DAWN FANTASY
2章:最後の黄金 - 8 -
ランティスに手を引かれて歩きながら、七海は暗鬱に黙していた。
彼女 の告白は衝撃的だった。
この迷宮をでるために、本当に生者の心臓が必要だとしたら、必然的に助かるのはランティスになるだろう。
彼は七海をどうとでもできるが、その反対はありえない。膂力 差もあるが、魔法を持ちだされたら七海など瞬殺だ。
万が一どうにかできる機会があったとしても、精神的に無理だ。七海にランティスは殺せない。
(ランティスさんだって、私を殺せるとは思えないけど……)
彼を信じたい気持ちと疑念が鬩 ぎあって、心の天秤が定まらない。
今は考えるのをよそうと思っても、悪魔に憑 かれたみたいに、彼女の言葉を反芻 してしまう。
自らに呪縛をかけて、猜疑心と自己憐憫が止血帯のように七海を締めつける。
胸が苦しい。
息ができない。
悩みから解き放たれたい……
“七海、どこへいってしまったの?”
心の間隙 を突くように、どこからか懐かしい声が聴こえた。
まるで遠い別の世界から聴こえてくるかのような、超常めいた神秘的な響きだった。
(お母さん?)
そう思った次の瞬間、脳裡に、ソファーに座って項垂れている母の姿が視えた。
「お母さん!」
思わず声にだして叫んでいた。
理性は幻影だと囁くが、母の姿を探さずにはいられなかった。
遠ざかる母の声を必死に追いかける。
ランティスに呼ばれた気がしたけれど、彼の手を振り切って走った。
「待って、いかないで!」
“お願いよ七海、帰ってきて……”
母の幻聴が耳に残っている。
身を引き裂かれるような哀切の歔欷 が、七海の両目から涙をいっそう溢れさせた。
(お母さん! お母さん! お母さんっ!!)
もう一度逢いたい。その一心で、七海は目隠しをはずしてしまった。
その瞬間、暗闇に浮かぶ双眸と遭った。
血のように紅い双 つの瞳が、七海をじっと見つめている。
「あ……」
目をあわせてはいけない――汚穢 に満ちた禍々しい害意だ。
心の警鐘が鳴り響くが、一歩も動けなかった。
黒い波濤 が拡がるように、思考と視界を、黒く塗り潰していく。
自分が何者かも判らなくなる。
どうしてここにいるのか、誰を呼んでいたのか、どこへいこうとしていたのか、記憶も、意志も、自分の名前も、呼吸すら――喪失してしまう。
暗闇。
無音。
無風。
…
…
…
ひらり。
青い燐を散らす蝶が、眼裏 に顕 った。
「七海ッ!」
暗闇のなかをランティスが駆けてくる。青い外套を翻し、神々しい霊光 のように白銀の髪を燦 めかせて。
これも幻覚なのだろうか?
彼の背に、澄み透 った玻璃 の羽が見える。
妖精みたい――そう思った瞬間、七海は、躰のなかを光が通りぬけていくのを感じた。血と肉と骨を凍らせようとしていた瘴気が、温かい焔に溶け消えていく。
急激に肺に酸素が流れこみ、七海は息を喘がせた。
「はぁ、はぁっ」
心臓は狂ったように早鐘を打ち、一向に鎮まらない。呼吸が追いつかず、躰中を血潮が巡っている。
視界は光を取り戻し、目の前にランティスがいた。心配そうに七海を見おろしている。
「七海」
彼は七海のうえに屈みこみ、頬や額にくちづけをし、腕を擦り、恐らくは無事を言祝 いだ。
「*****……」
心の底から深い安堵が押し寄せ、七海は、じんわりと瞼の奥が熱くなるのを感じた。懸命に自分を抑えようとしたが、喉が勝手にひくついてしまう。泣きだす寸前の七海を、ランティスはぎゅっときつく抱きしめた。
「……ランティス、さんっ」
背中の外套の布をぎゅっと握りしめると、彼の腕の力も強まった。
また救われた。暗闇を切り裂いて助けにきてくれた。これで何度目?
