DAWN FANTASY

4章:一つの解、全ての鍵 - 9 -

 巨大な扉は開かれていた。
 ランティスは七海の肩を抱き寄せ、塔の外へ脚を踏みだした。七海も茫然としながら脚を踏みだし、扉のしきいを越えた。
 外だ。
 塔の外を歩いている。
 唖然呆然……振り仰ぐと、天まで届きそうな塔がそびえ立っていた。
 途方もない高さだ。
 仄青い光――解放された魂が、塔の窓という窓からこぼれて、天へと昇っていく。

“どうもありがとう”
“だしてくれて、ありがとう”
“助けてくれてありがとう”
“ありがとう……”

 無数の囁き声が天から降ってくる。
 なかには天に昇る前に、ランティスと七海の前にやってくる者もいた。彼等の輪郭線は、淡い月光が放たれているように輝いており、さながら月の精霊のようだった。

“ありがとう……”

 もしかしたら、ランティスの仲間なのかもしれない。背中に妖精の羽がある。
 互いを案じる、深く、想いのこもった視線が行き交う。
 傍で見ている七海も、これが最期の別れなのだと、目頭を熱くせずにはいられなかった。
 ランティスが七海の腕を撫でさする。月の精霊たちも、深い感謝のこもった眼差しで七海に淡く笑みかけ、やがて空に還っていった。
 勃初なる夜が明ける。
 群青から紫、濃いだいだいから琥珀へと色あいを変える空から、今日一番の朝の光が射しこみ、世界は光耀こうように包まれた。
 水晶の如く澄明ちょうめいな光が、宙に漂う塵埃じんあいを煌めかせ、七海とランティスを優しく照らした。
「朝日だぁ……っ」
 歓喜のあまり、涙が溢れそうになる。
 楡の木々の間で愛らしい駒鳥が囀り、梢を揺らしながら吹いてくる、やわらかい、露を含んだ、しっとりした涼風が、七海の頬を撫でていく。清々しい大地の香気、森の息吹が怒涛のように押し寄せてくる。
 世界が無限に拡がっている!
 感無量で、七海は、ありったけの感謝と敬意をこめて、ランティスを振り仰いだ。
 菫色の空を背景に、ランティスがとても柔和な表情でほほえんでいる。豊かでなめらかな白銀の髪が風になびいて、神々しいほどだ。
 澄み透った碧氷の瞳には、やわらかな光が浮かんでいる。今この瞬間の喜びと希望を、彼も感じているのだと判った。
「やりましたね、ランティスさん。とうとうでられましたよ。外ですよ、外! 大地ですよ……っ」
 語尾が潤んで、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。
 万感こもごも胸に迫り、言葉にならない――なにもかも、彼のおかげだ。極めて勇敢で、恐るべき魔法を操り、途方もない叡智をもちながら、寛容と優しさを兼ね備えた、偉大なる大魔法遣い。七海の大いなる庇護者にして救世主。
「七海、よく頑張りましたね」
 七海は驚いて目を丸くし、さしのべられた手をぎゅっと掴んだ。
「ランティスさん、言葉……っ!?」
 彼は悪戯めいた光を目に灯して、微笑した。
黄金塔ジルカヴェでは妖魔に阻まれて、言葉の魔術を貴女にかけらなかったのです。お互いに、随分と苦労しましたね」
 そういって片目を瞑ってみせる。不意打ちの親密な仕草にどきまぎさせられながら、七海は彼の言葉を胸のなかで反芻はんすうした。
「言葉、“本当だトリアート”……」
 そうしようと思えば、彼と同じ言葉を紡げる。
(くっ……この魔法が最初から効いていれば……っ!)
 今までの苦労はなんだったのかと、一瞬遣る瀬無い念に駆られたが、すぐに別の疑問が沸き起こった。
「ちょっと待ってください、妖魔って、彼女・・のこと? 彼女のせいで、言葉が判らなかったの!?」
 彼のる言葉で七海が訊ねると、ランティスは頷いた。
煉獄れんごくでも首級の妖魔です。黄金塔ジルカヴェの封印は弱まっていました。もしあれが塔の外にでていたら、此の世の終わりでした」
「此の世の終わり……」
「七海が救ったのです。寛大で聡明な七海。貴女は魂の救済者です」
「……それは貴方です。ランティスさん」
 そう呟いて七海が真っ赤になって俯くと、ランティスは優しい手つきで黒髪を撫でた。
「いいえ、七海。貴方ですよ」
 彼はしばらく七海の髪に振れていたが、ふと何かに気がついたように森の彼方に目をやった。
「……ここで少し待ちましょうか。もうすぐ迎えがやってくるようです」
 そういってランティスは、優雅に手を閃かせるだけで瀟洒な白い丸卓と椅子、大きな日傘を出現させた。
「迎え?」
 七海は小首を傾げた。
「私の同胞です」
 椅子を引かれて、七海はおずおずと腰を落ち着けた。同胞について詳しく訊ねようとしたが、目の前に湯気の立つ琥珀色の薬茶が顕れると、そちらに意識が向いた。
「……そういえば彼女・・に、飲むな、食べるなと何度もいわれました」
