FAの世界
1章:楽園の恋 - 7 -
翌朝、虹は海の底から浮きあがるような気持ちで、明瞭に目が醒めた。
鳥が囀 っている。爽やかな異国の香がして、緞子 の帳 の隙間から、仄かに陽がこぼれている。
「……夢じゃねぇのかよ……」
躰を起こした虹は、深いため息をついた。
奇怪千万 。世界一周の驚異どころじゃない、草津温泉から次元の隧道 をくぐり抜けて、宇宙の別次元にきてしまったらしい。
おまけに昨夜の艶めかしい情事まで蘇り、眩暈がするほどの虚脱感に襲われた。
(あれも現実だっていうのか? 勘弁してくれよ……)
とんでもない痴態を見せてしまった。あられもない声をあげて、胸から乳を垂れ流したのだ。
思わず襟首を指で広げて胸に視線を落とせば、なんら変わりのない乳首がそこにある。けれども昨夜は、指と舌で刺激されて、乳を垂らしたのだ。
「まさか……な?」
服の下に手を突っこみ、乳首に触れてみるが、異変は感じられない。いくらなんでも、搾乳された記憶は捏造かもしれない。
巨大な褥 をおりて、沙幕 をめくると、かくも明るい幻想的世界に目を奪われた。
「わ――……綺麗……」
水晶柱の鏤 められた、滝が見える。
織りなす緑の絨毯に、金雀花 の茂みが陽に照り映え、素晴らしいコントラストをなしている。
窓の向こうに、このように閑雅 な景色が広がっているとは知らなかった。まるで魔法にかけられた世界を見ているようだ。
すっかり見惚れてしまい、しばらく窓の前で立ち尽くしていた。
ようやく時が動きだして、重厚な金襴 をめくって居室に入ると、
“お早うございます、我が主 ”
いきなり声をかけられて、虹はびくぅっと肩を撥ねさせた。
「あ……鸚鵡 ……?」
視線をあげると、豊かな樹冠を戴 く楡 の枝に、緋色と翡翠の鸚鵡 がとまっていた。
“もうすぐ、アーシェルがきます”
「了解です……?」
会話が成立していることが不思議でならない。
現実味のない、奇妙な心地で洗面所にいくと、丸鏡の前に白磁の器が置かれ、湯がはられていた。誰かが用意してくれたのだろうか?
疑問に思いながら顔を洗い、ついでにうがいをして、備えつけの柔らかい亜麻布 で顔を拭くと、気分はよくなった。銀張りのブラシで髪を整え、多少寝癖がついているが、見苦しいほどではないことを確認して洗面所をでた。
再び囲炉裏のある居室に戻ったところで、ちょうどアーシェルが顕れた。
「お早うございます、コウ様」
彼はその場に跪 き、熱烈な礼拝を捧げる敬虔な信徒のように、恭しく頭 を垂れた。
丁重すぎる挨拶に、虹は慌てた。思わず正座をして頭をさげてしまう。
「お早うございます」
「コウ様は、そのように傅 かなくて良いのですよ」
「アーシェルさんも、僕に畏 まらないでください。お世話になっているのは、僕の方なんですから」
「お優しいですね、コウ様は」
にっこりほほえみ、アーシェルが優雅な所作で立ちあがった。
彼は素足に、長い白絹を躰に巻きつけ、宝石を鏤 めた金糸織りの飾帯でとめている。露わな腕や脚頸に宝飾を身につけ、ふくらはぎに届くほど長い月白 の髪を後ろに流し、金と瑠璃 の髪留めを身に着けている。
異国の神官めいた雅 な衣装も素敵だが、なんといっても彼自身に華 やぎがある。
陽のあたる部屋で、天使長然と輝く美貌を見ていると、昨夜の艶事は幻かなと思えてくる。このように美しい男 と熱烈にキスをしたなんて、今でも信じられない。
「……アーシェルさんは綺麗ですね。肌も髪もきらきらして、なんだか精霊みたいだ」
虹は呆けたように、思ったことをそのまま口にしていた。
するとアーシェルは光り輝くような笑みを浮かべ、虹をさらに赤面させた。
「ありがとうございます。コウ様も、まばゆく輝いておられますよ」
「はは……どうも」
口元を引きつらせる虹に、彼はにっこり笑顔で、白い湯気のたつ陶磁の湯呑をさしだした。
「蜂蜜を溶かした白湯でございます」
「ありがとうございます」