信じる。信じない――自分で天秤を傾けるしかないのなら、信じたい。
不確かな彼女 の言葉より、言葉が通じなくても、ランティスの示してくれる思い遣りと誠実さを信じたい。
しばらくして七海が落ち着いてくると、ランティスは七海の肩をそっと掴んで、抱擁をほどいた。
「****?」
「……疲れた」
気遣いの滲んだ疑問口調に対して、七海は抑揚のない声で返事をした。重労働した後のように、頭と躰が重たい。
「****」
彼は、杖をかかげると、不思議な膜で二人を覆った。まるで硝子の半円蓋をかぶせたかのように、七海とランティスの周囲だけ聖域が生まれ、足元に草花が芽吹いた。
「わぁ……」
魔法は次々と起こる。
殆ど透明の淡い七色の膜のなか、寝椅子を取りだし、火鉢と薬鑵 と茶器を取りだした。
「休憩ですか?」
七海が期待をこめて訊ねると、そうだよ、というようにランティスは七海の手を引いて、寝椅子に座らせた。
ぼんやり給仕を見つめていると、熱い霊芝茶 を差しだされた。
「ありがとうございます」
七海は礼を口にすると、湯呑を受けとった。
琥珀の表面を見つめながら身構えていたが、彼女 は沈黙している。今日は“飲むな”といわないのだろうか?
(――信じるのよ)
自分に喝を入れて七海は湯呑に口をつけた。
やはり正体不明の違和感に顔をしかめると、ランティスはすかさず、角砂糖を七海の口のなかに押しこんだ。
砂糖の塊が、口のなかで溶けて、蜂蜜のように拡がっていく。
「甘い……」
「オイシイ?」
「はい。美味しいです」
七海が笑みかけると、ランティスもほほえんだ。
茶に催眠効果でもあるのか、急に眠気をもよおした。抗いようもなく、瞼が勝手におりてくる。
うとうとしている七海を見て、ランティスは彼女の手から湯呑を取りあげた。
「******、休んで 」
お言葉に甘えて、七海は寝椅子に横になった。お誂 え向きにクッションに毛布まである。
「お休みなさい 、七海」
ランティスは七海のうえに屈みこむと、額にくちづけた。彼特有のミントのような清涼な香りと、うっとりするような甘い柑橘系の匂いが漂う。
離れていく気配を寂しいと感じたが、彼は遠くへはいかず、七海のすぐ傍に腰をおろした。どうやら本を読むことにしたらしい。はらり……紙の捲れる音に心が落ち着く。
安心感に包まれて、七海はしばしの眠りに身を任せた。
この迷宮をでるために、本当に生者の心臓が必要だとしたら、必然的に助かるのはランティスになるだろう。
彼は七海をどうとでもできるが、その反対はありえない。
万が一どうにかできる機会があったとしても、精神的に無理だ。七海にランティスは殺せない。
(ランティスさんだって、私を殺せるとは思えないけど……)
彼を信じたい気持ちと疑念が
今は考えるのをよそうと思っても、悪魔に
自らに呪縛をかけて、猜疑心と自己憐憫が止血帯のように七海を締めつける。
胸が苦しい。
息ができない。
悩みから解き放たれたい……
“七海、どこへいってしまったの?”
心の
まるで遠い別の世界から聴こえてくるかのような、超常めいた神秘的な響きだった。
(お母さん?)
そう思った次の瞬間、脳裡に、ソファーに座って項垂れている母の姿が視えた。
「お母さん!」
思わず声にだして叫んでいた。
理性は幻影だと囁くが、母の姿を探さずにはいられなかった。
遠ざかる母の声を必死に追いかける。
ランティスに呼ばれた気がしたけれど、彼の手を振り切って走った。
「待って、いかないで!」
“お願いよ七海、帰ってきて……”
母の幻聴が耳に残っている。
身を引き裂かれるような哀切の
(お母さん! お母さん! お母さんっ!!)