 器を見つめながら、七海は呟いた。
「少しでも護りを固くするために、私は七海が口にするものに、魔を祓う聖水を少量混ぜていました。七海に取り憑いていた妖魔は、それが気に食わなかったのでしょう」
 七海は驚いてランティスを見つめた。
「そうだったんですか?」
「ええ、霊芝茶には必ず入れるようにしていました。これもそうです。飲んでご覧なさい。以前とは違った風に感じると思いまよ」
 七海は琥珀色の液体を口に含み、ぴりっとした違和感がないことに驚き目を丸くした。
「美味しい……!」
 ランティスはほほえんだ。七海は途端に申し訳なくなり、頭をさげた。
「疑ってすみませんでした。実は、私……熱をだして寝こんだ時、ランティスさんに渡された薬を飲まなかったんです」
 罰の悪い思いで白状すると、ランティスは苦笑した。
「ええ、知っています。けれど貴女は、妖魔の幻惑に打ち克ったでしょう。立派でしたよ」
「ランティスさんのおかげです。助けてくれて、本当に、本当に、ありがとうございました!」
「お礼をいうのは私の方です。七海がいなければ私は死んでいました。貴女の素晴らしい勇気と献身に、千の感謝を捧げます」
 彼を救うためのあれこれを思いだして、七海は赤くなった。視線を泳がせてから視線を戻すと、青い瞳が楽しそうに笑っていた。
「……ランティスさんは、塔の封印をかけ直すために、この塔へきたのですか?」
「はい。現世うつしよに通じる境界の門を封じるためにやってきました」
「境界の門?」
「この土地には、疫癘えきれいの妖魔が棲む深淵と、現世うつしよを繋ぐ門が秘されています。遥か昔、私の祖先は門を封じるために塔を築き、世界樹ユグドラシルとなって護ってきました」
世界樹ユグドラシル?」
「妖精王ユトのことです。己の命と引き換えに次元の紐帯ちゅうたいとなり、妖魔を封じる護り手となったのです」
 ユトの子孫……黄金の封印……
 パズルのピースを当てはめるように、すべての符号がぴたりと収まって、ようやく全容が見えたように思えた。
「だから宇宙樹ユグドラシルは、子孫であるランティスさんを助けてくれたのですね」
「七海と私を助けてくれたのです」
 ランティスは穏やかに訂正した。
「そうですね! 私も助けていただきました。宇宙樹ユグドラシルもこれで安心して……もう封印が解かれることはないでしょうか?」
「ええ。今は、目くらましの魔術が敷かれていますから、邪な心を持つ者は、決して辿り着くことはできません」
 七海は安堵に胸を撫でおろした。
「それなら良かった……ランティスさんは、いつ黄金塔ジルカヴェにきたのですか?」
 ランティスはふと遠い眼差しをした。
「どうでしょう……塔のなかでは時間の流れが現世うつしよとは異なるのです。悠久を過ごしたように感じますが、正確な時の流れは私にも判りかねます」
「私には想像もつかないほど、長い時間なのでしょうね……さっきお礼をいいにきた妖精は、ランティスさんの知りあいですか?」
 ランティスは静かに頷いた。
「里の仲間です。私の前に黄金塔ジルカヴェに入り、魂を囚われてしまいました」
「……お気の毒です」
「ええ……だけど、ようやく解放することができました。これで良かったのです」
「本当にお疲れ様でした」
 座ったまま七海がぺこりと頭をさげると、ランティスの目が、ちらりと愉快そうに光った。
「七海はよくその仕草をしますね。魂の救済者は七海です。貴方という秘鑰ひやくがなければ、真の終焉を迎えていたことでしょう」
「そこですよねぇ……どうして私が、鍵を持っているのだろう?」
 七海は腕を組んで唸った。
「ユトの思し召しでしょう」
「思し召しかぁ……確かに、心当たりが一つありまして。私、子供の頃からよく落ちる夢を見るんです。幻想的な色彩を見ることもあって……今思うとあれは、宇宙樹ユグドラシルきらめきだったのかなぁって」
 その時、思考を鳥瞰ちょうかんする感覚に襲われた。
 無数の星が煌めく大宇宙のなか、自分の躰が漂いだしたように思われた。何千年――何万年――前々々々々さきさきさきさきさき……生から、あの不思議世界を瞥見べっけんしていたような、浮遊していたような気がするのだった。
「封印が弱まりつつあることを懸念して、世界樹ユグドラシルは鍵を七海に隠したのですね」
「……私、あの最初の場所で、彼女の声を聞きました。はじめは、私をここへ呼んだのは彼女だと思っていたけど……違うのですよね」
「ええ、七海をここへ導いたのは、ユトの意志です。世界樹ユグドラシルはあらゆる世界に通じています。七海は精神乖離かいりしやすい性質のようですし、接続しやすかったのかもしれません」
 七海は静かな驚愕に浸された。
 何度も見た落ちる夢……