虹は湯呑を受け取り、湯気のたつ表面に息を吹きかけた。そうしてひと口すする虹を、アーシェルは慈愛に満ちた顔で見ている。
ぎこちなく口に運んだ白湯は、おもいのほか美味しかった。仄甘くて、暖かくて、思わず表情が緩んでしまう。
「美味しいです」
「ようございました。朝食はいかがなさいますか?」
虹は腹に手をあてて、ちょっと考えると、首を振った。
「今は結構です。ちょっと外の様子を見てみたいのですが、出歩いても構いませんか?」
「もちろんでございます。良ければ、里を御案内いたしましょうか?」
「ぜひお願いします」
虹は二つ返事で頷いた。
そのあと、いったん寝室に戻り、渡された衣装に着替えた。
柔らかい綿靴下を履いて、象牙色の幅広のズボンに同色の絹衣をたくしこみ、宝飾のついた腰帯でとめ、金糸で縁取られた白地の上品な釣鐘外套 を羽織る。
玄関にいくと、焦げ茶色の長革靴が用意されていた。
「何から何まで、すみません」
会釈する虹に、アーシェルはにっこりほほえんだ。
「我が悦びです、水晶の君」
短いつきあいながら、慣れつつある彼の口上である。
外へでると、遍満 する朝の光のなか、虹は、新鮮な朝の空気を胸いっぱいに吸いこんだ。
新鮮ですがすがしいそよ風は、草木と土の匂い、自然の滋養に満ちていて、血潮を清らかに、心臓に生きる活力をそそぎこんでくれるように感じられた。
なんて美しい世界なのだろう。
陽のまばゆさ、土と草花の馥郁 たる香り、美しい緑の光景に圧倒される。
家の前にある澄み透った泉は、昨夜とはうってかわって、冷水に転じていた。湯煙が立つこともなく、驚くほどに清冽 で、水底の涼しげな石がくっきり鮮明に見えるほどだった。
「不思議だなぁ、昨日は温泉だったのに」
子供みたいな感想をこぼす虹に、アーシェルは優しく笑みを浮かべた。
「水晶ノ刻を迎えると、聖寵 の泉は温水に変わります。黎明と共に、ふたたび冷水に戻るのです」
「へぇ、不思議ですね」
感想をこぼしつつ、微笑のあまりの美しさに、虹は赤面してしまう。
本当に美しい青年だ。燦 と降りそそぐ陽のした、宝飾の煌めきにも増して輝いている。艶やかな長髪にまぶしい冠をつくり、白い肌は真珠粉をはたいたように繊細な煌めきを放つ。
このような麗人がどうして虹に傅 くのか、やはりどうしても理解できない。
知らず嘆賞 の眸で眺める虹に、アーシェルは恭しく手をさしのべた。
「水晶の君、御手をとうぞ」
彼から目を逸らせない。魔法にかけられたみたいに、躰が勝手に動いていた。
おずおずと重ねた手を、白くてなめらかな大きな掌に、宝物のようにそっと握られた。
アーシェルは、胸を高鳴らせる虹の手をひいて、泉の中央にある、歩廊にちょうど良い白い凝灰岩 のうえを歩いていく。
泉は凪いでおり、それほど深さはない。歩廊にしている岩盤は、ぎりぎり泉に浸されているので、なんだか水面鏡を歩く仙人めいた気持ちになる。
淵にたどりついた虹は、息をのんだ。
彼が見せたがるのもうなずける。翠巒 したたるばかりの眺望絶景である。
「わ――……すごい」
湧きだす泉の澄明 な水が、段々に入り組んだ小池にうえからしたへ流れおちていき、燦然と煌めく翡翠色の湖に繋がっている。
折り重なる小泉を、白い凝灰岩 が囲んでいて、岩のあちこちに正方晶系、六方晶系、三斜晶系――さまざまな形の天然水晶が堆 く積みあがり、自然の神秘と荘厳さに充ちている。
世俗から切り離された、現実を超えた、エデンの楽園さながらの美しさだ。
「すごい……あんなに大きな天然の水晶、初めて見ました」
泉のあちこちに岩と一体化したような水晶があり、遠くの峰を眺めても、信じられないほど巨大な水晶がある。
「ここではそう珍しいものではありませんよ。森や泉の至るところにありますから」
「それはすごい」
はるか遠くに目をやると、無限につづく森は空との境界もなく、靄に溶け消えていた。
渺茫 たる森がどこまでも広がっており、広大無辺の緑のところどこに、水晶柱が突きでている。なんと広大な宝山であることか!
