DAWN FANTASY

3章:囁きと庇護者 - 1 -

 暗い洞窟の先に点のような光が見えるが、七海は及び腰だった。
「ここを通るんですか……」
「****、七海」
 ランティスはへっぴり腰になっている七海の手を掴んで、歩き始めた。
 隧道ずいどうはひんやりとしていて、ぴちょん、と水が垂れる音が時折聞こえてくる。七海はランティスにひっついて始終びくびくしていたが、幸いにして蝙蝠にも虫にも脅かされることはなかった。
 暗闇を抜けた時、そこには驚くべき光景が広がっていた。
 壁に穿たれた巨大な円型の採光窓……不可思議な大気のレンズ仕掛けから陽が射して、水のうえに築かれた巨大都市を浮きあがらせている。
「街だ――……」
 七海は感嘆の声をあげた。
 蔓草の這いあがる緑と渾然一体となった、石の都市である。
 泉に浮かぶ蔓や城壁には、微細な不整形の六角水晶が煌めいて、幻想的な光をかもしている。
 周囲を泉に囲まれた都市から、細く長い橋が一本伸びており、どうやら出入り口はそれだけのようだ。
 橋の前に、なにがしかのしるしの石が立ててあるが、残念ながら七海には読めなかった。
歩いてプリパ
 と、軽く手を引っ張っられて歩き始めたものの、七海は目に映る全てに興味を惹きつけられずにはいられなかった。
 舗石の小路の左右に水路が敷かれ、透度の高い水が流れている。石柱の上部からも水路から引いた水が放たれ、橋の下の泉に流れ落ちている。
 壮麗で美しいが、塔のなかにあるという事実があまりに異質で、不気味さも感じてしまう。
 光の射す側は琥珀に輝き、その反面は泉の仄青さに染まって薄暗く、琥珀と青の対比が、この都市の混沌と明暗を物語っているように見えるのだ。
 不意に、ぴちゃんと水の跳ねる音がして、七海は橋の傍に寄った。
「七海」
 咎めるような声に呼ばれたが、どうしても好奇心を抑えられなかった。
「少しだけ」
 そういって橋の下を眺めおろした。
 清冽せいれつな水面に、静かに波紋が拡がっていく。魚が泳いでいるのかと思ったが、くねくねと動く陰影は、どうやら蛇のようだ。
 くねくね、くねくね……蠢いている。蒼い闇の水底の方まで……?
 目を凝らして、はっとした。
 おびただしい数の蛇が蠢いているのだと気がついた瞬間、背中を刷毛はけで撫でられたような錯覚がした。
「ぃやだっ」
 七海は顔をあげると、ランティスの傍に舞い戻った。そらみたことかというように、ランティスはちらりと視線をよこした。
「うぅ、見なければ良かった……」
 呻くように呟くと、今度は慰めるように背を撫でられた。知っていたら見なかったのにと後悔するが、自業自得である。
 気を取り直して橋をまっすぐ進んでいくと、門の左右に槍を持つ衛兵が立っていた。
 七海は緊張に強張ったが、衛兵は、二人を呼び止めることもなく直立している。
 彼等の傍を通り過ぎる時、七海はこっそり衛兵の顔を覗き見ようとした。けれども、目深に被った帽子が顔に陰影を落としていて、その表情は判らなかった。
 大門の内側には、精神感応テレパシーで視た通りの街並が広がっていた。
 全ての建物は、巨大な石を積みあげられて築かれている。どの石も見事な多角形に整形され、幾何学的精密さで構築されている。
(すごい……人工物なんだろうけど、人工物に見えない……)
 塔のなかに、一大都市が築かれ碧空を拝める不思議空間。
 石の魅力に溢れた町並みと雑多な人の熱気、情報量の多さに圧倒される。
「コプリタス*****」
 ランティスの言葉に七海は頷いた。疲れ切った躰に、溌溂とした暖かな希望が注ぎこまれるのを感じる。
 不意に、澄んだ鐘の音が、紺碧こんぺきの空に溶けこんだ。
「時計塔だ」
 音がする方を仰ぎ、七海は脚をとめた。するとランティスも時計塔を仰いだ。
「*****、*****」
「……ランティスさんは、前にもここへきたことがあるんですよね。ここは安全ですか? 大丈夫?」
「*****、********……危険ヤドラ
 七海は口元を引きつらせた。平和そうに見えるが、何か危険なことがあるのだろうか?
(……人が住んでいるんだから、少なくとも怪物はいないわよね?)
 すれ違う人々の多くは、ランティスを見て会釈をしたり、帽子を脱いでお辞儀をしたりする。彼に敬意を抱いているようだった。
 一方、ランティスは格別の感慨もなさそうに、涼しい顔をしている。彼が愛想笑いの一つも返さないので、七海の方がはらはらさせられるほどだった。
(意外すぎる……)
