DAWN FANTASY

4章:一つの解、全ての鍵 - 6 -

 薔薇の苑に黒い扉が顕れた時、七海には、これが最期の試煉になるだろうという予感があった。
 七海はランティスの目を見て頷いた。彼が扉を開くと、その先には、闇へと続く隧道ずいどうが続いていた。
「七海」
 さしだされた手を七海がとると、ランティスは杖で先を照らしながら、慎重に歩き始めた。
 空気はひんやりと冷たく、ぴちょん、と水が垂れる音が時折聞こえてくる。
 一度通ったことがあるので、この先に死者の街コプリタスがあることは判っているが、それでも冷酷な奈落の底に向かって歩いているような気分をぬぐえなかった。
 お互いに言葉もなく進んでいき、やがて暗闇を抜けた時、眼前に拡がる景観を見て七海は困惑した。
 うえもしたも判らぬ一望てしない暗闇のなか、無数の蛍火のような、青い光が漂っている。
ここイツ**コプリタス**、トリル**沈むコタユ******……」
 不得要領に頷く七海を見て、彼は杖から明るい光芒を放ち、あたりを照らした。
「あっ!」
 街は、水のなかに没していた。
 青い靄が漂うなか、時計塔や教会の尖塔だけが、かろうじて水面から突きでており、往来しげき露店も人も、橋も全部水没してしまっている。
「そんな……何があったの?」
 七海は戸惑ったように呟いた。
 水面には、禍々しい空気がわだかまっていて、うなじがぴりぴりするのを感じる。
 蛍火の動きは不規則で、水没した街の上を混乱しながら徘徊しているみたいだ。あれはもしかしたら、いき場をなくした霊魂なのだろうか?
 そう思った矢先、勃然ぼつぜんと猛烈な水飛沫があがった。
 硬直する七海を、ランティスは素早く抱き寄せた。杖をかかげて魔法防壁を張り、降り注ぐ冷たい碧水へきすいを防いだ。
 七海は言葉も忘れて唖然となった。
 水面から顕れたのは、信じられないほど巨大な怪蛇かいだだ。
 おぞましい、銀色の鎌首をもたげ、黒い眼窩がんかから血のように紅い虹彩で二人を睥睨し、シューッ、シューッ、と威嚇めいた唸り声を発している。

“ナナミ……待っていたわ……”