神仏の景を拝んだあとは、泉の傍の大鍾乳洞 に案内された。
最初は、小丘から垂れさがる木蔦の沙幕 に秘されて、洞窟があるとは全く気付かなかった。
木蔦をめくると、自然な岩壁にしか見えない石臼状の隠し扉があって、扉の奥には、此の世ならぬ青光に包まれた広い洞窟が拡がっていた。
燐光めいた煌めきを灯す鍾乳石型の水晶が数多 さがるなか、壁の合間からも、様々な碧色の水晶が突きでていて、きらきらと輝いているのだ。巨大な宝石箱のなかに迷いこんでしまったみたいだ。
「ここは揺籃 の泉です。新たな命を孵化させる揺り籠でございます」
「揺籃 の泉……」
水晶の万華鏡ともいうべき、光の饗宴 に心を奪われた虹は、いっさいの世界を忘れて、しばし立ち尽くしていた。
「……ここで水晶核が採れる のですか?」
確か、彼らの種族は、丸い小さな水晶核から形成され、受肉するのだ。水晶核は王しか得られないと聞いたが、その過程を知らない虹は、天然の水晶を採取する様を想像していた。
「我らは皆、ここで育つのです。ですが、千年新たな同胞を迎えておりません」
アーシェルは静かに応えたが、その横顔には滅びゆく種への厳しい哀切が射していた。
しかし、虹の顔に不安が顕れていたのか、アーシェルは安心させるように笑みかけた。
「もし、昨晩の私の話がコウ様に不安を与えているのだとしたら、どうか御放念ください」
虹は戸惑い、アーシェルを仰ぎ見た。
彼らの種の繁栄にまつわる話は、虹には荷が重い。知ることすら怖いと思う。けれども、アーシェルには死活問題のはずだ。
「すべてコウ様の御心のままに。先ずはこの里を知り、好きになっていただきたいのです」
虹は、ぎこちなく笑み返した。
「……そういってもらえると、助かります。正直、王なんて僕にはとても務まらないと思うので……」
気まずげに告げると、アーシェルは苦笑を返した。
「コウ様がいらしてくださっただけで十分です。これ以上の僥倖 はございません」
洞窟をでると、ふたたびアーシェルは虹の手を引いて、泉の淵を歩いた。
すると、蚕白石 のような煌めきを放つ、巨大な水晶柱が凝然 と聳 えている。
近づくにつれて、虹は生々しい白昼夢を思いだした。水晶に祈りを捧げていた、美しい裸身の男たち……彼らが崇めていたのは、この水晶ではなかろうか?
