FAの世界

1章:楽園の恋 - 6 -

 原初の夜のようなとばりに、無数の星が瞬いている。
 息をのむほど美しいのに、初めて目にする異界の星座が壮麗に広がっていて、暗澹たる恐怖に襲われた。
「王って、そんなわけないだろ。早く、帰らないと……っ」
 仄碧い湯煙の漂う温泉に、ばしゃばしゃと飛沫をあげながら入っていく。
 温泉のなかほどで身を沈めて、たっぷり十秒は息を止めてみたが、何も起こらなかった。
 ぷはっと顔をだして、息継ぎをしてもう一度。さらにもう一度。何も起こらない。辺りを見回し、何か見落としていることはないか必死に探しても、秘密の召喚のきざしや、世界と世界の隔たりのようなものは何も感じられなかった。
 感じるのは、息がつまりそうになる蒸気と、湯の熱さばかりだ。心臓の鼓動が加速して、全身から汗が吹きだす。生身の躰の状態がいやというほど現実を突きつけてきて、涙が溢れでそうになる。
「水晶の君」
 いつの間にか、すぐ後ろにアーシェルがいた。
「こないでください……ッ!」
 虹は震える声で叫んだ。
「わけが判らないんです。露天風呂にいたのに、なんだってこんな……ぅぐっ」
 慌てて唇を引き結んだが、こらえようのない嗚咽がくちびるの隙間から漏れでた。
「水晶の君。どうか悲しまないで……私がおそばにいます」
 背中から、ふわりと抱き締められた。優しく髪を撫でられる。彼こそが混乱の源なのに、思い遣りにみちた仕草に、拒絶の意思はわかなかった。
「……僕は水晶の君じゃありません。きっと人違いです」
「人違いではありません。ですが、今は判らなくても良いのです……コウ様」
「……」
「いらしたばかりで、すべてを理解することは難しいでしょう。時間が必要なのです」
「……僕が王って、真面目にいっているんですよね?」
 見知らぬ星座や惑星を見つめたまま、虹は静かに訊ねた。
「もちろんでございます。コウ様こそ、我らの王です」
「僕にはさっぱり判りませんが……何か根拠はあるんですか?」
「御煌臨こうりんにより、千年ぶりに水晶ノ刻を迎えて、この通り泉は湯に変わったのです」
「そういわれても、僕はここの平時を知らないから……自覚もあやふやで……アーシェルさんの勘違いってことは……」
 アーシェルは、力なく項垂れる虹の手をとると、流れるような動作で己の股間に導いた。
「っ!?」
 虹はぎょっとして手を離そうとしたが、それは許されなかった。
「御判りですか? 我らしもべを熱くさせるのは、王ただおひとりでございます」
 雄の欲望は硬く勃起し、熔鉄ようてつの熱さでたぎっていた。圧倒的な欲望を突きつけられ、虹は言葉を発するのに、数秒を要した。
「……勃起くらい、男なら誰だって」
「いいえ! 千年ぶりに血潮を滾らせたのです。無感動状態を脱し、心を烈しく揺さぶられて。コウ様のお姿、お声、仕草のひとつひとつに魂を惹きつけられてなりません。貴方さまこそ、生涯を通じて仕えるべき我があるじでございます」
 アーシェルは語気を強めていった。虹はたじろぎながら、再び手を離そうともがく。
「だとしても、僕は王になりたいと思わないのですが……とにかく、手を離してください」
 アーシェルは手を離すと、思慮深い眼差しで見つめ返した。
「今はそう思われても仕方がありません。ゆっくりで良いのです。少しずつ、知ることから始めませんか? どうか私に、この国を案内させてください。私たちの暮らしを、コウ様に見ていただきたいのです」
 虹が躊躇いを見せると、アーシェルは済まなそうに微笑した。
「千年待てたのです。水晶の君にお会いできた今、何を急ぐ必要がありましょう。驚かせてしまい、誠に申し訳ありませんでした」
「いえ、僕の方こそ取り乱してすみませんでした」
 虹は気まずげに謝罪をした。
 感情の波が静まると、己の言動を思い返して恥ずかしくなる。取り乱して人前から逃げだしてしまうなんて、子供の頃以来だ。
「案内してくれるのはありがたいのですが、果たして僕に理解できるかどうか……」
「毎日少しずつ、知識を交わしましょう。私にもコウ様のことを教えてください」
 穏やかに微笑するアーシェルを見て、虹は照れくさげに視線を逸らした。
「……よくして頂いても、僕の決心は変わらないかもしれませんよ」
