DAWN FANTASY
2章:最後の黄金 - 4 -
素足が葦に触れるのを感じて、七海の意識は呼び醒まされた。
地面に片膝をついたランティスが、七海の背中を支えている。下半身には深緑の外套がかけられていた。
「ダイジョウブ?」
「ぁ……けほっ」
返事しようとしたが、まともに声がでなかった。煙を吸いこんでしまったせいだ。胸苦しくて立て続けに咽ると、ランティスが労るように背を撫でてくれた。
「*****……」
心配そうにしているランティスを、七海は感謝の眼差しで見つめた。
危なかった。あともうちょっとで、蜘蛛の餌食になるところだった。
彼のおかげで宙吊り状態からは解放されたが、烈しく体力を消耗してしまった。筋肉が痙攣し、両手の指先がぴりぴりとしている。
(気持ち悪……)
嘔吐感が胸を突きあげ、咄嗟に口を手で押さえた。
どうにかこらえたが、自分が酷く汚れている気がしてならなかった。糸の戒めで、あちこちが痛痒いし、全身が濡れたように汗ばんでいる。
ランティスは水晶と瑠璃 の数珠を七海の頸にかけると、清浄の魔法 を唱えてくれた。
「ありがと、ございます……」
七海はほっとして、掠れ声で感謝を口にした。良かった。失くしてしまったかと心配していたのだ。
けれども、全身を這い回る悪寒は拭いきれない。今も四肢を糸に囚われているような錯覚がする。
(嗚呼、気持ち悪い……!)
両手で髪の毛を掻きむしり、粘膜の感触が残っていないか確かめていると、ランティスに手首を掴まれた。
「****? ダイジョウブ?」
「はい、大丈夫です……痛 ぅっ」
立ちあがろうとした七海は、痛みに顔をしかめた。すると膝裏に腕をさしいれられ、ぐんと躰が浮きあがった。
「えっ!?」
慌てておりようとすると、めっ、という風に睨まれた。恥ずかしいし情けなかったが、腕のなかでじっとしているしかなかった。
ランティスは、巨大な樹冠のしたに七海を下ろすと、太い幹にもたれかけさせた。
彼が本格的に荷を解き始めたので、七海はほっとした。今日の冒険はここまでのようだ。未だ緑の監獄の囚人ではあるが、休憩するということは、少なくともすぐ近くに危険はないのだろう。
空を仰ぐと、壁に穿たれた巨大な丸穴から、橙 を帯びた金色に縁取られる薄雲が覗いている。
久しぶりに空を見た。
ぼうっとしていた七海は、彼が火鉢に炭を入れるのを見て、何か手伝おうとした。ところが、腿に鋭い痛みが走り、その場にうずくまってしまった。
「七海」
ランティスは脚を押さえている七海を見て、厳しい眼差しで傍にやってきた。
「あ、平気……待って」
下半身にかけている外套を奪われそうになり、七海は狼狽えた。外套を両手で押さえていると、今度は上半身を剥かれそうになった。
「待って、脱がさないで」
両腕を自分の躰に巻きつけるが、ランティスは手首を掴んで開かせる。
「****、********」
怪我の心配をしてくれているのは判るが、脂肪のつき過ぎた躰を見られたくなかった。
碧い眼差しが、七海の躰に注がれる。
恥ずかしくて顔から火がでそうだったが、あまりに真剣な様子なので、七海も冷静に自分の躰を見おろしてみた。
……確かに酷い。あちこちに裂傷と打撲痕があり、腹には、糸で締めあげられた痕がくっきり残っている。
不意に、悍 ましい感触が蘇り、躰がぶるっと震えた。ランティスは優しい手つきで七海の髪を撫でると、掌をあわせて、癒やしの光を生みだした。
「****……」
清らかな琥珀色の光が、患部に押しあてられる様子を七海は黙って見守った。
期待した通り、触れられた箇所から温治のような心地良さが拡がっていき、青痣が消えた。彼が触れるところ、捻挫も裂傷もみるみるうちに治っていく。
「すごい……楽になりました。ありがとうございます」