「この水晶は、我ら種の起源から在る、特別な水晶です。里を囲む大水晶環壁 には、等間隔に七つの守り水晶が配置されていて、この八つ目の中枢水晶に不可視の力で繋がっているのです」
「……この水晶、見たような気がする」
千年紀を知る水晶のなかで、目にも彩 な光が赫々 と燃えている。近づくほどに、不思議な命の波動が感じられた。
アーシェルの期待に満ちた眼差しに気がついて、虹は水晶から視線をそらした。
「いや、勘違いかな」
「いいえ、水晶の君は水晶核の継承者。この国を垣間見ていたとしても不思議はございません」
「どうかな……」
虹は笑ってごまかしたが、自分でも疑心暗鬼になりつつあった。
このような世界とは無縁だと思っていたが、少しずつ虹の意識に、肌に浸透していくように感じられてならない。
「八という算 えは、我らにとって神聖なものです。大水晶環壁 に通じる枢要 な八柱にはそれぞれ水晶守 が就き、中央水晶の水晶守 である私を含めて、八職 と呼びます」
「やっぱり、アーシェルさんは立場のある方なのですね」
虹が納得すると、アーシェルはほほえんだ。
「我らは皆、水晶の君に仕える忠実な臣下でございます」
「いやァ、恐縮です。僕がアーシェルさんに仕えた方が、絵面的にもおさまりが良いですよね、きっと」
虹は照れ笑いを浮かべたが、アーシェルはとんでもないという表情で目を瞠った。
「何をおっしゃいますか。虹様こそ我らの国君 。生涯を通じてお仕えする唯 ひとりの主 にございます」
虹は口元をもごもごさせたが、さらなる追撃がありそうで、それ以上の言葉は控えた。
邸の泉付近を歩いたあと、アーシェルは美しい鷲獅子 を連れてきた。頭と翼は鷲、胴は獅子の貌 をした幻想的獣である。
虹は、一目でこの美しい獣の虜 になった。
「綺麗だなぁ。名前はなんて?」
「ガルーシャといいます。どうぞお傍にいらしてください」
「嚙みませんか?」
「ええ」
ガルーシャは強大な外見に反して穏やかな気性で、声を荒げたり、鋭い爪で脅かすような真似はしなかった。そっと手を伸ばすと、撫でやすいように首を垂れてくれる。
「賢いね、撫でさせてくれた……」
ふわふわした手触りに、しばし心を奪われる。
真鍮色の片翼を広げたので、翼のしたを軽く掻いてやると、気持ちよさげに喉を鳴らした。凄みのある重低音だが、懐く姿は愛らしい。
ふたりは鷲獅子 に乗って、なだからな平原の、牧歌的な光景を眺めた。
一望果てのないなだらかな農園地帯が拡がっていて、杏や柘榴 、葡萄畑の合間に、点在する農家の屋根や、樹々のふさふさした頂に陽が射して、照り輝いているように見える。
黄金 色の雄鹿や、まだら模様の牝鹿が囲いの近くに立ったり、牧草地に寝そべったり自由に過ごしていて、頭巾をかぶった耕作人たちが、たくましい箆鹿 に荷車をひかせたり、風車の回る織機 の小屋に出入りしている。
のどかな光景は美しすぎて、現実味を感じられない。架空の世界の、架空の民族の暮らしを見ているみたいだ。
豊穣の土地は精気と生命とに充ち溢れて、大きな角をもつ羚羊 が走り、楽園の鳥が飛び交う。人も動物もゆっくりとした時間のなかで生きているようだった。
昔ながらの誇りと純朴さ、おおらかなゆとりの、中世風で農地らしい雰囲気のなか、あちらこちらに水晶柱がきらめいている。
「御伽話の世界を見ているみたいだなぁ……どの家もかわいい。窓や扉に、花輪を飾るのですね」
虹が訊ねると、アーシェルはほほえんだ。
「皆、水晶の君の帰還を喜んでいるのです。千年ぶりの宴を祝 い、ああして花輪を飾るのです」
「宴?」
「コウ様を歓迎する大慶 の祝宴です。次の水晶ノ刻を迎えし日の、最初の午後に披露目を行い、同日の黄昏から曙の天文薄明までが聖餐となります」
「なにやら大仰に聞こえますが、僕はそんな、歓迎されるほど大した者ではありませんよ」
虹が釘をさすと、アーシェルは安心させるように柔らかい微笑を浮かべた。
「御心配には及びません。コウ様が御くつろぎになれるよう、我らがすべての準備をいたします。披露目のあとの聖餐は、うち寛げるようごく少人数を招きますから」