 てっきり彼は、誰に対しても、紳士で親切なのだろうと勝手に思っていた。少なくとも、七海に対しては出会った時からそうだから。
 けれども、今はまるで他人に関心がないように見える。思慮深く冷静沈着な人だとは思っていたが、この淡々とした態度こそ、彼の素の表情なのだろうか?
「あっ」
 通行人と肩がぶつかり、よろける七海の肩を、ランティスはさりげなく抱き寄せた。
「七海、ダイジョウブ?」
「すみませせん、大丈夫です」
 離れようとしたが、ランティスは肩を抱いたまま歩き始めた。他人に関心がないのだとしても、やはり七海にはとても親切だ。
(――調子に乗らないことよ、七海。私が特別なわけじゃなくて、単にここの人たちが好きじゃないのかもしれないし)
 不意に湧き起こったうぬぼれた意識を、七海は秒で封殺した。
 それにしても……周囲を見回して、七海は思わず感嘆のため息をもらした。
 楼門に通じる往来しげき通りの左右に、ずらりと露店が並んでいる。
 檸檬や肉といった食料品から、胴の鍋、剣や防具などを売っている商売人たち。檸檬や蜜蝋、焼き立ての香ばしい麺麭パン、様々な香料の匂いと、様々な色彩で溢れかえっている。
 露店前で脚を止めているのは、長身巨躯の男が多い。いかにも冒険者風情で、革鎧などの武装に身を包み、腰や背には長剣や弓といった武器を携えている。なかには三メートルはあろうかという背丈に、緑色の肌という人間離れした巨人もいる。
 ランティスは決して小柄ではないが、筋骨逞しい巨躯にまじると、とりわけ細身に見えた。いかにも無頼漢といった強面が並ぶなか、優雅で嫋々じょうじょうとしている。
 どちらを向いても、彼ほどの麗人は見当たらない。なかには整った顔立ちの人もいるが、ランティスは群を抜いている。
(うぅ、並んで歩くの気まずい……)
 顔から火がでるような気分だった。スリムで美しい女性を見ると、自分が普段にもまして小肥りに感じてしまう。
 誰もランティスに声をかけようとしないが、疎んじているのではなく、むしろ畏敬と憧憬の念から、おいそれと声をかけられないようだった。
(やっぱりランティスさんはすごい人なんだ)
 おじけづいた七海がランティスから少し距離を置こうとすると、彼はすぐに気がついて手を掴んだ。
気をつけてアラム ヤドラ
 案じる色の滲んだ碧氷の瞳に見つめられて、七海は困ったように頷いた。
 行き交う人々にじろじろと値踏みするような目で見られて、フードを被っているにも関わらず、七海はすっかり服を脱がされたような気分になってしまった。
 手を引かれるがまま歩いていると、ランティスは往来に並ぶ店の一つに入った。
 女性用の衣装店である。様々な絹や上等な衣装が飾られている。ランティスはおもむろにそのうちの一つを手にとると、七海にあてがってみせた。
「えっ、私?」
 七海は驚いて、綾織絹シュラーのワンピースドレスとランティスの顔を交互に見比べた。
「********」
「ランティスさん、私は何もいりませんから」
 首を振るが、彼は店員を呼び寄せ、七海の採寸を始めさせてしまった。確かに素敵な衣装だ。真珠のような艶やかな深緑色で、ハイウエストの縫製も好みだが、一体いつ着るのだろう?
 だが狼狽える七海をよそに、ランティスは店員と話を進めて、絹の寝室着やイブニングドレス、瀟洒な靴、肌着など身の回りのものをあれこれと買い揃え、まとめて異次元に収納した。
 ちなみに便利な収納魔法は誰にでも出来る芸当ではないらしく、道行く人々は皆、鞄や荷袋を持っている。手ぶらで買い物をしているのは、ランティスくらいである。
 彼が標準というわけではなかったのだ。七海だけでなく、この世界の人にとっても、ランティスという人は超人らしい。
 彼は自分のものはそっちのけで、七海のものばかりを買い求めた。そうして幾つかの露店や商店をのぞいたあと、時計塔の鐘が鳴り響いた。
 七海とランティスはそろって空を仰ぎ見た。
 彼時かれどき逢魔おうまが時。
 塔の壁面に開いた大窓から黄昏の陽が射しこみ、街の側面を黄金こがね色に染めている。
 厳かな深い鐘の音色は、どこか陰鬱いんうつを孕んで、黄昏れていく町並みに響き渡る。
 耳を澄ませていた七海は、不意にぎくりと強張った。人波にまぎれて、薄霞のような人影が見えた気がしたのだ。ぞくっと背筋が冷えて、ランティスの腕にすがりついた。
「七海?」
 返事をする余裕はなかった。心のなかに確かな恐怖が芽生え、黒雲のように広がっていく。

