DAWN FANTASY
3章:囁きと庇護者 - 2 -
辺りが薄暗くなった頃、七海とランティスは三階建ての旅館にやってきた。
蔦の絡まる古色蒼然 とした屋敷で、内装も前世紀を思わせる古風な調度で溢れていた。
玄関広間の白壁は、薔薇を模 した石膏 細工で飾られており、床には色の褪 せた毛織物が敷かれて、天井から垂れさがる円環照明が仄かな琥珀色に照らしている。
受付にはこの屋敷の主人と思わしき上品な風采 の、五十がらみの男が立っていた。痩身を黒天鵞絨 の古風な礼装に包みこみ、灰銀髪をきっちり後ろへ撫でつけ、鉤鼻 に銀縁の片眼鏡 をかけている。
主人は恭しく頭をさげたあと、七海の顔を舐め回すようにじろじろと見た。
居心地悪く強張る七海の肩を、ランティスは護るように抱き寄せると、冷ややかな厳格さで主人に何かを命じた。
「*****すみません 」
謝罪と共に主人が頭をさげる。彼は真鍮の鍵をランティスに差しだすと、呼び鈴を鳴らした。
ややして奥にある控え室から、黒と紫のお仕着せを着込んだ青年が、手燭を持って顕れた。
陰気な青年は、目をあわせることもせずに深々と辞儀をして、何もいわずに、ランティスと七海を先導して歩き始めた。
彼の後ろを歩きながら、七海は物珍しげに建物を眺め回した。
全体的に薄暗く、廊下の奥にある応接間や食堂も真っ暗で、燭台の灯が幽 かに漏れている。
階段の片側は吹き抜けの窓になっており、琥珀繻子の緞帳 が豊かな襞 を作ってかけられている。
壁には、幾つもの絵画や肖像画の額がかけられていて、二階の踊り場の隅に、天井から吊るされた金籠と、その真下の水槽で鰻 のような細い魚が泳いでいた。
なんとも奇妙な構図だった。
黒い小鳥は、水槽の魚を狙っているように止まり木で凝 っと眺めおろしているし、魚の方も鳥を狙っているかのように、水槽から顔を覗かせている。
無言の対決だ。勝負になるのかも判らないが。
「七海」
水槽を眺めていた七海は、ランティスの声に我に返った。
さらに階段を登っていくと、三階に続く階段の壁に、大きな金縁の鏡がかけられていた。
どうも厭な気がして、漠とした陰気の漂う鏡を、七海はなるべく視界に入れないように気をつけた。歩くたびに床が軋むので、なるべく足音を忍ばせて歩きもした。
三階に着いた。廊下に年季の入った八角時計がかけてある。文字盤は読めないが、明らかに十二以上ありそうだった。そういえば、この世界の時間はどうなっているのだろう?
疑問に思っているうちに、廊下のつきあたり、重厚な扉の前にやってきた。
隅に女性の石像の入った神龕 が置かれてあり、蝋燭が灯されていて仄明るい。
青年は恭しく扉を開くと、閾 のところで立ち止まり、ランティスと七海が部屋に入るのを見守った。
「*****……」
ようやく口をきいたと思ったら、あまりにも小声で殆ど聞き取れなかった。辞儀をして、とても静かに扉を閉めた。最後まで不気味な青年であった。
陰鬱な荘厳さに萎縮していた七海だが、部屋を見回して、目を輝かせた。
多少陰気ではあるが、掃除は行き届いているようだ。上品でノスタルジーな香りがする。
黄牙 の壁に、品の良い樫材の調度が相性よく、いずれも蜜蝋で磨かれて艶々とした光沢を湛えている。
真珠を象嵌された紫檀製の丸卓に、色の褪せた紅い天鵞絨 張りの椅子が配置され、卓には一輪の薔薇を飾った青い硝子の花瓶がある。
寝室は二つあり、四柱に支えられた天蓋のある胡桃材の寝台が鎮座している。念願のベッドである。
それから洗面台には、鼈甲 の櫛 や香水、化粧水の瓶が常備されており、七海は深く、深く感動した。
浴室の床は、釉薬 を刷 いた様々な色合いの青い陶土タイルで勾配がつけられており、真鍮の浴槽の底孔を開けると、湯が流れる仕組みになっている。
(お風呂だぁ~……)
七海は目を潤ませた。
一体、何日ぶりだろう?
