DAWN FANTASY

2章:最後の黄金 - 4 -

 素足が葦に触れるのを感じて、七海の意識は呼び醒まされた。
 地面に片膝をついたランティスが、七海の背中を支えている。下半身には深緑の外套がかけられていた。
「ダイジョウブ?」
「ぁ……けほっ」
 返事しようとしたが、まともに声がでなかった。煙を吸いこんでしまったせいだ。胸苦しくて立て続けに咽ると、ランティスが労るように背を撫でてくれた。
「*****……」
 心配そうにしているランティスを、七海は感謝の眼差しで見つめた。
 危なかった。あともうちょっとで、蜘蛛の餌食になるところだった。
 彼のおかげで宙吊り状態からは解放されたが、烈しく体力を消耗してしまった。筋肉が痙攣し、両手の指先がぴりぴりとしている。
(気持ち悪……)
 嘔吐感が胸を突きあげ、咄嗟に口を手で押さえた。
 どうにかこらえたが、自分が酷く汚れている気がしてならなかった。糸の戒めで、あちこちが痛痒いし、全身が濡れたように汗ばんでいる。
 ランティスは水晶と瑠璃ヴァイドゥーリャの数珠を七海の頸にかけると、清浄の魔法スプールを唱えてくれた。
「ありがと、ございます……」
 七海はほっとして、掠れ声で感謝を口にした。良かった。失くしてしまったかと心配していたのだ。
 けれども、全身を這い回る悪寒は拭いきれない。今も四肢を糸に囚われているような錯覚がする。
(嗚呼、気持ち悪い……!)
 両手で髪の毛を掻きむしり、粘膜の感触が残っていないか確かめていると、ランティスに手首を掴まれた。
「****? ダイジョウブ?」
「はい、大丈夫です……ぅっ」
 立ちあがろうとした七海は、痛みに顔をしかめた。すると膝裏に腕をさしいれられ、ぐんと躰が浮きあがった。
「えっ!?」
 慌てておりようとすると、めっ、という風に睨まれた。恥ずかしいし情けなかったが、腕のなかでじっとしているしかなかった。
 ランティスは、巨大な樹冠のしたに七海を下ろすと、太い幹にもたれかけさせた。
 彼が本格的に荷を解き始めたので、七海はほっとした。今日の冒険はここまでのようだ。未だ緑の監獄の囚人ではあるが、休憩するということは、少なくともすぐ近くに危険はないのだろう。
 空を仰ぐと、壁に穿たれた巨大な丸穴から、だいだいを帯びた金色に縁取られる薄雲が覗いている。
 久しぶりに空を見た。
 ぼうっとしていた七海は、彼が火鉢に炭を入れるのを見て、何か手伝おうとした。ところが、腿に鋭い痛みが走り、その場にうずくまってしまった。
「七海」
 ランティスは脚を押さえている七海を見て、厳しい眼差しで傍にやってきた。
「あ、平気……待って」
 下半身にかけている外套を奪われそうになり、七海は狼狽えた。外套を両手で押さえていると、今度は上半身を剥かれそうになった。
「待って、脱がさないで」
 両腕を自分の躰に巻きつけるが、ランティスは手首を掴んで開かせる。
「****、********」
 怪我の心配をしてくれているのは判るが、脂肪のつき過ぎた躰を見られたくなかった。
 碧い眼差しが、七海の躰に注がれる。
 恥ずかしくて顔から火がでそうだったが、あまりに真剣な様子なので、七海も冷静に自分の躰を見おろしてみた。
 ……確かに酷い。あちこちに裂傷と打撲痕があり、腹には、糸で締めあげられた痕がくっきり残っている。
 不意に、おぞましい感触が蘇り、躰がぶるっと震えた。ランティスは優しい手つきで七海の髪を撫でると、掌をあわせて、癒やしの光を生みだした。
「****……」
 清らかな琥珀色の光が、患部に押しあてられる様子を七海は黙って見守った。
 期待した通り、触れられた箇所から温治のような心地良さが拡がっていき、青痣が消えた。彼が触れるところ、捻挫も裂傷もみるみるうちに治っていく。
