだか精霊みたいだ」
 虹は呆けたように、思ったことをそのまま口にしていた。
 するとアーシェルは光り輝くような笑みを浮かべ、虹をさらに赤面させた。
「ありがとうございます。コウ様も、まばゆく輝いておられますよ」
「はは……どうも」
 口元を引きつらせる虹に、彼はにっこり笑顔で、白い湯気のたつ陶磁の湯呑をさしだした。
「蜂蜜を溶かした白湯でございます」
「ありがとうございます」
 虹は湯呑を受け取り、湯気のたつ表面に息を吹きかけた。そうしてひと口すする虹を、アーシェルは慈愛に満ちた顔で見ている。
 ぎこちなく口に運んだ白湯は、おもいのほか美味しかった。仄甘くて、暖かくて、思わず表情が緩んでしまう。
「美味しいです」
「ようございました。朝食はいかがなさいますか?」
 虹は腹に手をあてて、ちょっと考えると、首を振った。
「今は結構です。ちょっと外の様子を見てみたいのですが、出歩いても構いませんか?」
「もちろんでございます。良ければ、里を御案内いたしましょうか?」
「ぜひお願いします」
 虹は二つ返事で頷いた。
 そのあと、いったん寝室に戻り、渡された衣装に着替えた。
 柔らかい綿靴下を履いて、象牙色の幅広のズボンに同色の絹衣をたくしこみ、宝飾のついた腰帯でとめ、金糸で縁取られた白地の上品な釣鐘外套つりがねがいとうを羽織る。
 玄関にいくと、焦げ茶色の長革靴が用意されていた。
「何から何まで、すみません」
 会釈する虹に、アーシェルはにっこりほほえんだ。
「我が悦びです、水晶の君」
 短いつきあいながら、慣れつつある彼の口上である。
 外へでると、遍満へんまんする朝の光のなか、虹は、新鮮な朝の空気を胸いっぱいに吸いこんだ。
 新鮮ですがすがしいそよ風は、草木と土の匂い、自然の滋養に満ちていて、血潮を清らかに、心臓に生きる活力をそそぎこんでくれるように感じられた。
 なんて美しい世界なのだろう。
 陽のまばゆさ、土と草花の馥郁ふくいくたる香り、美しい緑の光景に圧倒される。
 家の前にある澄み透った泉は、昨夜とはうってかわって、冷水に転じていた。湯煙が立つこともなく、驚くほどに清冽せいれつで、水底の涼しげな石がくっきり鮮明に見えるほどだった。
「不思議だなぁ、昨日は温泉だったのに」
 子供みたいな感想をこぼす虹に、アーシェルは優しく笑みを浮かべた。
「水晶ノ刻を迎えると、聖寵せいちょうの泉は温水に変わります。黎明と共に、ふたたび冷水に戻るのです」
「へぇ、不思議ですね」
 感想をこぼしつつ、微笑のあまりの美しさに、虹は赤面してしまう。
 本当に美しい青年だ。さんと降りそそぐ陽のした、宝飾の煌めきにも増して輝いている。艶やかな長髪にまぶしい冠をつくり、白い肌は真珠粉をはたいたように繊細な煌めきを放つ。
 このような麗人がどうして虹にかしずくのか、やはりどうしても理解できない。
 知らず嘆賞たんしょうの眸で眺める虹に、アーシェルは恭しく手をさしのべた。
「水晶の君、御手をとうぞ」
 彼から目を逸らせない。魔法にかけられたみたいに、躰が勝手に動いていた。
 おずおずと重ねた手を、白くてなめらかな大きな掌に、宝物のようにそっと握られた。
 アーシェルは、胸を高鳴らせる虹の手をひいて、泉の中央にある、歩廊にちょうど良い白い凝灰岩ぎょうかいがんのうえを歩いていく。
 泉は凪いでおり、それほど深さはない。歩廊にしている岩盤は、ぎりぎり泉に浸されているので、なんだか水面鏡を歩く仙人めいた気持ちになる。
 淵にたどりついた虹は、息をのんだ。
 彼が見せたがるのもうなずける。翠巒すいらんしたたるばかりの眺望絶景である。
「わ――……すごい」
 湧きだす泉の澄明ちょうめいな水が、段々に入り組んだ小池にうえからしたへ流れおちていき、燦然と煌めく翡翠色の湖に繋がっている。
 折り重なる小泉を、白い凝灰岩ぎょうかいがんが囲んでいて、岩のあちこちに正方晶系、六方晶系、三斜晶系――さまざまな形の天然水晶がうずたかく積みあがり、自然の神秘と荘厳さに充ちている。
 世俗から切り離された、現実を超えた、エデンの楽園さながらの美しさだ。
「すごい……あんなに大きな天然の水晶、初めて見ました」
 泉のあちこちに岩と一体化したような水晶があり、遠くの峰を眺めても、信じられないほど巨大な水晶がある。
「ここではそう珍しいものではありませんよ。森や泉の至るところにありますから」
「それはすごい」
 はるか遠くに目をやると、無限につづく森は空との境界もなく、靄に溶け消えていた。
 渺茫びょうぼうたる森がどこまでも広がっており、広大無辺の緑のところどこに、水晶柱が突きでている。なんと広大な宝山であることか!