奇跡の魔法 には感謝しているが、風呂が恋しかった。熱い湯船で脚を伸ばせたら、どれほど心地良いことだろう。
「ランティスさん、お風呂があります。お風呂」
七海が浴室を指さして笑みかけると、ランティスは傍にやってきた。
「****、モスチア」
「モスチア? お風呂のことですか? 入っても良いでしょうか?」
両手を胸の前で組みあわせて、上目遣いにお願いすると、ランティスは幽 かに微笑した。
「どうぞ 」
彼は浴室のなかを検め、燭台に火を灯し、硝子製の蛇口をひねって熱い湯をだした。
「ジョア……温かい 、温かい 、湯 ****、水 ********」
どうやら、とても温かい――熱湯がでる仕様のようで、湯と水を自分で調節するようだ。
「判りました。温かい 湯 を、水 で混ぜるのですね」
手でかきまぜる仕草をすると、ランティスは頷いた。
「よくできました 」
七海は会心の笑みを浮かべると、さっそく湯を張り、いそいそと浴室に閉じこもった。
夢にまで見た風呂である。薔薇の花びらの入った固形石鹸に柔らかな麻布、いい香りのする扁桃油 まで常備されている。
丁寧に躰の隅々まで洗い、全身を石鹸のいい香りに包まれると、柑橘系の入浴剤を溶いた湯船に身を沈めた。
ちゃぷん……湯の滴 る音が心地よい。
蜜蝋の優しい明かりに白い湯気が照り映えて、なんとも幻想的な癒やしの空間を醸 している。
七海はすっかり湯の虜 になって、しばし目を瞑って優雅な気持ちに浸った。極楽気分。このまま時を忘れそうになる……
“くるぞおおぉぉぉぉぉおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ”
突然、怒号が聴こえた。七海は目を開けると、慌てて浴槽の縁を掴んだ。
「何ッ!?」
照明がじじ……っと明滅して、洗面台の燭台の火が、風もないのに不自然に揺らめいた。
「ぃやだっ」
ぞっとして、慌てて浴槽をでた。麻布をひっ掴み急いで躰を拭くと、買ってもらったばかりの優雅な寝室着に着替えた。思った以上に胸元が開いていることが気になり、顔をあげて壁にかけられた鏡を見ると、背後に黒い影が映りこんだ。
「ひっ」
思わず、転がるようにして浴室を飛びだした。窓辺に佇むランティスを見て、安堵に胸を撫でおろすが、声をかけるのは憚られた。
彼は、窓に硝子の器を置き、瓶から透明な液体を注いでいるところだった。
(何しているんだろう……?)
呪 いの儀式めいた様子を見守っていると、彼は全ての窓に器を具え、扉に小瓶の中身、透明な液体を振りかけた。祈祷めいた文句を唱えると、把手に紅珊瑚の数珠をかける。
次に部屋の中央へいき、屈みこんだ。指先で床に文様を描くと、仄かな白光が一瞬浮きあがり、ふぅっと消えた。
ようやく立ちあがると、神妙にしている七海を見やった。
「ランティスさん、もしかしてこの部屋、でる んですか?」
七海は両手を軽くあげて、おばけの仕草をしてみせた。
「****?」
世界共通のジェスチャーだと思っていたが、彼には通じなかったらしい。小首を傾げている。
「うぅ、怖い……」
先程の風呂の件といい、この部屋は呪われているのかもしれない。違う部屋にしてほしいが、それで解決するかも不明だ。
どこからか陰鬱な鐘の音が聴こえてきて、いっそう七海を驚かせた。
「びっくりした……時計塔?」
恐る恐る窓辺に近づこうとする七海の肩を、ランティスはそっと押さえた。
「******」
「え? 近づいたらいけませんか?」
ますます不安になるではないか。背筋がぞくりとして、七海はショールを胸の前でかきあわせた。
ランティスは七海の濡れた髪を見て、徐 に手を伸ばすと、小声で呪文を唱えた。
途端に淡い光の粒子が燦 めいて、七海の頭を暖かな風が包みこんだ。髪に触れると、さらさらとした感触が指に伝わる。
「ありがとうございます、助かります」
「どういたしまして 。食べる *****」
「ご飯ですか? お腹すきました。食べる 、しましょう」
ランティスは頷くと、七海の背に掌を押し当て、丸卓の椅子に座るよう促した。
「ここで? 食堂にいかなくていいんですか?」
一階の薄暗い食堂を思い浮かべながら訊ねると、ランティスは「ィオ」と肯定の言葉を発した。