「すごい……楽になりました。ありがとうございます」
 七海は躰を眺め回しながら、礼を口にした。これで終わりかと思ったが、脚にかけている外套に指をかけられ、七海は躊躇った。
「下はちょっと……」
 無言で首を振るが、ランティスは宥めるように七海の背中を撫でながら、外套を手でどける。
 拒絶の言葉をいいかけたが、血の凝固した大腿を見て、黙りこんだ。痛々しくて見ていられず、七海はランティスの胸に顔を押しつけた。
「*****」
 ランティスは治癒を続けた。
 大腿に触れた掌から、心地良い温もりが広がっていき、じくじくとした鈍い痛みが消えていく。
「ぁ……っ」
 けれども、ってはならぬ官能まで呼び醒まされ、七海は小さく喘いだ。慌てて唇を噛み締めたが、ランティスの手が止まっている。
「……ごめんなさい」
 消え入りそうな声で七海はいった。羞恥で死ねそうだ。ランティスは治療を再開してくれたが、彼の掌からもたらされる熱に、全身が甘く痺れた。
「あぁっ」
 あえぎの声が唇からこぼれると、腿に置かれた手に少しだけ、力がこめられた。
「あのっ」
 七海はぱちっと目を開いて、ランティスの腕を掴んだ。
 青い瞳はぞくっとする熱っぽくて、七海の鼓動は早鐘を打ち始めた。
 この際どい治療行為に、彼も興奮している?
 それは居心地の悪いような、ある種の期待感のような複雑な感情を七海にもたらした。
 ほんの数秒の間に、様々なことを想像した。
 彼の形のよい鼻の頭が、七海のむっちりした腿に埋まり、茂みをかきわけて……尖らせた舌先で、性器の肉を押し開く。奥から熱い蜜が湧きだして、彼のしなやかな指が蜜をからませつつ、そっとなかに挿入はいってくる……優しく、愛してくれる。
 彼の優しい情熱的な愛撫が、七海の身も心も深く満たしてくれる……
 束の間のてのない妄想は、彼がそっと手を離し、あられもない下半身に外套をかけてくれたことでかき消えた。
(嗚呼、もう私ったらなんて妄想を……っ)
 無知蒙昧もうまいな七海の庇護者に、無償で治療してくれる高潔なランティスに、超属した美しいひとに、欲望を抱くなんて!
 彼の瞳が情欲にかげって見えたのも、七海の願望が生みだした捏造ねつぞうに違いない。
(私、ランティスさんに惹かれている……だけど彼は、力を貸してくれているだけなのよ……私、勘違いしちゃダメなんだわ)
 自信のなさ故――何百、千、万と繰り返してきた戒めの呪文を、七海は自分にかけた。
 七海が、両手に顔を沈めて打ちひしがれている間も、ランティスは献身的に看護をしてくれた。
 いい香りに七海が顔をあげると、彼は銀のたらいに湯を張り、魔法で蜂蜜色に変えていた。
「わ、お湯だ……メトル?」
はいィオ
 青花ルピナスのいい香りが漂う。
 さらに彼は、固形石鹸と綿タオルを渡してくれた。籐で編まれた衝立を置いてくれて、着替えも引っ掛けてくれた。
 七海は目頭が熱くなるのを感じた。七海の気持を察して、手間をかけて湯を用意してくれたのだ。頭がさがる思いだった。
「ありがとうございます、ランティスさん」
どういたしましてエフリハーノ
 悪鬼羅刹あっきらせつ魑魅魍魎ちみもうりょう跳梁跋扈ちょうりょうばっこするこの迷宮で、ランティスという魔法遣いに出会えたことだけは、神に感謝してもいい。
 湯に入った七海は、髪から指先まで必死に洗った。魔法スプールで清められているが、蜘蛛の粘膜、汚穢おわいを全身全霊で拒絶するように何遍も湯で洗い流した。
 もう、金輪際、蜘蛛は見たくない。絶対に。
 小さくても厭なのに、あの大きさはありえない。いっそ記憶喪失になりたいが、生々しく網膜に焼きついてしまっている。
 満足いくまで湯を使わせてもらうと、荒んでいた心もだいぶ潤った。全身を石鹸のいい匂いに包まれて、吐息までも花の蜜の味を感じる。