七海は躰を眺め回しながら、礼を口にした。これで終わりかと思ったが、脚にかけている外套に指をかけられ、七海は躊躇った。
「下はちょっと……」
無言で首を振るが、ランティスは宥めるように七海の背中を撫でながら、外套を手でどける。
拒絶の言葉をいいかけたが、血の凝固した大腿を見て、黙りこんだ。痛々しくて見ていられず、七海はランティスの胸に顔を押しつけた。
「*****」
ランティスは治癒を続けた。
大腿に触れた掌から、心地良い温もりが広がっていき、じくじくとした鈍い痛みが消えていく。
「ぁ……っ」
けれども、識 ってはならぬ官能まで呼び醒まされ、七海は小さく喘いだ。慌てて唇を噛み締めたが、ランティスの手が止まっている。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声で七海はいった。羞恥で死ねそうだ。ランティスは治療を再開してくれたが、彼の掌からもたらされる熱に、全身が甘く痺れた。
「あぁっ」
あえぎの声が唇からこぼれると、腿に置かれた手に少しだけ、力がこめられた。
「あのっ」
七海はぱちっと目を開いて、ランティスの腕を掴んだ。
青い瞳はぞくっとする熱っぽくて、七海の鼓動は早鐘を打ち始めた。
この際どい治療行為に、彼も興奮している?
それは居心地の悪いような、ある種の期待感のような複雑な感情を七海にもたらした。
ほんの数秒の間に、様々なことを想像した。
彼の形のよい鼻の頭が、七海のむっちりした腿に埋まり、茂みをかきわけて……尖らせた舌先で、性器の肉を押し開く。奥から熱い蜜が湧きだして、彼のしなやかな指が蜜をからませつつ、そっとなかに挿入 ってくる……優しく、愛してくれる。
彼の優しい情熱的な愛撫が、七海の身も心も深く満たしてくれる……
束の間の涯 てのない妄想は、彼がそっと手を離し、あられもない下半身に外套をかけてくれたことでかき消えた。
(嗚呼、もう私ったらなんて妄想を……っ)
無知蒙昧 な七海の庇護者に、無償で治療してくれる高潔なランティスに、超属した美しい男 に、欲望を抱くなんて!
彼の瞳が情欲に翳 って見えたのも、七海の願望が生みだした捏造 に違いない。
(私、ランティスさんに惹かれている……だけど彼は、力を貸してくれているだけなのよ……私、勘違いしちゃダメなんだわ)
自信のなさ故――何百、千、万と繰り返してきた戒めの呪文を、七海は自分にかけた。
七海が、両手に顔を沈めて打ちひしがれている間も、ランティスは献身的に看護をしてくれた。
いい香りに七海が顔をあげると、彼は銀の盥 に湯を張り、魔法で蜂蜜色に変えていた。
「わ、お湯だ……湯 ?」
「はい 」
青花ルピナスのいい香りが漂う。
さらに彼は、固形石鹸と綿タオルを渡してくれた。籐で編まれた衝立を置いてくれて、着替えも引っ掛けてくれた。
七海は目頭が熱くなるのを感じた。七海の気持を察して、手間をかけて湯を用意してくれたのだ。頭がさがる思いだった。
「ありがとうございます、ランティスさん」
「どういたしまして 」
悪鬼羅刹 魑魅魍魎 の跳梁跋扈 するこの迷宮で、ランティスという魔法遣いに出会えたことだけは、神に感謝してもいい。
湯に入った七海は、髪から指先まで必死に洗った。魔法 で清められているが、蜘蛛の粘膜、汚穢 を全身全霊で拒絶するように何遍も湯で洗い流した。
もう、金輪際、蜘蛛は見たくない。絶対に。
小さくても厭なのに、あの大きさはありえない。いっそ記憶喪失になりたいが、生々しく網膜に焼きついてしまっている。
満足いくまで湯を使わせてもらうと、荒んでいた心もだいぶ潤った。全身を石鹸のいい匂いに包まれて、吐息までも花の蜜の味を感じる。