彼が呼び鈴を鳴らすと、間もなく陰気な青年が手押し車で料理を運んできた。
恐怖していた七海だが、レースのかけられた円卓に湯気のたつ料理が供されると、期待と興奮に目を煌めかせた。
白身魚のムニエルに、貝のアヒージョ、きつね色に焼けたバケット、なめらかなムースには、可憐な小花が添えられて見た目にも楽しい。
「わぁ、美味しそう」
どれも大変な美味で、白葡萄酒と魚の相性も抜群だった。
食後に、檸檬炭酸水とレアチーズケーキが供されると、七海は思わず泣きそうになった。
久しぶりのケーキをゆっくり味わい、ほろ酔いになって、ほんのり頬を染めていい気分だった。少し暑くて肩にかけているショールをとると、ランティスと目が遭った。
笑み返しながら、七海は開いた胸元に視線を落として、頬がさらに紅くなるのを感じた。重量のある体型をしているので、胸もそれなりに大きい。くっきり谷間ができている。
「すみません、はしたないですね……」
苦笑いを浮かべながら、七海は再びショールを羽織った。紳士なランティスは慎ましく視線を逸していた。
食事を終えたあとは寝支度をして、それぞれの寝室に入った。
久しぶりに一人きりの個室で眠りに就くことができる。
七海は寝台にもぐりこみ、角燈 に覆いをかけると、躰に毛布をかけて両腕をそとにだした。胸の上で両手を組んで目を閉じる。
(ちゃんとしたベッドだぁ……)
窖 生活のあとではとりわけ贅沢に感じる。ここは天国だ。
今夜はぐっすり眠れるだろう……期待して目を閉じたが、夜の静寂 を意識した途端に、奇妙な寂寥感に襲われた。
念願の屋根のある寝床なのに、妙に落ち着かない。
原始生活に辟易 していたはずなのに、眠る時はいつでも傍に感じられたランティスの体温を感じられないのは、なんだか心細かった。
時は静かに過ぎて、屋敷のなかは森 と静まりかえっている。七海たちの他に客はいないのか、人の気配が全く感じられない。
(……眠れない)
疲労しているはずなのに、眠りが訪れない。
意識は冴え冴えとして、益体のない妄想をしてしまう。
静かすぎると思ったが、窓の外から、陰陰とした呻き声が聞こえてきた。
ぞっとして、慌てて角燈 の覆いを外した。明るんだ部屋で耳を澄ませるが、何も聞こえない。
幻聴だったのだろうか?
そう思った時、窓辺のカーテンが不可解に揺らいだ。
「やだっ」
七海は、飛び降りるようにして寝台を降りた。そのまま居間にいくと、窓の外から話し声が聞こえてきた。複数の男女の声……カーテンに手を伸ばした時、
「七海?」
寝室の扉を開いて、手燭を持ったランティスが姿を見せた。窓辺に立つ七海を見るなり、早足で傍にやってきて肩を掴む。
「……ランティスさん」
思ったよりも距離が近くて、七海は目を瞠った。
蝋燭の火が碧氷の瞳に映りこんでいる。なめらかな銀髪を琥珀色に燦めかせて、夜に舞い降りた守護天使のようだ。
ランティスは七海に手燭を渡すと、窓を見やり、隙間のないようカーテンをきっちり閉じた。七海を振り返り、首を左右に振ってみせる。
「*****危険 」
口調は穏やかだが、どこか緊迫した響きを帯びていた。
「危険 ……窓の外に何があるんですか?」
「****、********……七海」
彼は、静かな動作で椅子を引いた。七海が軽く会釈をして腰掛けると、ぱちんと指を鳴らす。すると目の前に、銀盆に乗せられた茶器が現れた。
芳しい紅茶の香りが部屋を満たし、部屋のなかが浄化されたように感じられた。
彼は紅茶に蒸留酒と蜂蜜を垂らし、スプーンで軽く溶かしてから、どうぞ と七海にさしだした。
“飲まないで、ナナミ”
背筋を冷たい戦慄 が疾 り抜けたが、七海は表情にださぬよう気をつけた。
「ありがとうございます……」
受け皿を両手で受け取り、表面に息を吹きかけてから口に含んだ。
最初の一口でぴりっとした違和感を覚えたが、いつものことだ。しかし咽頭の粘膜が焼けるように、かーっと熱く燃えるのはこれが初めてだった。
「うっ、けほっ」
むせる七海を碧氷の双眸が見つめている。視線で問いかけるが、美貌の魔法遣いは何かを待っているような表情で、沈黙したままだ。
(これは何? お酒?)