 ようやく自分の状態に満足し、麻布で躰を拭いて、清潔な衣装に着替えると、生き返った心地がした。
 ありがたいことに、大気も心地良い涼しさに調整されている。これも彼の魔法に違いない。おかげで湯浴みした傍から、汗だくにならずに済んだ。
 白繻子の半袖の上着を羽織って、そろそろと衝立からでていくと、乳酪バターのいい匂いが漂ってきた。
「着替えありがとうございます……」
 濡れた髪を拭きながら声をかけると、振り向いたランティスは小さく頷いた。
 彼は、指輪を嵌めた人差し指と中指で文字を描くように閃かせた。
 すると、柔らかな春風が七海の頭を包みこみ、たちまち乾いたので、七海は驚きの笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
 ランティスは無言で首肯すると、手元に視線を戻した。
 彼の作る料理に、興味をひきつけられずにはいられなかった。あの森で採集した食材を調理しているのだ。
 平たい焙烙ほうろくに塩と松葉を敷き、白身魚と貝、松茸、銀杏を配し、酒を垂らして蒸し焼きにし、檸檬のような柑橘を絞る。
「うわぁ、美味しそう」
 七海は、思わずはしゃいだ声をあげた。
どうぞプレ
 さしだされた椀を受け取りながら、七海は考えた。
「……これは何ですか?」
 椀の端に、海老のようなものが原型を留めて添えられている。湯気がたって美味しそうではあるが、紫に白い斑模様という、なかなか奇抜な色をしている。
「コジャ、**********」
 コジャ……海老に似ているが、あのジャングルに生息する生物と思うと、警戒心が芽生えてしまう。
 だが、せっかく手料理を振る舞ってくれる彼に、そんな態度は言語道断。表情に気をつけながら口をつけようとした時、またしても警告めいた囁きが聴こえた。

“食べてはだめよ”

 動揺してうっかり底を掌で支えてしまい、熱くて、手を離してしまった。あっと思った時には遅く、皿は石にあたって砕け散った。
「ごめんなさいっ!!」
 七海は血相を変えて屈みこんだ。
 皿はもう粉々で、せっかく綺麗に盛りつけされた料理も台無しになってしまった。
(いい加減にしてよッ!!)
 顔も知らぬ相手に、強烈な怒りがほとばしった。気まずいと感じたのか、目に見えぬ幽霊は意識の奥へ溶け消えた。
 自分の失態に打ちのめされながら、割れた破片を拾おうとする七海の手を、ランティスが掴んだ。
「***、ダイジョウブ?」
 声に案じる響きが滲んでいた。叱られないことが、七海の罪悪感に拍車をかけた。
「ごめんなさい、ランティスさん。せっかく作ってくれたのに……」
 泣きそうな様子を見て、ランティスは七海の頭をそっと撫でた。
 こんなにも優しい人に対して、どうして警句を発するのだろう?
 飲んだり食べたりするたびに、正体不明の幻聴がきこえるのは、どういう理屈なのだろう?
 ……自分は頭がおかしくなってしまったのだろうか。
 この塔は、実はとても高所にあるから、幻聴や幻視といった、高山病のような症状をきたしているのかもしれない。
 腑に落ちないが、飲食しなければかつえるし、世話になっておきながら、彼の親切を無下にはできない。
「****、********」
 気にしないで。というようにランティスは七海を立たせ、割れた破片を片付け、新しい皿に料理をよそってくれた。
「ありがとうございます」
 この海老もどきコジャの正体が何であれ、絶対に完食しなければならない。それがランティスに対する、最低限の礼儀だ。
 ありったけの勇気を奮い起こして、七海は、コジャを口に放りこんだ。
 決死の覚悟だったが、皮はぱりっと香ばしく、ほくほくとした白い身を一口食べた途端に、相好を崩した。
「美味しい……」
 想像よりも、しゃきしゃきした歯ごたえで、とっても美味しい。これのどこが毒なのだ?