 神仏の景を拝んだあとは、泉の傍の大鍾乳洞しょうにゅうどうに案内された。
 最初は、小丘から垂れさがる木蔦の沙幕カーテンに秘されて、洞窟があるとは全く気付かなかった。
 木蔦をめくると、自然な岩壁にしか見えない石臼状の隠し扉があって、扉の奥には、此の世ならぬ青光に包まれた広い洞窟が拡がっていた。
 燐光めいた煌めきを灯す鍾乳石型の水晶が数多あまたさがるなか、壁の合間からも、様々な碧色の水晶が突きでていて、きらきらと輝いているのだ。巨大な宝石箱のなかに迷いこんでしまったみたいだ。
「ここは揺籃ようらんの泉です。新たな命を孵化させる揺り籠でございます」
揺籃ようらんの泉……」
 水晶の万華鏡ともいうべき、光の饗宴きょうえんに心を奪われた虹は、いっさいの世界を忘れて、しばし立ち尽くしていた。
「……ここで水晶核が採れる・・・のですか?」
 確か、彼らの種族は、丸い小さな水晶核から形成され、受肉するのだ。水晶核は王しか得られないと聞いたが、その過程を知らない虹は、天然の水晶を採取する様を想像していた。
「我らは皆、ここで育つのです。ですが、千年新たな同胞を迎えておりません」
 アーシェルは静かに応えたが、その横顔には滅びゆく種への厳しい哀切が射していた。
 しかし、虹の顔に不安が顕れていたのか、アーシェルは安心させるように笑みかけた。
「もし、昨晩の私の話がコウ様に不安を与えているのだとしたら、どうか御放念ください」
 虹は戸惑い、アーシェルを仰ぎ見た。 
 彼らの種の繁栄にまつわる話は、虹には荷が重い。知ることすら怖いと思う。けれども、アーシェルには死活問題のはずだ。
「すべてコウ様の御心のままに。先ずはこの里を知り、好きになっていただきたいのです」
 虹は、ぎこちなく笑み返した。
「……そういってもらえると、助かります。正直、王なんて僕にはとても務まらないと思うので……」
 気まずげに告げると、アーシェルは苦笑を返した。
「コウ様がいらしてくださっただけで十分です。これ以上の僥倖ぎょうこうはございません」
 洞窟をでると、ふたたびアーシェルは虹の手を引いて、泉の淵を歩いた。
 すると、蚕白石オパールのような煌めきを放つ、巨大な水晶柱が凝然ぎょうぜんそびえている。
 近づくにつれて、虹は生々しい白昼夢を思いだした。水晶に祈りを捧げていた、美しい裸身の男たち……彼らが崇めていたのは、この水晶ではなかろうか?