ようやく自分の状態に満足し、麻布で躰を拭いて、清潔な衣装に着替えると、生き返った心地がした。
ありがたいことに、大気も心地良い涼しさに調整されている。これも彼の魔法に違いない。おかげで湯浴みした傍から、汗だくにならずに済んだ。
白繻子の半袖の上着を羽織って、そろそろと衝立からでていくと、乳酪 のいい匂いが漂ってきた。
「着替えありがとうございます……」
濡れた髪を拭きながら声をかけると、振り向いたランティスは小さく頷いた。
彼は、指輪を嵌めた人差し指と中指で文字を描くように閃かせた。
すると、柔らかな春風が七海の頭を包みこみ、忽 ち乾いたので、七海は驚きの笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
ランティスは無言で首肯すると、手元に視線を戻した。
彼の作る料理に、興味をひきつけられずにはいられなかった。あの森で採集した食材を調理しているのだ。
平たい焙烙 に塩と松葉を敷き、白身魚と貝、松茸、銀杏を配し、酒を垂らして蒸し焼きにし、檸檬のような柑橘を絞る。
「うわぁ、美味しそう」
七海は、思わずはしゃいだ声をあげた。
「どうぞ 」
さしだされた椀を受け取りながら、七海は考えた。
「……これは何ですか?」
椀の端に、海老のようなものが原型を留めて添えられている。湯気がたって美味しそうではあるが、紫に白い斑模様という、なかなか奇抜な色をしている。
「コジャ、**********」
コジャ……海老に似ているが、あのジャングルに生息する生物と思うと、警戒心が芽生えてしまう。
だが、せっかく手料理を振る舞ってくれる彼に、そんな態度は言語道断。表情に気をつけながら口をつけようとした時、またしても警告めいた囁きが聴こえた。
“食べてはだめよ”
動揺してうっかり底を掌で支えてしまい、熱くて、手を離してしまった。あっと思った時には遅く、皿は石にあたって砕け散った。
「ごめんなさいっ!!」
七海は血相を変えて屈みこんだ。
皿はもう粉々で、せっかく綺麗に盛りつけされた料理も台無しになってしまった。
(いい加減にしてよッ!!)
顔も知らぬ相手に、強烈な怒りが迸 った。気まずいと感じたのか、目に見えぬ幽霊は意識の奥へ溶け消えた。
自分の失態に打ちのめされながら、割れた破片を拾おうとする七海の手を、ランティスが掴んだ。
「***、ダイジョウブ?」
声に案じる響きが滲んでいた。叱られないことが、七海の罪悪感に拍車をかけた。
「ごめんなさい、ランティスさん。せっかく作ってくれたのに……」
泣きそうな様子を見て、ランティスは七海の頭をそっと撫でた。
こんなにも優しい人に対して、どうして警句を発するのだろう?
飲んだり食べたりするたびに、正体不明の幻聴がきこえるのは、どういう理屈なのだろう?
……自分は頭がおかしくなってしまったのだろうか。
この塔は、実はとても高所にあるから、幻聴や幻視といった、高山病のような症状をきたしているのかもしれない。
腑に落ちないが、飲食しなければ餓 えるし、世話になっておきながら、彼の親切を無下にはできない。
「****、********」
気にしないで。というようにランティスは七海を立たせ、割れた破片を片付け、新しい皿に料理をよそってくれた。
「ありがとうございます」
この海老もどき の正体が何であれ、絶対に完食しなければならない。それがランティスに対する、最低限の礼儀だ。
ありったけの勇気を奮い起こして、七海は、コジャを口に放りこんだ。
決死の覚悟だったが、皮はぱりっと香ばしく、ほくほくとした白い身を一口食べた途端に、相好を崩した。
「美味しい……」
想像よりも、しゃきしゃきした歯ごたえで、とっても美味しい。これのどこが毒なのだ?