もう一度逢いたい。その一心で、七海は目隠しをはずしてしまった。
その瞬間、暗闇に浮かぶ双眸と遭った。
血のように紅い
「あ……」
目をあわせてはいけない――
心の警鐘が鳴り響くが、一歩も動けなかった。
黒い
自分が何者かも判らなくなる。
どうしてここにいるのか、誰を呼んでいたのか、どこへいこうとしていたのか、記憶も、意志も、自分の名前も、呼吸すら――喪失してしまう。
暗闇。
無音。
無風。
…
…
…
ひらり。
青い燐を散らす蝶が、
「七海ッ!」
暗闇のなかをランティスが駆けてくる。青い外套を翻し、神々しい
これも幻覚なのだろうか?
彼の背に、澄み
妖精みたい――そう思った瞬間、七海は、躰のなかを光が通りぬけていくのを感じた。血と肉と骨を凍らせようとしていた瘴気が、温かい焔に溶け消えていく。
急激に肺に酸素が流れこみ、七海は息を喘がせた。
「はぁ、はぁっ」
心臓は狂ったように早鐘を打ち、一向に鎮まらない。呼吸が追いつかず、躰中を血潮が巡っている。
視界は光を取り戻し、目の前にランティスがいた。心配そうに七海を見おろしている。
「七海」
彼は七海のうえに屈みこみ、頬や額にくちづけをし、腕を擦り、恐らくは無事を
「*****……」
心の底から深い安堵が押し寄せ、七海は、じんわりと瞼の奥が熱くなるのを感じた。懸命に自分を抑えようとしたが、喉が勝手にひくついてしまう。泣きだす寸前の七海を、ランティスはぎゅっときつく抱きしめた。
「……ランティス、さんっ」
背中の外套の布をぎゅっと握りしめると、彼の腕の力も強まった。
また救われた。暗闇を切り裂いて助けにきてくれた。これで何度目?
信じる。信じない――自分で天秤を傾けるしかないのなら、信じたい。
不確かな
しばらくして七海が落ち着いてくると、ランティスは七海の肩をそっと掴んで、抱擁をほどいた。
「****?」
「……疲れた」
気遣いの滲んだ疑問口調に対して、七海は抑揚のない声で返事をした。重労働した後のように、頭と躰が重たい。
「****」
彼は、杖をかかげると、不思議な膜で二人を覆った。まるで硝子の半円蓋をかぶせたかのように、七海とランティスの周囲だけ聖域が生まれ、足元に草花が芽吹いた。
「わぁ……」
魔法は次々と起こる。
殆ど透明の淡い七色の膜のなか、寝椅子を取りだし、火鉢と
「休憩ですか?」
七海が期待をこめて訊ねると、そうだよ、というようにランティスは七海の手を引いて、寝椅子に座らせた。
ぼんやり給仕を見つめていると、熱い
「ありがとうございます」
七海は礼を口にすると、湯呑を受けとった。
琥珀の表面を見つめながら身構えていたが、
(――信じるのよ)
自分に喝を入れて七海は湯呑に口をつけた。
やはり正体不明の違和感に顔をしかめると、ランティスはすかさず、角砂糖を七海の口のなかに押しこんだ。
砂糖の塊が、口のなかで溶けて、蜂蜜のように拡がっていく。
「甘い……」
「オイシイ?」
「はい。美味しいです」
七海が笑みかけると、ランティスもほほえんだ。
茶に催眠効果でもあるのか、急に眠気をもよおした。抗いようもなく、瞼が勝手におりてくる。
うとうとしている七海を見て、ランティスは彼女の手から湯呑を取りあげた。
「******、
お言葉に甘えて、七海は寝椅子に横になった。お
「
ランティスは七海のうえに屈みこむと、額にくちづけた。彼特有のミントのような清涼な香りと、うっとりするような甘い柑橘系の匂いが漂う。
離れていく気配を寂しいと感じたが、彼は遠くへはいかず、七海のすぐ傍に腰をおろした。どうやら本を読むことにしたらしい。はらり……紙の捲れる音に心が落ち着く。
安心感に包まれて、七海はしばしの眠りに身を任せた。