「なんだか申し訳ないです」
「御遠慮なさらず。気楽にいらしてください」
「それはどうも……祝宴はいつですか?」
「二十九日後でございます。準備は我々がいたしますので、コウ様は気兼ねなく、ごゆるりとお過ごしください」
「そんなに歓迎してくれても、僕はアーシェルさんたちの期待に応えられないかもしれませんよ」
虹は強張った顔で告げた。己に、歓待に見合うものをさしだせるとは、思えなかった。
「コウ様。難しく考えることはないのです。我らは……私は、コウ様がこうして遠くからいらしてくださっただけで、とても嬉しいのですから」
美しいアーシェルの微笑に、虹は見惚れる。彼が、自分が嬉しいのだと強調してくれたことが、虹は嬉しかった。
「いいのでしょうか……もてなされているばかりで、申し訳ないのですが」
「我が悦びです。どうか気兼ねなさらないで。さぁ、森を見にいきましょう。コウ様にお見せしたい場所が、まだまだたくさんあるのです」
楽しそうに、嬉しそうに話すアーシェルにつられて、虹も笑みを浮かべた。
鳥が
「……夢じゃねぇのかよ……」
躰を起こした虹は、深いため息をついた。
奇怪
おまけに昨夜の艶めかしい情事まで蘇り、眩暈がするほどの虚脱感に襲われた。
(あれも現実だっていうのか? 勘弁してくれよ……)
とんでもない痴態を見せてしまった。あられもない声をあげて、胸から乳を垂れ流したのだ。
思わず襟首を指で広げて胸に視線を落とせば、なんら変わりのない乳首がそこにある。けれども昨夜は、指と舌で刺激されて、乳を垂らしたのだ。
「まさか……な?」
服の下に手を突っこみ、乳首に触れてみるが、異変は感じられない。いくらなんでも、搾乳された記憶は捏造かもしれない。
巨大な
「わ――……綺麗……」
水晶柱の
織りなす緑の絨毯に、
窓の向こうに、このように
すっかり見惚れてしまい、しばらく窓の前で立ち尽くしていた。
ようやく時が動きだして、重厚な
“お早うございます、我が
いきなり声をかけられて、虹はびくぅっと肩を撥ねさせた。
「あ……
視線をあげると、豊かな樹冠を
“もうすぐ、アーシェルがきます”
「了解です……?」
会話が成立していることが不思議でならない。
現実味のない、奇妙な心地で洗面所にいくと、丸鏡の前に白磁の器が置かれ、湯がはられていた。誰かが用意してくれたのだろうか?
疑問に思いながら顔を洗い、ついでにうがいをして、備えつけの柔らかい
再び囲炉裏のある居室に戻ったところで、ちょうどアーシェルが顕れた。
「お早うございます、コウ様」
彼はその場に
丁重すぎる挨拶に、虹は慌てた。思わず正座をして頭をさげてしまう。
「お早うございます」
「コウ様は、そのように
「アーシェルさんも、僕に
「お優しいですね、コウ様は」
にっこりほほえみ、アーシェルが優雅な所作で立ちあがった。
彼は素足に、長い白絹を躰に巻きつけ、宝石を
異国の神官めいた
陽のあたる部屋で、天使長然と輝く美貌を見ていると、昨夜の艶事は幻かなと思えてくる。このように美しい
「……アーシェルさんは綺麗ですね。肌も髪もきらきらして、なんだか精霊みたいだ」
虹は呆けたように、思ったことをそのまま口にしていた。
するとアーシェルは光り輝くような笑みを浮かべ、虹をさらに赤面させた。
「ありがとうございます。コウ様も、まばゆく輝いておられますよ」
「はは……どうも」
口元を引きつらせる虹に、彼はにっこり笑顔で、白い湯気のたつ陶磁の湯呑をさしだした。
「蜂蜜を溶かした白湯でございます」
「ありがとうございます」
虹は湯呑を受け取り、湯気のたつ表面に息を吹きかけた。そうしてひと口すする虹を、アーシェルは慈愛に満ちた顔で見ている。
ぎこちなく口に運んだ白湯は、おもいのほか美味しかった。仄甘くて、暖かくて、思わず表情が緩んでしまう。
「美味しいです」
「ようございました。朝食はいかがなさいますか?」
虹は腹に手をあてて、ちょっと考えると、首を振った。
「今は結構です。ちょっと外の様子を見てみたいのですが、出歩いても構いませんか?」
「もちろんでございます。良ければ、里を御案内いたしましょうか?」