 夢は通路かよいじという。七海の夢をとおって、宇宙樹ユグドラシルが顕れたのかもしれない。
 七海が世界の秘鑰ウテ・カ・エリキサなら、あまねく大宇宙、数千億光年さえ飛び越えて、地球のある天の川銀河への扉をも開けるかもしれない。
 漠とした期待が膨らむ一方で、それは難しいだろうという諦念も湧き起こった。
「……」
 掌をじっと見つめる。
 一見すると、なんら変哲のない掌だ。けれども、自分の躰に流れる血と遺伝子の変化を意識せざるをえなかった。
(仮に地球に戻れたとして、私はもう……)
 中国古事の邯鄲かんたんの夢のような、精神作用における話ではなく、恐らく、物質的に変化してしまっている。
 七海を形成する連綿と受け継がれてきた遺伝子の一部が、彼女・・という異界の妖魔に触れて、或いは世界樹ユグドラシルに鍵を託されたことによって、この世界に適合するべく上書きされてしまった。
 今まで生きてきた七海と同じとはいいきれない。地球に戻れたとしても、肉体が耐えられる保証はないのだ。
 ヘラクレイトスの唱える万物流転パンタ・レイ。或いはダーウィンの進化論のように、超自然および人に絶えず起こる緩やかな変転が、七海のなかで超新星爆発の如く起きてしまったのだから。
 それとも、時間をおけば、新たな視点を得られるのだろうか?
 思考の日進月歩。生々流転しょうじょうるてん。アルベルト・アインシュタインの言葉を拝借するなら“あらゆる問題は、それに気づいた時と同じ意識レベルでは解決できない”だ。
「……七海。ずっと気になっていたのですが、“ムサシ”というのは、誰ですか?」
 ランティスは遠慮がちに訊ねた。
 物思いに沈んでいた七海は、顔をあげてまじまじと彼を見つめた。
「武蔵を知っているのですか!?」
「いいえ。ただ、七海は眠りながら、その名前を時々口にしていましたから」
「えぇ? 私、寝言いってました? やだぁ、恥ずかしい……」
 七海は照れくさげに髪を撫でたが、どこか緊張したような面差しで聞いているランティスを見て、笑みかけた。
「武蔵は、実家で飼っていた芝犬です。大事な家族なんです」
 七海にとっては弟のような存在で、武蔵といる時がいちばん笑顔になれた。
 懐かしく思いだしながら七海が笑うと、ランティスは虚をつかれた顔になり、くすっと微笑した。
「……そうでしたか。謎が解けました」
「謎?」
「貴女は私の髪を編んでくれたり、私にも髪に触れることを赦してくれるのに、ムサシという想い人が心に棲んでいるのかと随分嫉妬させられました」
 嫉妬?
 七海はぎょっとしてランティスを見つめた。瞳は面白がるような光を湛えている気もするが、冗談をいっているようには見えなかった。
「違いますよ、武蔵はそういうんじゃありませんからっ」
 七海が力いっぱい否定すると、ランティスは小さく微笑した。
「判っています。最初はともかく、ムサシより想われている自信はありましたから。七海が、髪を結う意味を知らないのだということも」
 七海はどきっとした。
「えっと……髪を結うことに、どのような意味が?」
 彼の銀髪にこれまで幾度触れたかしれない。ふざけて三編みにしたことも、花を挿したこともある。彼は怒った様子ではなかったが、もしかしたら、非常識な行為だったのだろうか?
 ランティスは七海の髪に触れながら、甘くほほえんだ。
「髪に触れるのは愛情表現です。特に髪を結う行為は、伴侶間でしかいたしません」
「えっ」
 七海は赤くなった。今も撫でられているのだが……これはいったい……意識すると、平静でいられなくなる。話題を変えようと、七海は思い切ってランティスの目を見つめ返した。
「あの、私他にも何か寝言をいっていましたか……?」
 碧氷の瞳に面白がるような光を見た気がして、七海は慌てて手を振った。
「やっぱりいわないでください。全部忘れてください。やだもう、恥ずかしい……」
 どう表情を繕えば良いか判らず、七海は両手に顔を沈めた。くすくすと微笑が聞こえて、おずおずと顔をあげる。からかわれると思ったが、その目の表情に息を奪われた。一瞬ですっかり魅了されてしまった。
「心配しなくても、かわいらしい寝言ばかりでしたよ。眠っている七海は、無垢であたたかくて、清らかな雨のように私を癒してくれました」
 愛情に満ちた眼差しでそんな風にいわれて、七海は真っ赤になった。
(あ、甘い……! ランティスさんって、こんなこという人だったんだ)
 不意に、卓に置いた手を握られた。それだけで躰に電流が走ったように感じて、胸が高鳴る。
「もうすぐ、同胞たちが迎えにやってきます。皆に七海を紹介したいのですが……恋仲だと説明しても良いでしょうか?」
「えっ……」
 七海はまじまじとランティスを見つめ返した。