眉間の皺を和らげた七海を見、ランティスも穏やかな表情で訪ねた。
「オイシイ?」
「はい! 美味しいです」
満面の笑みで七海は返事をした。彼の言葉も嬉しくて、美味しさに拍車をかける。
そのあとに供される揚げ物も素晴らしかった。
海老 とじゃがいも をすりつぶした粉揚 、緑野菜と木の実の揚。
これらの揚げ物を、笹を敷き詰めた籐の籠に配されているのだから、まさに自然の恵みだ。
最初は警戒していた七海だが、美味しいと判るや、餓えた狼のようにがつがつ食べた。
朝からまともに食べていないし、一日中動き回ったせいで、腹が空いているのだ。
「******?」
美味しかった? と訊かれたようで、七海は満面の笑みで頷いた。
「もう最高に美味しかったです。ランティスさん、お料理の天才ですね!素晴らしい !」
万歳で喜びを表現すると、ランティスはそっと視線を逸らした。照れている姿が新鮮で、七海の胸は高鳴る。思わず美しい顔を凝視してしまい、視線がぶつかると今度は七海が照れた。
自然の恵みをたっぷり堪能したあと、ランティスは薬草茶を煎れてくれた。七海がぴりっとした違和感を覚えることが判っているのか、蜂蜜を銀匙にたっぷりすくって溶かしてくれた。
それから、柑橘の甘味も振る舞ってくれた。
棗椰子の実と乾燥した木苺とでくるんだ杏に、焼き砂糖を加えて油状にした果実シロップをかけたもので、すこぶる美味しかった。
満腹になり、大樹にもたれてぼんやりしていると、ランティスが七海の肩を叩いた。
「はい?」
「****」
彼が指差す方に目を向けると、花の蕾がふんわりと開いていき、淡い燐光が溢れだした。
「わぁ、綺麗……」
悍 ましいばかりの熱帯地獄と思っていたけれど、これは胸踊る妖異だ。思わず見入ってしまう。
……本当に摩訶不思議な場所である。
未知の脅威と原始的な最低生活、そして三次元と文明を超越した魔法とが、奇妙に混淆 している現状とに、奇妙な愉快さを覚えずにはいられない。
神秘的な草花を眺めていると、食後の快い倦怠に眠気を催した。
言葉の教材を取りだそうとしていたランティスは、あくびを噛み殺す七海を見て、再び異次元空間に収納した。
「すみません、眠くて……」
申し訳なく思うが、今日は疲れていて、もう眠ってしまいたい……
うとうとしていると、氷が溶けるような、涼しげな魔法の発現の音が聴こえた。
期待した通り、ランティスは柔らかいクッションに毛布を取りだし、簡易的な寝床を整えてくれた。
「ありがとうございます」
隣に腰をおろしたランティスに、肩を抱き寄せられた。いつも無限階段でそうしているように、彼にもたれると、ランティスは身を屈めてきた。さらりと髪が頬に触れて、額にくちづけが贈られる。
「七海、お休みなさい 」
「お休みなさい 、ランティスさん……」
七海は目を閉じたまま呟いた。
今日は散々な目にあったけれど、彼のおかげで、最悪な気分のまま終わらずに済んだ。
清潔にしてくれて、美味しい料理を振る舞ってくれて、恐るべき忍耐で、七海の失敗を責めることもしない。こうして安全な寝床も提供してくれて……
(ん?)
暗黒階段と違って、安定した大地の上にいるのだから、何も寄り添って眠る必要はないのでは?
ふと疑問に思ったが、すぐに納得した。寄り添っていた方が安心するし、ランティスも何もいわないのだから、このままでいいか……と、七海は考えることをやめて、しばしの眠りに就いた。
地面に片膝をついたランティスが、七海の背中を支えている。下半身には深緑の外套がかけられていた。
「ダイジョウブ?」
「ぁ……けほっ」
返事しようとしたが、まともに声がでなかった。煙を吸いこんでしまったせいだ。胸苦しくて立て続けに咽ると、ランティスが労るように背を撫でてくれた。
「*****……」
心配そうにしているランティスを、七海は感謝の眼差しで見つめた。
危なかった。あともうちょっとで、蜘蛛の餌食になるところだった。
彼のおかげで宙吊り状態からは解放されたが、烈しく体力を消耗してしまった。筋肉が痙攣し、両手の指先がぴりぴりとしている。
(気持ち悪……)
嘔吐感が胸を突きあげ、咄嗟に口を手で押さえた。
どうにかこらえたが、自分が酷く汚れている気がしてならなかった。糸の戒めで、あちこちが痛痒いし、全身が濡れたように汗ばんでいる。
ランティスは水晶と
「ありがと、ございます……」
七海はほっとして、掠れ声で感謝を口にした。良かった。失くしてしまったかと心配していたのだ。
けれども、全身を這い回る悪寒は拭いきれない。今も四肢を糸に囚われているような錯覚がする。
(嗚呼、気持ち悪い……!)