“気をつけろおおおぉぉぉぉぉそいつ・・・はあああぁぁぁぁ危険んんんん……”

“寒いぃぃぃぃ寒いよぉぉぉぉぉぉだしてよぉぉぉぉぉぉ”

“欲しいいいぃぃぃぃぃぃおくれよおぉぉぉぉぉぉ心臓おおおぉぉぉぉ……欲しいいぃぃぃぃぃぃ”

 呪詛のような狂気じみた“声”は、雑然とわけの判らないことを喋っていて、内容は釈然としない。もはや幻聴では生ぬるい怒鳴り声のようだ。
 遮断したくても、無数の声は液状になって鼓膜の奥深くにまで流れこんでくる。
 平穏な町に見えたのに、これまでの怪異は比較にならないほどの、禍々しく兇悪な磁場を感じる。
「ランティスさん、この街なんだか……」
 立ち止まった七海の手を、歩きなさい、というようにランティスはそっと引いた。

“ナナミ……その男を信用しないで……貴女は■■なのよ。彼は貴女の心臓を狙っているの……早く逃げなさい……”

 彼女・・だ。
 ところどころ、聞こえない言葉も混じっているが、無数の囁き声のなかで、彼女の声は誰よりもはっきりと聞こえる。
 あまりにも明瞭に聞こえてしまうので、遮断することができない。考えるなといい聞かせても、考えてしまう。
 これはやはり、七海の深層心理の発露なのだろうか?
 口では感謝しておきながら、心の奥底では、彼の親切や誠実さを疑っているのだろうか?
(――やめなさい、そんなことを考えるのは。信じると決めたのでしょう)
 疑念をねじ伏せるには、多大な気力を要した。せっかく軽やかな気分でいたのに、落陽と囁きと疲労のせいで、憂鬱な気分に襲われてしまった。
「******。******……」
 ランティスは空を仰ぎ見て、警戒の滲んだ声音で囁くと、七海の肩を抱いて早足に歩き始めた。