神経過敏のせいとは思えない。まるで熱した鉄棒を飲みこんでしまったように、頭がおかしくなりそうなひりつきと圧迫感。心臓が痛い。茨に戒められて血が流れでる。
七海は、瞳を不安と恐怖とで慄 かせていたが、唐突に全ての表情を消した。蝋人形のように青褪めた顔で、にぃっと口角を持ちあげる。
「……“ホホホホホ……コンナ、モノ、キカナイ……ナナミハ……ワ・タ・サ・ナ・イ”」
毒を帯びた嗤笑 、嗄 れた声は、とても七海のものとは思えない。細めた目からこぼれるのは、煉獄 の焔めいた昏い輝きだ。
ランティスは杖を呼ぼうとして、やめた。ふぅっと糸が切れたように七海が傾ぐのを見て、素早く両腕に抱きしめる。
眉宇 に憂慮を漂わせて、七海の表情をしばらく見守っていたが、やがて変化がないと判ると、弛緩した躰を抱きあげて寝室へと運んだ。
蔦の絡まる
玄関広間の白壁は、薔薇を
受付にはこの屋敷の主人と思わしき上品な
主人は恭しく頭をさげたあと、七海の顔を舐め回すようにじろじろと見た。
居心地悪く強張る七海の肩を、ランティスは護るように抱き寄せると、冷ややかな厳格さで主人に何かを命じた。
「*****
謝罪と共に主人が頭をさげる。彼は真鍮の鍵をランティスに差しだすと、呼び鈴を鳴らした。
ややして奥にある控え室から、黒と紫のお仕着せを着込んだ青年が、手燭を持って顕れた。
陰気な青年は、目をあわせることもせずに深々と辞儀をして、何もいわずに、ランティスと七海を先導して歩き始めた。
彼の後ろを歩きながら、七海は物珍しげに建物を眺め回した。
全体的に薄暗く、廊下の奥にある応接間や食堂も真っ暗で、燭台の灯が
階段の片側は吹き抜けの窓になっており、琥珀繻子の
壁には、幾つもの絵画や肖像画の額がかけられていて、二階の踊り場の隅に、天井から吊るされた金籠と、その真下の水槽で
なんとも奇妙な構図だった。
黒い小鳥は、水槽の魚を狙っているように止まり木で
無言の対決だ。勝負になるのかも判らないが。
「七海」
水槽を眺めていた七海は、ランティスの声に我に返った。
さらに階段を登っていくと、三階に続く階段の壁に、大きな金縁の鏡がかけられていた。
どうも厭な気がして、漠とした陰気の漂う鏡を、七海はなるべく視界に入れないように気をつけた。歩くたびに床が軋むので、なるべく足音を忍ばせて歩きもした。
三階に着いた。廊下に年季の入った八角時計がかけてある。文字盤は読めないが、明らかに十二以上ありそうだった。そういえば、この世界の時間はどうなっているのだろう?