「コウ様がいてくださるだけで、十分です」
 彼は優しく笑った。
「のんびりしている間に、アーシェルさんのいう敵が攻めてくるかもしれない」
「何があろうと、必ずお守りいたします。数を減らしたとはいえ、我々は勇猛な戦闘種族です。そう簡単にやられたりはしません」
 アーシェルは自信に満ちた美しくも凛々しい笑みを浮かべた。清らかな光が、彼の裡からぱっと放たれる。
 虹は思わず見惚れてしまった。何をいっても甘やかされる気がして、弱音も引っこんでしまう。
 それにしても、戦闘種族とは意外だ。彼を見る限り、着飾って優雅に楽器でも奏でている方がよっぽど似合いそうなのに。
「ちなみに、繁殖ってどうやるんですか?」
 男同士のセックスの方法なら知っているが、それで繁殖できるとは思えない。それに先王は生殖器をもたなかったと話していた。
「我が“ファルル・アルカーン”よ。水晶ノ刻に行う“儀式”により、水晶核が誕生します。我らは皆、水晶核から生まれるのです」
 虹は、またしても奇妙な胸騒ぎを覚えた。
 豪奢であり蒼古であるしとね、横たわる白い裸身、性愛の営み……ここへくる際に垣間見た幻影が脳裏をよぎる。
「その、儀式ってどんな……?」
 アーシェルはじっと虹を見つめた。神秘的な碧の瞳に、じれったそうな焔が灯っている。
 奇妙な熱を孕んだ沈黙のあとに、アーシェルは意味深長な微笑を浮かべた。
「その答えを知るのは、まだ早い・・・・でしょう。時が満ちれば判りますよ」
 穏やかな口調だが、それ以上の追及を赦さない響きがあり、虹は口をつぐんだ。
「……えっと、じゃあ、水晶核はどんなものですか?」
「小指の先ほどの、丸い水晶珠です。我ら水晶族は、先ず核に宿り、核の熟成によって受肉するのです」
「ちょっと想像がつかないな……アーシェルさんも核から生まれたのですか?」
「はい」
「アーシェルさん、御幾つですか?」
「千年は過ぎました。私の世代の殆どは、前王の最後の水晶嬰児えいじになりますから」
 そんな馬鹿な――くちにしかけたが、彼の眸を見て飲みこんだ。
 彼の瞳は、とても深い色をしていた。過去数代の悲哀と悦び、奇跡を知る者の英知の眼差しだった。
「水晶族は年をとらないのですか?」
「幼少期を過ぎると我らは不老になりますが、不死ではありません」
「でも、心臓っていうか、水晶核さえあれば肉体は傷つかないのですよね?」
「水晶核が尽きない限りはそうですが、無尽蔵ではないのです。いずれ肉体は燐火と共に消え去り、役目を終えた水晶核だけが遺されます」
「その水晶核は、どうなるのですか?」
「大水晶環壁かんぺきに弔います。国の防衛機構であり、奥津城おくつきでもありますから」
「……大水晶環壁かんぺきって、確か貴金が攻めてくるのでしたっけ?」
「はい」
「どんな姿をしているのですか?」
「錬金術の蘊奥うんおうを極めた、全身に黄金をまとう四つ腕の種族です。内宇宙に飽き足らず外宇宙の支配をもくろみ、幾度となく大水晶環壁かんぺきに攻めてくるのです。彼奴きやつらとの攻防で水晶族は激減しました」
 そのとき、虹の脳裏に見たことがないはずの幻影がちらついた。
 金色燦然こんじきさんぜんたる神秘の種族。宇宙調和を乱す、破戒無慚はかいむざんな侵略者。貴金ではない。貴金族だ。
 なぜ知っているのだろうと疑問が芽生えたところで、正体不明の悪寒に襲われた。
「……会いたくはありませんね」
 ぶるっと震えた虹の躰を、アーシェルはそっと抱きしめた。
「何があっても、コウ様を御守りいたします」
 騎士の誓いめいた囁きに、虹は紅くなる。腰を少し引かせているところに、男としの事情と、虹に対する遠慮が感じられて、意外なほど好ましく感じられた。とくとくと心臓の鼓動が早くなると同時に、快い安らかさを感じる。
「そろそろ、御寝所にお戻りください。湯冷めしてしまいます」
 戻るしかないのだろう。そう思っても虹は、動かなかった。動けなかった。ただ黙って夜空を仰ぎ見た。
 宇宙そら天蓋てんがいが透けて見えるかのような夜空に、落ちてこんばかりの星屑が蒔かれている。
 渦巻く星雲状銀河に、名前はあるのだろうか? 満点の星空のどこかに、地球はあるのだろうか? あるとして、その輝きは何億光年昔の輝きなのだろう?