両手で髪の毛を掻きむしり、粘膜の感触が残っていないか確かめていると、ランティスに手首を掴まれた。
「****? ダイジョウブ?」
「はい、大丈夫です……
立ちあがろうとした七海は、痛みに顔をしかめた。すると膝裏に腕をさしいれられ、ぐんと躰が浮きあがった。
「えっ!?」
慌てておりようとすると、めっ、という風に睨まれた。恥ずかしいし情けなかったが、腕のなかでじっとしているしかなかった。
ランティスは、巨大な樹冠のしたに七海を下ろすと、太い幹にもたれかけさせた。
彼が本格的に荷を解き始めたので、七海はほっとした。今日の冒険はここまでのようだ。未だ緑の監獄の囚人ではあるが、休憩するということは、少なくともすぐ近くに危険はないのだろう。
空を仰ぐと、壁に穿たれた巨大な丸穴から、
久しぶりに空を見た。
ぼうっとしていた七海は、彼が火鉢に炭を入れるのを見て、何か手伝おうとした。ところが、腿に鋭い痛みが走り、その場にうずくまってしまった。
「七海」
ランティスは脚を押さえている七海を見て、厳しい眼差しで傍にやってきた。
「あ、平気……待って」
下半身にかけている外套を奪われそうになり、七海は狼狽えた。外套を両手で押さえていると、今度は上半身を剥かれそうになった。
「待って、脱がさないで」
両腕を自分の躰に巻きつけるが、ランティスは手首を掴んで開かせる。
「****、********」
怪我の心配をしてくれているのは判るが、脂肪のつき過ぎた躰を見られたくなかった。
碧い眼差しが、七海の躰に注がれる。
恥ずかしくて顔から火がでそうだったが、あまりに真剣な様子なので、七海も冷静に自分の躰を見おろしてみた。
……確かに酷い。あちこちに裂傷と打撲痕があり、腹には、糸で締めあげられた痕がくっきり残っている。
不意に、
「****……」
清らかな琥珀色の光が、患部に押しあてられる様子を七海は黙って見守った。
期待した通り、触れられた箇所から温治のような心地良さが拡がっていき、青痣が消えた。彼が触れるところ、捻挫も裂傷もみるみるうちに治っていく。
「すごい……楽になりました。ありがとうございます」
七海は躰を眺め回しながら、礼を口にした。これで終わりかと思ったが、脚にかけている外套に指をかけられ、七海は躊躇った。
「下はちょっと……」
無言で首を振るが、ランティスは宥めるように七海の背中を撫でながら、外套を手でどける。
拒絶の言葉をいいかけたが、血の凝固した大腿を見て、黙りこんだ。痛々しくて見ていられず、七海はランティスの胸に顔を押しつけた。
「*****」
ランティスは治癒を続けた。
大腿に触れた掌から、心地良い温もりが広がっていき、じくじくとした鈍い痛みが消えていく。
「ぁ……っ」
けれども、
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声で七海はいった。羞恥で死ねそうだ。ランティスは治療を再開してくれたが、彼の掌からもたらされる熱に、全身が甘く痺れた。
「あぁっ」
あえぎの声が唇からこぼれると、腿に置かれた手に少しだけ、力がこめられた。
「あのっ」
七海はぱちっと目を開いて、ランティスの腕を掴んだ。
青い瞳はぞくっとする熱っぽくて、七海の鼓動は早鐘を打ち始めた。
この際どい治療行為に、彼も興奮している?