疑問に思っているうちに、廊下のつきあたり、重厚な扉の前にやってきた。
隅に女性の石像の入った
青年は恭しく扉を開くと、
「*****……」
ようやく口をきいたと思ったら、あまりにも小声で殆ど聞き取れなかった。辞儀をして、とても静かに扉を閉めた。最後まで不気味な青年であった。
陰鬱な荘厳さに萎縮していた七海だが、部屋を見回して、目を輝かせた。
多少陰気ではあるが、掃除は行き届いているようだ。上品でノスタルジーな香りがする。
真珠を象嵌された紫檀製の丸卓に、色の褪せた紅い
寝室は二つあり、四柱に支えられた天蓋のある胡桃材の寝台が鎮座している。念願のベッドである。
それから洗面台には、
浴室の床は、
(お風呂だぁ~……)
七海は目を潤ませた。
一体、何日ぶりだろう?
「ランティスさん、お風呂があります。お風呂」
七海が浴室を指さして笑みかけると、ランティスは傍にやってきた。
「****、モスチア」
「モスチア? お風呂のことですか? 入っても良いでしょうか?」
両手を胸の前で組みあわせて、上目遣いにお願いすると、ランティスは
「
彼は浴室のなかを検め、燭台に火を灯し、硝子製の蛇口をひねって熱い湯をだした。
「ジョア……
どうやら、とても温かい――熱湯がでる仕様のようで、湯と水を自分で調節するようだ。
「判りました。
手でかきまぜる仕草をすると、ランティスは頷いた。
「
七海は会心の笑みを浮かべると、さっそく湯を張り、いそいそと浴室に閉じこもった。
夢にまで見た風呂である。薔薇の花びらの入った固形石鹸に柔らかな麻布、いい香りのする
丁寧に躰の隅々まで洗い、全身を石鹸のいい香りに包まれると、柑橘系の入浴剤を溶いた湯船に身を沈めた。
ちゃぷん……湯の
蜜蝋の優しい明かりに白い湯気が照り映えて、なんとも幻想的な癒やしの空間を
七海はすっかり湯の
“くるぞおおぉぉぉぉぉおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ”
突然、怒号が聴こえた。七海は目を開けると、慌てて浴槽の縁を掴んだ。
「何ッ!?」
照明がじじ……っと明滅して、洗面台の燭台の火が、風もないのに不自然に揺らめいた。
「ぃやだっ」
ぞっとして、慌てて浴槽をでた。麻布をひっ掴み急いで躰を拭くと、買ってもらったばかりの優雅な寝室着に着替えた。思った以上に胸元が開いていることが気になり、顔をあげて壁にかけられた鏡を見ると、背後に黒い影が映りこんだ。
「ひっ」
思わず、転がるようにして浴室を飛びだした。窓辺に佇むランティスを見て、安堵に胸を撫でおろすが、声をかけるのは憚られた。
彼は、窓に硝子の器を置き、瓶から透明な液体を注いでいるところだった。
(何しているんだろう……?)
次に部屋の中央へいき、屈みこんだ。指先で床に文様を描くと、仄かな白光が一瞬浮きあがり、ふぅっと消えた。
ようやく立ちあがると、神妙にしている七海を見やった。
「ランティスさん、もしかしてこの部屋、
七海は両手を軽くあげて、おばけの仕草をしてみせた。
「****?」
世界共通のジェスチャーだと思っていたが、彼には通じなかったらしい。小首を傾げている。
「うぅ、怖い……」
先程の風呂の件といい、この部屋は呪われているのかもしれない。違う部屋にしてほしいが、それで解決するかも不明だ。
どこからか陰鬱な鐘の音が聴こえてきて、いっそう七海を驚かせた。
「びっくりした……時計塔?」
恐る恐る窓辺に近づこうとする七海の肩を、ランティスはそっと押さえた。
「******」
「え? 近づいたらいけませんか?」
ますます不安になるではないか。背筋がぞくりとして、七海はショールを胸の前でかきあわせた。
ランティスは七海の濡れた髪を見て、
途端に淡い光の粒子が
「ありがとうございます、助かります」
「
「ご飯ですか? お腹すきました。
ランティスは頷くと、七海の背に掌を押し当て、丸卓の椅子に座るよう促した。
「ここで? 食堂にいかなくていいんですか?」