「ぜひお願いします」
虹は二つ返事で頷いた。
そのあと、いったん寝室に戻り、渡された衣装に着替えた。
柔らかい綿靴下を履いて、象牙色の幅広のズボンに同色の絹衣をたくしこみ、宝飾のついた腰帯でとめ、金糸で縁取られた白地の上品な
玄関にいくと、焦げ茶色の長革靴が用意されていた。
「何から何まで、すみません」
会釈する虹に、アーシェルはにっこりほほえんだ。
「我が悦びです、水晶の君」
短いつきあいながら、慣れつつある彼の口上である。
外へでると、
新鮮ですがすがしいそよ風は、草木と土の匂い、自然の滋養に満ちていて、血潮を清らかに、心臓に生きる活力をそそぎこんでくれるように感じられた。
なんて美しい世界なのだろう。
陽のまばゆさ、土と草花の
家の前にある澄み透った泉は、昨夜とはうってかわって、冷水に転じていた。湯煙が立つこともなく、驚くほどに
「不思議だなぁ、昨日は温泉だったのに」
子供みたいな感想をこぼす虹に、アーシェルは優しく笑みを浮かべた。
「水晶ノ刻を迎えると、
「へぇ、不思議ですね」
感想をこぼしつつ、微笑のあまりの美しさに、虹は赤面してしまう。
本当に美しい青年だ。
このような麗人がどうして虹に
知らず
「水晶の君、御手をとうぞ」
彼から目を逸らせない。魔法にかけられたみたいに、躰が勝手に動いていた。
おずおずと重ねた手を、白くてなめらかな大きな掌に、宝物のようにそっと握られた。
アーシェルは、胸を高鳴らせる虹の手をひいて、泉の中央にある、歩廊にちょうど良い白い
泉は凪いでおり、それほど深さはない。歩廊にしている岩盤は、ぎりぎり泉に浸されているので、なんだか水面鏡を歩く仙人めいた気持ちになる。
淵にたどりついた虹は、息をのんだ。
彼が見せたがるのもうなずける。
「わ――……すごい」
湧きだす泉の
折り重なる小泉を、白い
世俗から切り離された、現実を超えた、エデンの楽園さながらの美しさだ。
「すごい……あんなに大きな天然の水晶、初めて見ました」
泉のあちこちに岩と一体化したような水晶があり、遠くの峰を眺めても、信じられないほど巨大な水晶がある。
「ここではそう珍しいものではありませんよ。森や泉の至るところにありますから」
「それはすごい」
はるか遠くに目をやると、無限につづく森は空との境界もなく、靄に溶け消えていた。
神仏の景を拝んだあとは、泉の傍の大
最初は、小丘から垂れさがる木蔦の
木蔦をめくると、自然な岩壁にしか見えない石臼状の隠し扉があって、扉の奥には、此の世ならぬ青光に包まれた広い洞窟が拡がっていた。
燐光めいた煌めきを灯す鍾乳石型の水晶が
「ここは
「
水晶の万華鏡ともいうべき、光の
「……ここで水晶核が
確か、彼らの種族は、丸い小さな水晶核から形成され、受肉するのだ。水晶核は王しか得られないと聞いたが、その過程を知らない虹は、天然の水晶を採取する様を想像していた。
「我らは皆、ここで育つのです。ですが、千年新たな同胞を迎えておりません」
アーシェルは静かに応えたが、その横顔には滅びゆく種への厳しい哀切が射していた。
しかし、虹の顔に不安が顕れていたのか、アーシェルは安心させるように笑みかけた。
「もし、昨晩の私の話がコウ様に不安を与えているのだとしたら、どうか御放念ください」
虹は戸惑い、アーシェルを仰ぎ見た。
彼らの種の繁栄にまつわる話は、虹には荷が重い。知ることすら怖いと思う。けれども、アーシェルには死活問題のはずだ。
「すべてコウ様の御心のままに。先ずはこの里を知り、好きになっていただきたいのです」
虹は、ぎこちなく笑み返した。
「……そういってもらえると、助かります。正直、王なんて僕にはとても務まらないと思うので……」
気まずげに告げると、アーシェルは苦笑を返した。
「コウ様がいらしてくださっただけで十分です。これ以上の
洞窟をでると、ふたたびアーシェルは虹の手を引いて、泉の淵を歩いた。
すると、
近づくにつれて、虹は生々しい白昼夢を思いだした。水晶に祈りを捧げていた、美しい裸身の男たち……彼らが崇めていたのは、この水晶ではなかろうか?