 眉間の皺を和らげた七海を見、ランティスも穏やかな表情で訪ねた。
「オイシイ?」
「はい! 美味しいです」
 満面の笑みで七海は返事をした。彼の言葉も嬉しくて、美味しさに拍車をかける。
 そのあとに供される揚げ物も素晴らしかった。
 海老コジャじゃがいもタプラをすりつぶした粉揚こあげ、緑野菜と木の実の揚。
 これらの揚げ物を、笹を敷き詰めた籐の籠に配されているのだから、まさに自然の恵みだ。
 最初は警戒していた七海だが、美味しいと判るや、餓えた狼のようにがつがつ食べた。
 朝からまともに食べていないし、一日中動き回ったせいで、腹が空いているのだ。
「******?」
 美味しかった? と訊かれたようで、七海は満面の笑みで頷いた。
「もう最高に美味しかったです。ランティスさん、お料理の天才ですね! 素晴らしいラーチェ!」
 万歳で喜びを表現すると、ランティスはそっと視線を逸らした。照れている姿が新鮮で、七海の胸は高鳴る。思わず美しい顔を凝視してしまい、視線がぶつかると今度は七海が照れた。
 自然の恵みをたっぷり堪能したあと、ランティスは薬草茶を煎れてくれた。七海がぴりっとした違和感を覚えることが判っているのか、蜂蜜を銀匙にたっぷりすくって溶かしてくれた。
 それから、柑橘の甘味も振る舞ってくれた。
 棗椰子の実と乾燥した木苺とでくるんだ杏に、焼き砂糖を加えて油状にした果実シロップをかけたもので、すこぶる美味しかった。
 満腹になり、大樹にもたれてぼんやりしていると、ランティスが七海の肩を叩いた。
「はい?」
「****」
 彼が指差す方に目を向けると、花の蕾がふんわりと開いていき、淡い燐光が溢れだした。
「わぁ、綺麗……」
 おぞましいばかりの熱帯地獄と思っていたけれど、これは胸踊る妖異だ。思わず見入ってしまう。
 ……本当に摩訶不思議な場所である。
 未知の脅威と原始的な最低生活、そして三次元と文明を超越した魔法とが、奇妙に混淆こんこうしている現状とに、奇妙な愉快さを覚えずにはいられない。
 神秘的な草花を眺めていると、食後の快い倦怠に眠気を催した。
 言葉の教材を取りだそうとしていたランティスは、あくびを噛み殺す七海を見て、再び異次元空間に収納した。
「すみません、眠くて……」
 申し訳なく思うが、今日は疲れていて、もう眠ってしまいたい……
 うとうとしていると、氷が溶けるような、涼しげな魔法の発現の音が聴こえた。
 期待した通り、ランティスは柔らかいクッションに毛布を取りだし、簡易的な寝床を整えてくれた。
「ありがとうございます」
 隣に腰をおろしたランティスに、肩を抱き寄せられた。いつも無限階段でそうしているように、彼にもたれると、ランティスは身を屈めてきた。さらりと髪が頬に触れて、額にくちづけが贈られる。
「七海、お休みなさいマカラ エルテナ
お休みなさいマカラ エルテナ、ランティスさん……」
 七海は目を閉じたまま呟いた。
 今日は散々な目にあったけれど、彼のおかげで、最悪な気分のまま終わらずに済んだ。
 清潔にしてくれて、美味しい料理を振る舞ってくれて、恐るべき忍耐で、七海の失敗を責めることもしない。こうして安全な寝床も提供してくれて……
(ん?)
 暗黒階段と違って、安定した大地の上にいるのだから、何も寄り添って眠る必要はないのでは?
 ふと疑問に思ったが、すぐに納得した。寄り添っていた方が安心するし、ランティスも何もいわないのだから、このままでいいか……と、七海は考えることをやめて、しばしの眠りに就いた。