 深淵の呼び声ともいうべき暗黒の眩惑が、七海を搦め捕った。
彼女・・なの?)
 吟味する間もなく、耳をろうする驚天動地の轟音と共に、巨大な風浪ふうろうが突如眼前に顕れた。
 狂奔する津波だ。あれに飲みこまれたらひとたまりもない。
 ランティスは七海の肩を抱き寄せ、緊迫した声でこういった。
「イムイム」
 一瞬何をいわれたのか判らなかった。イムイム――確か七海が高熱で寝こんでいた時、彼が看病してくれて“あーん”を――
 理解すると同時に口をぱかっと開けた。と、口のなかに手巾をつっこまれて、むせそうになる。
「んぐっ!?」
 抱きしめられたまま、腕のなかで強張った一刹那、巨大な衝撃が二人を襲った。
 ランティスの張ってくれた不可視の防壁が、その衝撃の大分を和らいでくれたとはいえ、ふたりが立っている楼門を飲みこむ大波に、全身を揺さぶられた。ランティスが抱きしめてくれていなかったら、吹き飛ばされていただろう。そして全身を揺さぶる衝撃に、手巾をまされた意図を悟った。舌を噛まぬようにしてくれたのだ。
 やがて波が引いて、濡れて光る石床が顕れた。
 辺りはしんと静まりかえって……不気味な呻き声が聞こえてきた。
 口に入れていた手巾を折りたたみながら、七海は耳を澄ませ、次の危険に身構えようとした。
 呵々嬉々かかきき。はっとなり下を見ると、地獄の悪鬼共がケタケタ笑いながら、水底から壁をよじ登ってこようとしている。
「ひ……っ」
 身の毛も弥立よだつ恐怖に、七海は仰け反った。動悸も烈しくなり、息をすることもままならない。
「*****、*****」
 ランティスは杖をかざして聖文句を唱えるや、大火焔を起こした。紅蓮大紅蓮の苛烈な炎は一気呵成いっきかせいの勢いで悪鬼共を飲みこんだ。
“ギャアアアァァァァァァァァァッ”
 身の毛もよだつ絶叫を迸らせる。
 呆気にとられる七海の視界から、屍は黒炭化して、塵となって消えた。
 まさしく悪夢の畜殺場だ。たったの一瞬で、彼は信じられないほどの亡者を消し去ってしまった。
 七海は怖くて膝が震えそうになるが、せめてランティスの邪魔にならぬよう、倒れまいと両脚に力をこめた。
「七海、***ここイツ待っていてゼノ*****」
 そういってランティスは、壁龕へきがんを蹴った。
「あっ!」
 七海は咄嗟に手を伸ばしたが、間にあわなかった。彼が落ちてしまうんじゃないかと危惧したが、そうはならなかった。
 戦闘に長けた魔法遣いは、短く瞬間移動を繰り返して、うねる蛇腹を飛び越え、蛇の頭へ近づいていく。
 そうはさせまいと、天から地へ、地から天へ、幾つもの水の竜巻が勝鬨かちどきのごとく荒れ狂い、ランティスに襲いかかった。
 だが彼はたくみに避けて、少しずつ確実に近づいていく。
「シャアァァッ」
 カッと開いた口から、苦痛の咆哮があがった。
 怪物はきっとなり、凄まじい敏捷さで鎌鼬かまいたちのように襲いかかった。その首筋に、ランティスの放った氷の剣が突き刺さっている。
 傷口のあたりは紫に変色しているが、怪蛇かいだは怯む様子もなく、かえって猛々しさを増したように見えた。
「ランティスさんッ」
 恐怖が全身を駆け抜け、七海のはらわたを締めつけた。
 無理だ。あのような怪物を倒せるはずがない。
 彼の力になれたらいいのに、ただ息をつめて、震えることしかできない我が身が情けなかった。
 巨大な蛇の頭が高く伸び、対峙するランティスの上に覆いかぶさった。毒液を滴らせる口をかっと開き、かぶりつかんとする、刹那!
 ランティスは魔法で氷の剣を生みだし、襲いかかる頭を下から突きあげた。その切っ先は下顎を貫き、上顎に突き刺さった。
「シャァアァァァァッ!」
 苦痛を帯びた怒りの咆哮が轟く。
 蛇は巨体からは想像もつかぬ俊敏な動きで、強大な胴でランティスに絡みついた。
「ランティスさんッ!」
 骨を砕かんばかりの巨大なとぐろに押さえつけられ、そのままねじ倒されるかと思われたが、そうはならなかった。
 彼の躰は神秘の青白い燐光をまとい、巨大な蛇腹じゃばらを焦がした。
「シャアァァッ!」
 怒りと苦悶の悲鳴をあげて、大蛇がのたうつ。全身の鱗を異妖な燐光できらめかせ、その光輝が目を眩ませる。
「何っ!?」
 視界が見えず、七海は焦ったように叫ぶ。氷結音と吠え猛る声が聞こえて、二人の死闘は今なお続いていると判る。
 閃光がおさまり、七海がどうにか目を開けた時、ランティスは最後の攻撃を加えようとしていた。疾風はやてのごとくとぐろのなかに突入していく。
 危険を察知した怪蛇かいだは、けたたましい飛沫と共に、水面下へ逃げた。
 ランティスは攻撃の手をゆるめず、千もの氷の槍を水面へと放った。
 まるで氷の大空襲だ。泉のいたるところ、無数の飛沫を跳ねあげ、凄まじい轟音を響かせる。これでは水にもぐった蛇も逃げようがない。
 壮麗なる魔法攻撃がやんだあと、飛沫はおさまり、全ての音が消えた。
 不気味な、邪悪な凪が満ちる。
 まだランティスは闘いの構えを解いていない。宙に浮いたまま、水面を睥睨へいげいしている。
 七海も息をつめて水面に目を凝らした。
 彼女・・が、これで死んだとは思えなかった。尋常ならぬ不気味さ、ただならぬ気配……身を潜めた怪蛇かいだが、息を殺して獲物を窺っているのではないか?
 緊迫した静寂は、凄絶な水飛沫と共に破られた。
 大蛇が勢いよく水面から顔をだし、地獄の深淵から押し寄せる、悪疫あくえき大海嘯おおつなみと共に驀進ばくしん
 宙に浮かぶランティスを、巨大な口が呑みこんだ。
「いやあぁッ!!」
 七海は、頭のなかで彼女・・に声をかけた。
(もうやめて! ランティスさんに手をださないでッ!)
 躰の裡で、熾火のような魔がざわめくのが判った。彼女に聞こえているのだ。

“トビラ ヲ ヒライテ……”

 混沌こんとんが答えた。
 吐息が触れそうな、不思議な錯覚がした。一種心が通じあったような、七海が暗黒を、彼女・・を覗きこめば、彼女・・もまた七海をじっと見つめた。
(扉を開いて?)
 理解した瞬間、七海は精神感応を断ち切った。
「――だめよ! できない! ランティスさん、ランティスさん返事をして!」
 魂の限りに叫ぶと、迸るような怒りが伝わってきた。

“ナナミィィィッ!!!”

 大蛇が憤怒の咆哮をあげる。
 全身の鱗が赤黒く変色し、昏い配色のなかで、朱金の瞳だけは、狂気を宿し、かくと燃えていた。
 絶対絶命と思われた時、胴から光のが放たれた。
 ランティスがふるう魔法の杖の放つ雷霆らいていの威力たるや凄まじく、胴を真っ二つにして、なかからランティスが顕れた。
「シャアァァアッ」
 蛇が怒りともつかぬ激痛の悲鳴を迸らせる。
 激しくのたうつ胴に、氷の鞭がふるわれて、細かく輪切りに粉砕していく。
 ついには邪悪な心臓が切り裂かれ、怪蛇かいだの悲鳴もかき消えた。正体不明の肉片となり、水面に没するのだった。