それは居心地の悪いような、ある種の期待感のような複雑な感情を七海にもたらした。
ほんの数秒の間に、様々なことを想像した。
彼の形のよい鼻の頭が、七海のむっちりした腿に埋まり、茂みをかきわけて……尖らせた舌先で、性器の肉を押し開く。奥から熱い蜜が湧きだして、彼のしなやかな指が蜜をからませつつ、そっとなかに
彼の優しい情熱的な愛撫が、七海の身も心も深く満たしてくれる……
束の間の
(嗚呼、もう私ったらなんて妄想を……っ)
無知
彼の瞳が情欲に
(私、ランティスさんに惹かれている……だけど彼は、力を貸してくれているだけなのよ……私、勘違いしちゃダメなんだわ)
自信のなさ故――何百、千、万と繰り返してきた戒めの呪文を、七海は自分にかけた。
七海が、両手に顔を沈めて打ちひしがれている間も、ランティスは献身的に看護をしてくれた。
いい香りに七海が顔をあげると、彼は銀の
「わ、お湯だ……
「
青花ルピナスのいい香りが漂う。
さらに彼は、固形石鹸と綿タオルを渡してくれた。籐で編まれた衝立を置いてくれて、着替えも引っ掛けてくれた。
七海は目頭が熱くなるのを感じた。七海の気持を察して、手間をかけて湯を用意してくれたのだ。頭がさがる思いだった。
「ありがとうございます、ランティスさん」
「
湯に入った七海は、髪から指先まで必死に洗った。
もう、金輪際、蜘蛛は見たくない。絶対に。
小さくても厭なのに、あの大きさはありえない。いっそ記憶喪失になりたいが、生々しく網膜に焼きついてしまっている。
満足いくまで湯を使わせてもらうと、荒んでいた心もだいぶ潤った。全身を石鹸のいい匂いに包まれて、吐息までも花の蜜の味を感じる。
ようやく自分の状態に満足し、麻布で躰を拭いて、清潔な衣装に着替えると、生き返った心地がした。
ありがたいことに、大気も心地良い涼しさに調整されている。これも彼の魔法に違いない。おかげで湯浴みした傍から、汗だくにならずに済んだ。
白繻子の半袖の上着を羽織って、そろそろと衝立からでていくと、
「着替えありがとうございます……」
濡れた髪を拭きながら声をかけると、振り向いたランティスは小さく頷いた。
彼は、指輪を嵌めた人差し指と中指で文字を描くように閃かせた。
すると、柔らかな春風が七海の頭を包みこみ、
「ありがとうございます」
ランティスは無言で首肯すると、手元に視線を戻した。
彼の作る料理に、興味をひきつけられずにはいられなかった。あの森で採集した食材を調理しているのだ。
平たい
「うわぁ、美味しそう」
七海は、思わずはしゃいだ声をあげた。
「
さしだされた椀を受け取りながら、七海は考えた。
「……これは何ですか?」
椀の端に、海老のようなものが原型を留めて添えられている。湯気がたって美味しそうではあるが、紫に白い斑模様という、なかなか奇抜な色をしている。
「コジャ、**********」
コジャ……海老に似ているが、あのジャングルに生息する生物と思うと、警戒心が芽生えてしまう。
だが、せっかく手料理を振る舞ってくれる彼に、そんな態度は言語道断。表情に気をつけながら口をつけようとした時、またしても警告めいた囁きが聴こえた。
“食べてはだめよ”
動揺してうっかり底を掌で支えてしまい、熱くて、手を離してしまった。あっと思った時には遅く、皿は石にあたって砕け散った。
「ごめんなさいっ!!」
七海は血相を変えて屈みこんだ。
皿はもう粉々で、せっかく綺麗に盛りつけされた料理も台無しになってしまった。
(いい加減にしてよッ!!)
顔も知らぬ相手に、強烈な怒りが
自分の失態に打ちのめされながら、割れた破片を拾おうとする七海の手を、ランティスが掴んだ。
「***、ダイジョウブ?」
声に案じる響きが滲んでいた。叱られないことが、七海の罪悪感に拍車をかけた。
「ごめんなさい、ランティスさん。せっかく作ってくれたのに……」
泣きそうな様子を見て、ランティスは七海の頭をそっと撫でた。
こんなにも優しい人に対して、どうして警句を発するのだろう?