「この水晶は、我ら種の起源から在る、特別な水晶です。里を囲む大水晶
「……この水晶、見たような気がする」
千年紀を知る水晶のなかで、目にも
アーシェルの期待に満ちた眼差しに気がついて、虹は水晶から視線をそらした。
「いや、勘違いかな」
「いいえ、水晶の君は水晶核の継承者。この国を垣間見ていたとしても不思議はございません」
「どうかな……」
虹は笑ってごまかしたが、自分でも疑心暗鬼になりつつあった。
このような世界とは無縁だと思っていたが、少しずつ虹の意識に、肌に浸透していくように感じられてならない。
「八という
「やっぱり、アーシェルさんは立場のある方なのですね」
虹が納得すると、アーシェルはほほえんだ。
「我らは皆、水晶の君に仕える忠実な臣下でございます」
「いやァ、恐縮です。僕がアーシェルさんに仕えた方が、絵面的にもおさまりが良いですよね、きっと」
虹は照れ笑いを浮かべたが、アーシェルはとんでもないという表情で目を瞠った。
「何をおっしゃいますか。虹様こそ我らの
虹は口元をもごもごさせたが、さらなる追撃がありそうで、それ以上の言葉は控えた。
邸の泉付近を歩いたあと、アーシェルは美しい
虹は、一目でこの美しい獣の
「綺麗だなぁ。名前はなんて?」
「ガルーシャといいます。どうぞお傍にいらしてください」
「嚙みませんか?」
「ええ」
ガルーシャは強大な外見に反して穏やかな気性で、声を荒げたり、鋭い爪で脅かすような真似はしなかった。そっと手を伸ばすと、撫でやすいように首を垂れてくれる。
「賢いね、撫でさせてくれた……」
ふわふわした手触りに、しばし心を奪われる。
真鍮色の片翼を広げたので、翼のしたを軽く掻いてやると、気持ちよさげに喉を鳴らした。凄みのある重低音だが、懐く姿は愛らしい。
ふたりは
一望果てのないなだらかな農園地帯が拡がっていて、杏や
のどかな光景は美しすぎて、現実味を感じられない。架空の世界の、架空の民族の暮らしを見ているみたいだ。
豊穣の土地は精気と生命とに充ち溢れて、大きな角をもつ
昔ながらの誇りと純朴さ、おおらかなゆとりの、中世風で農地らしい雰囲気のなか、あちらこちらに水晶柱がきらめいている。
「御伽話の世界を見ているみたいだなぁ……どの家もかわいい。窓や扉に、花輪を飾るのですね」
虹が訊ねると、アーシェルはほほえんだ。
「皆、水晶の君の帰還を喜んでいるのです。千年ぶりの宴を
「宴?」
「コウ様を歓迎する
「なにやら大仰に聞こえますが、僕はそんな、歓迎されるほど大した者ではありませんよ」
虹が釘をさすと、アーシェルは安心させるように柔らかい微笑を浮かべた。
「御心配には及びません。コウ様が御くつろぎになれるよう、我らがすべての準備をいたします。披露目のあとの聖餐は、うち寛げるようごく少人数を招きますから」
「なんだか申し訳ないです」
「御遠慮なさらず。気楽にいらしてください」
「それはどうも……祝宴はいつですか?」
「二十九日後でございます。準備は我々がいたしますので、コウ様は気兼ねなく、ごゆるりとお過ごしください」
「そんなに歓迎してくれても、僕はアーシェルさんたちの期待に応えられないかもしれませんよ」
虹は強張った顔で告げた。己に、歓待に見合うものをさしだせるとは、思えなかった。
「コウ様。難しく考えることはないのです。我らは……私は、コウ様がこうして遠くからいらしてくださっただけで、とても嬉しいのですから」
美しいアーシェルの微笑に、虹は見惚れる。彼が、自分が嬉しいのだと強調してくれたことが、虹は嬉しかった。
「いいのでしょうか……もてなされているばかりで、申し訳ないのですが」
「我が悦びです。どうか気兼ねなさらないで。さぁ、森を見にいきましょう。コウ様にお見せしたい場所が、まだまだたくさんあるのです」
楽しそうに、嬉しそうに話すアーシェルにつられて、虹も笑みを浮かべた。