「この水晶は、我ら種の起源から在る、特別な水晶です。里を囲む大水晶環壁かんぺきには、等間隔に七つの守り水晶が配置されていて、この八つ目の中枢水晶に不可視の力で繋がっているのです」
「……この水晶、見たような気がする」
 千年紀を知る水晶のなかで、目にもあやな光が赫々かくかくと燃えている。近づくほどに、不思議な命の波動が感じられた。
 アーシェルの期待に満ちた眼差しに気がついて、虹は水晶から視線をそらした。
「いや、勘違いかな」
「いいえ、水晶の君は水晶核の継承者。この国を垣間見ていたとしても不思議はございません」
「どうかな……」
 虹は笑ってごまかしたが、自分でも疑心暗鬼になりつつあった。
 このような世界とは無縁だと思っていたが、少しずつ虹の意識に、肌に浸透していくように感じられてならない。
「八というかぞえは、我らにとって神聖なものです。大水晶環壁かんぺきに通じる枢要すうような八柱にはそれぞれ水晶もりが就き、中央水晶の水晶もりである私を含めて、八職はちしきと呼びます」
「やっぱり、アーシェルさんは立場のある方なのですね」
 虹が納得すると、アーシェルはほほえんだ。
「我らは皆、水晶の君に仕える忠実な臣下でございます」
「いやァ、恐縮です。僕がアーシェルさんに仕えた方が、絵面的にもおさまりが良いですよね、きっと」
 虹は照れ笑いを浮かべたが、アーシェルはとんでもないという表情で目を瞠った。
「何をおっしゃいますか。虹様こそ我らの国君こくくん。生涯を通じてお仕えするただひとりのあるじにございます」
 虹は口元をもごもごさせたが、さらなる追撃がありそうで、それ以上の言葉は控えた。
 邸の泉付近を歩いたあと、アーシェルは美しい鷲獅子グリュプスを連れてきた。頭と翼は鷲、胴は獅子のかたちをした幻想的獣である。
 虹は、一目でこの美しい獣のとりこになった。
「綺麗だなぁ。名前はなんて?」
「ガルーシャといいます。どうぞお傍にいらしてください」
「嚙みませんか?」
「ええ」
 ガルーシャは強大な外見に反して穏やかな気性で、声を荒げたり、鋭い爪で脅かすような真似はしなかった。そっと手を伸ばすと、撫でやすいように首を垂れてくれる。
「賢いね、撫でさせてくれた……」
 ふわふわした手触りに、しばし心を奪われる。
 真鍮色の片翼を広げたので、翼のしたを軽く掻いてやると、気持ちよさげに喉を鳴らした。凄みのある重低音だが、懐く姿は愛らしい。
 ふたりは鷲獅子グリュプスに乗って、なだからな平原の、牧歌的な光景を眺めた。
 一望果てのないなだらかな農園地帯が拡がっていて、杏や柘榴ざくろ、葡萄畑の合間に、点在する農家の屋根や、樹々のふさふさした頂に陽が射して、照り輝いているように見える。
 黄金こがね色の雄鹿や、まだら模様の牝鹿が囲いの近くに立ったり、牧草地に寝そべったり自由に過ごしていて、頭巾をかぶった耕作人たちが、たくましい箆鹿へらじかに荷車をひかせたり、風車の回る織機しょっきの小屋に出入りしている。
 のどかな光景は美しすぎて、現実味を感じられない。架空の世界の、架空の民族の暮らしを見ているみたいだ。
 豊穣の土地は精気と生命とに充ち溢れて、大きな角をもつ羚羊れいようが走り、楽園の鳥が飛び交う。人も動物もゆっくりとした時間のなかで生きているようだった。
 昔ながらの誇りと純朴さ、おおらかなゆとりの、中世風で農地らしい雰囲気のなか、あちらこちらに水晶柱がきらめいている。
「御伽話の世界を見ているみたいだなぁ……どの家もかわいい。窓や扉に、花輪を飾るのですね」
 虹が訊ねると、アーシェルはほほえんだ。
「皆、水晶の君の帰還を喜んでいるのです。千年ぶりの宴をほがい、ああして花輪を飾るのです」
「宴?」
「コウ様を歓迎する大慶たいけいの祝宴です。次の水晶ノ刻を迎えし日の、最初の午後に披露目を行い、同日の黄昏から曙の天文薄明までが聖餐となります」
「なにやら大仰に聞こえますが、僕はそんな、歓迎されるほど大した者ではありませんよ」
 虹が釘をさすと、アーシェルは安心させるように柔らかい微笑を浮かべた。
「御心配には及びません。コウ様が御くつろぎになれるよう、我らがすべての準備をいたします。披露目のあとの聖餐は、うち寛げるようごく少人数を招きますから」
「なんだか申し訳ないです」
「御遠慮なさらず。気楽にいらしてください」
「それはどうも……祝宴はいつですか?」
「二十九日後でございます。準備は我々がいたしますので、コウ様は気兼ねなく、ごゆるりとお過ごしください」
「そんなに歓迎してくれても、僕はアーシェルさんたちの期待に応えられないかもしれませんよ」
 虹は強張った顔で告げた。己に、歓待に見合うものをさしだせるとは、思えなかった。
「コウ様。難しく考えることはないのです。我らは……私は、コウ様がこうして遠くからいらしてくださっただけで、とても嬉しいのですから」
 美しいアーシェルの微笑に、虹は見惚れる。彼が、自分が嬉しいのだと強調してくれたことが、虹は嬉しかった。
「いいのでしょうか……もてなされているばかりで、申し訳ないのですが」
「我が悦びです。どうか気兼ねなさらないで。さぁ、森を見にいきましょう。コウ様にお見せしたい場所が、まだまだたくさんあるのです」
 楽しそうに、嬉しそうに話すアーシェルにつられて、虹も笑みを浮かべた。