 神秘的な極光オーロラが揺れて、光の帯がひるがえり、また花開く。
 光の交響曲を見ていると、不思議な遊離の感覚があり、己の存在が宇宙に溶けていくのを感じた。
 日輪月輪にちりんがちりんつかさどる宇宙の御意があるというのなら、訊ねてみたかった。
 どうして虹を連れてきたのか。アーシェルのいうとおり、本当に水晶の王なのか。再び日本に帰れるのか、帰れないのか……
 最後に一縷いちるの願いをこめて、アーシェルを仰ぎ見た。
「帰る手段は、ないのでしょうか?」
「……水晶核の継承は、王が崩御されるとき、一度きりでございます」
「つまり、死ねば帰れる……?」
「水晶核は継承されますが、虹様の御命は、潰えてしまわれます」
「……」
 項垂れる虹の肩を、アーシェルは労わるように撫でた。
「私がお傍にいます。いつも、必ず……」
 虹は小さく頷いた。
「戻りましょう。今夜はもう、お休みください」
 抱きあげようとする彼に首を振った。
「大丈夫、歩けます」
「脚が汚れてしまいます」
「洗えばいいんです」
 アーシェルは少し困った顔をしたが、虹の意思を尊重して折れてくれた。恭しく後ろをつき従い、邸に戻ったあとは、湯桶と麻布を用意してくれた。
 新たな絹の寝間着をまとい、濡れた髪を拭きながら囲炉裏で火にあたっていると、虹は、どっと疲労が押し寄せてくるのを感じた。
「お飲み物をお持ちいたしましょうか?」
 気遣わしげにアーシェルが訊ねた。
「いえ、結構です。自分から飛びだしておいて何ですが、どこか空いている部屋で、休ませて頂けないでしょうか?」
「では奥のしとねに参りましょう」
 優しく促されて、虹は戸惑った。
「あの立派な寝室を、僕が使っていいのですか?」
「もちろんです。コウ様のための御寝所ですから」
「そうですか……」
「御用の際は“星を歌いし者タワ・ダリ”にお命じください。いつでもおそばに参ります」
 その言葉を受けて、にれの枝にとまっている緋と翡翠の鸚鵡おうむが、片翼を広げて優雅にお辞儀をする。
「はい」
 虹はやや緊張気味に返事をした。鸚鵡おうむの人間じみた仕草を見て、改めて異世界なんだなと思った。
 寝室に入ると、アーシェルに見守れながら、巨大なしとねに身をすべらせた。豪華すぎて、横臥おうがするのは少し気後れするが、もうへとへとだった。重労働した後のように、頭と躰が重たい。
 アーシェルは巨大な寝台の支柱にとめられた緞子どんすをほどいて、寝台を覆うように広げた。完全に閉じる前に、横たわる虹に優しく声をかけた。
「明日の朝、こちらに伺います。ごゆっくりお休みください」
 燭火をもらい受けてほのかな琥珀色に縁取られたアーシェルは、慈愛に満ちた天使のように美しく、とても優しく見えた。
「判りました。お休みなさい」
 重厚なとばりに覆われて、視界は真っ暗になった。
 夜は驚くほど静かだった。
 田舎と同じで、近所の生活音や車道の音は全く聞こえない。
 すると聴覚が冴え渡り、しんと静まりかえった寝室で、遠くの、淙々そうそうとしたかすかな水音が聴こえてきた。
(……なんでこんなことになってしまったのだろう……)
 霊験あらたかな草津温泉に、異星への扉が秘されていたとしか思えないのだが、アーシェルの話では、行き来できるような代物ではないという。
 前王の水晶核を継承し、この場所にやってきのだといわれても、その理法が判らない。
 感覚的に捉えようとしても、神の思し召しとも思えない、天罰という意識もなければ、恩寵を得たという気もしない。
 けれども、麗人のくちにした星々の予言や秘密の召喚を、ただのおよずれと切り捨てることもできない。今ここに虹はいるのだから。
 ながい異国の夜を、まんじりともせず考え続けるうちに、やがて思考もおぼろになり、精神疲労による深い眠りに就いた。