飲んだり食べたりするたびに、正体不明の幻聴がきこえるのは、どういう理屈なのだろう?
……自分は頭がおかしくなってしまったのだろうか。
この塔は、実はとても高所にあるから、幻聴や幻視といった、高山病のような症状をきたしているのかもしれない。
腑に落ちないが、飲食しなければ
「****、********」
気にしないで。というようにランティスは七海を立たせ、割れた破片を片付け、新しい皿に料理をよそってくれた。
「ありがとうございます」
この
ありったけの勇気を奮い起こして、七海は、コジャを口に放りこんだ。
決死の覚悟だったが、皮はぱりっと香ばしく、ほくほくとした白い身を一口食べた途端に、相好を崩した。
「美味しい……」
想像よりも、しゃきしゃきした歯ごたえで、とっても美味しい。これのどこが毒なのだ?
眉間の皺を和らげた七海を見、ランティスも穏やかな表情で訪ねた。
「オイシイ?」
「はい! 美味しいです」
満面の笑みで七海は返事をした。彼の言葉も嬉しくて、美味しさに拍車をかける。
そのあとに供される揚げ物も素晴らしかった。
これらの揚げ物を、笹を敷き詰めた籐の籠に配されているのだから、まさに自然の恵みだ。
最初は警戒していた七海だが、美味しいと判るや、餓えた狼のようにがつがつ食べた。
朝からまともに食べていないし、一日中動き回ったせいで、腹が空いているのだ。
「******?」
美味しかった? と訊かれたようで、七海は満面の笑みで頷いた。
「もう最高に美味しかったです。ランティスさん、お料理の天才ですね!
万歳で喜びを表現すると、ランティスはそっと視線を逸らした。照れている姿が新鮮で、七海の胸は高鳴る。思わず美しい顔を凝視してしまい、視線がぶつかると今度は七海が照れた。
自然の恵みをたっぷり堪能したあと、ランティスは薬草茶を煎れてくれた。七海がぴりっとした違和感を覚えることが判っているのか、蜂蜜を銀匙にたっぷりすくって溶かしてくれた。
それから、柑橘の甘味も振る舞ってくれた。
棗椰子の実と乾燥した木苺とでくるんだ杏に、焼き砂糖を加えて油状にした果実シロップをかけたもので、すこぶる美味しかった。
満腹になり、大樹にもたれてぼんやりしていると、ランティスが七海の肩を叩いた。
「はい?」
「****」
彼が指差す方に目を向けると、花の蕾がふんわりと開いていき、淡い燐光が溢れだした。
「わぁ、綺麗……」
……本当に摩訶不思議な場所である。
未知の脅威と原始的な最低生活、そして三次元と文明を超越した魔法とが、奇妙に
神秘的な草花を眺めていると、食後の快い倦怠に眠気を催した。
言葉の教材を取りだそうとしていたランティスは、あくびを噛み殺す七海を見て、再び異次元空間に収納した。
「すみません、眠くて……」
申し訳なく思うが、今日は疲れていて、もう眠ってしまいたい……
うとうとしていると、氷が溶けるような、涼しげな魔法の発現の音が聴こえた。
期待した通り、ランティスは柔らかいクッションに毛布を取りだし、簡易的な寝床を整えてくれた。
「ありがとうございます」
隣に腰をおろしたランティスに、肩を抱き寄せられた。いつも無限階段でそうしているように、彼にもたれると、ランティスは身を屈めてきた。さらりと髪が頬に触れて、額にくちづけが贈られる。
「七海、
「
七海は目を閉じたまま呟いた。
今日は散々な目にあったけれど、彼のおかげで、最悪な気分のまま終わらずに済んだ。
清潔にしてくれて、美味しい料理を振る舞ってくれて、恐るべき忍耐で、七海の失敗を責めることもしない。こうして安全な寝床も提供してくれて……
(ん?)
暗黒階段と違って、安定した大地の上にいるのだから、何も寄り添って眠る必要はないのでは?
ふと疑問に思ったが、すぐに納得した。寄り添っていた方が安心するし、ランティスも何もいわないのだから、このままでいいか……と、七海は考えることをやめて、しばしの眠りに就いた。