一階の薄暗い食堂を思い浮かべながら訊ねると、ランティスは「ィオ」と肯定の言葉を発した。
彼が呼び鈴を鳴らすと、間もなく陰気な青年が手押し車で料理を運んできた。
恐怖していた七海だが、レースのかけられた円卓に湯気のたつ料理が供されると、期待と興奮に目を煌めかせた。
白身魚のムニエルに、貝のアヒージョ、きつね色に焼けたバケット、なめらかなムースには、可憐な小花が添えられて見た目にも楽しい。
「わぁ、美味しそう」
どれも大変な美味で、白葡萄酒と魚の相性も抜群だった。
食後に、檸檬炭酸水とレアチーズケーキが供されると、七海は思わず泣きそうになった。
久しぶりのケーキをゆっくり味わい、ほろ酔いになって、ほんのり頬を染めていい気分だった。少し暑くて肩にかけているショールをとると、ランティスと目が遭った。
笑み返しながら、七海は開いた胸元に視線を落として、頬がさらに紅くなるのを感じた。重量のある体型をしているので、胸もそれなりに大きい。くっきり谷間ができている。
「すみません、はしたないですね……」
苦笑いを浮かべながら、七海は再びショールを羽織った。紳士なランティスは慎ましく視線を逸していた。
食事を終えたあとは寝支度をして、それぞれの寝室に入った。
久しぶりに一人きりの個室で眠りに就くことができる。
七海は寝台にもぐりこみ、
(ちゃんとしたベッドだぁ……)
今夜はぐっすり眠れるだろう……期待して目を閉じたが、夜の
念願の屋根のある寝床なのに、妙に落ち着かない。
原始生活に
時は静かに過ぎて、屋敷のなかは
(……眠れない)
疲労しているはずなのに、眠りが訪れない。
意識は冴え冴えとして、益体のない妄想をしてしまう。
静かすぎると思ったが、窓の外から、陰陰とした呻き声が聞こえてきた。
ぞっとして、慌てて
幻聴だったのだろうか?
そう思った時、窓辺のカーテンが不可解に揺らいだ。
「やだっ」
七海は、飛び降りるようにして寝台を降りた。そのまま居間にいくと、窓の外から話し声が聞こえてきた。複数の男女の声……カーテンに手を伸ばした時、
「七海?」
寝室の扉を開いて、手燭を持ったランティスが姿を見せた。窓辺に立つ七海を見るなり、早足で傍にやってきて肩を掴む。
「……ランティスさん」
思ったよりも距離が近くて、七海は目を瞠った。
蝋燭の火が碧氷の瞳に映りこんでいる。なめらかな銀髪を琥珀色に燦めかせて、夜に舞い降りた守護天使のようだ。
ランティスは七海に手燭を渡すと、窓を見やり、隙間のないようカーテンをきっちり閉じた。七海を振り返り、首を左右に振ってみせる。
「*****
口調は穏やかだが、どこか緊迫した響きを帯びていた。
「
「****、********……七海」
彼は、静かな動作で椅子を引いた。七海が軽く会釈をして腰掛けると、ぱちんと指を鳴らす。すると目の前に、銀盆に乗せられた茶器が現れた。
芳しい紅茶の香りが部屋を満たし、部屋のなかが浄化されたように感じられた。
彼は紅茶に蒸留酒と蜂蜜を垂らし、スプーンで軽く溶かしてから、
“飲まないで、ナナミ”
背筋を冷たい
「ありがとうございます……」
受け皿を両手で受け取り、表面に息を吹きかけてから口に含んだ。
最初の一口でぴりっとした違和感を覚えたが、いつものことだ。しかし咽頭の粘膜が焼けるように、かーっと熱く燃えるのはこれが初めてだった。
「うっ、けほっ」
むせる七海を碧氷の双眸が見つめている。視線で問いかけるが、美貌の魔法遣いは何かを待っているような表情で、沈黙したままだ。
(これは何? お酒?)
神経過敏のせいとは思えない。まるで熱した鉄棒を飲みこんでしまったように、頭がおかしくなりそうなひりつきと圧迫感。心臓が痛い。茨に戒められて血が流れでる。
七海は、瞳を不安と恐怖とで
「……“ホホホホホ……コンナ、モノ、キカナイ……ナナミハ……ワ・タ・サ・ナ・イ”」
毒を帯びた
ランティスは杖を呼ぼうとして、やめた。ふぅっと糸が切れたように七海が傾ぐのを見て、素早く両腕に抱きしめる。