DAWN FANTASY

2章:最後の黄金 - 3 -

 生理の件があってから、ランティスは今まで以上に細やかな配慮を示してくれるようになった。
 着替えや布や紙の詰まった荷袋を持たせてくれたのだ。日本製の生理用品とはいかないが、柔らかくて清潔な綿をくれたので、丸めて陰部におしこみ、下着にも布を当てることができた。ありがたいことに、毛糸の腹巻きまである。
 男性にここまで気遣わせてしまう羞恥もあるが、現実的に非常に助かる。
 汚物も包み紙にくるんで、魔法でまとめて燃やしてくれるので、あなぐら生活でも、どうにか憂鬱な生理を終えることができた。
 体調は良くなったが、状況に進展はない。
 相変わらず暗黒世界の住人である。姿なき悲鳴や、服や髪を引っ張られるくらいの怪異では、もう驚かなくなりつつある。
 恐怖への耐性を身につけても、途切れることのない単調さには参っていた。ランティスがいなければとっくに気が狂っているだろう。
 ずっと変化が訪れなかったが、唐突に、異妖な扉が顕れた。
 相変わらず、階段にぽつんと設置されている。
 この扉を開いて変化があるとは思えないが、前回は、開けた先で火焔狼コゥダリに相対峙したのだ。
 あの時の恐怖を思うと、七海はとても扉に近づけなかったが、恐れを知らぬランティスは違った。七海の手をとって、さっさと脚を踏み入れてしまった。
「ぅわぁ……」
 入った瞬間、七海は唖然となった。
 したたり落ちる緑の密生した森林。
 木々は高く真っ直ぐに聳え、蒸し風呂のような、むわっとした空気に包まれた。ねっとりしていて、肌の表面に細かな汗の粒が浮かびあがってくる。
 湿った土の匂い。梢のざわめき、鳥獣の声が聞こえる。
 辺り一面に、けばけばしい花が咲き乱れて背を超えるほどに高い茎の先には、青、白、赤、様々な色の花びらがひらめいている。美しいというよりは、凶々しく、うねる榕樹ようじゅの枝にとまる極彩色の鳥や爬虫類までもが、害意をもって睥睨しているように感じられた。
 間違ってもスキップして歩きたいというような空間ではない。
 見覚えがあると思ったら、ここはランティスの精神感応テレパシーで視た景だ。
(暗黒階段の次は、緑の監獄というわけね……)
 うんざりするのもむべなるかな。
 時折吹くそよ風が濡れた肌に涼を運んでくるが、ともかく蒸し暑い。
「はぁ、はぁ……」
 まさか暗黒階段が恋しくなるとは思わなかったが、息苦しくて耐えられない。密林にやってきて幾らも経っていないが、ひんやりとした階段に引き返したい気持ちだった。
 密生する背の高い葦のなかへ、迷わず進むランティスの背中に、七海はおっかなびっくり付き従った。
「やだぁ、泥だらけ……」
 足元は湿っていて、歩くたびに泥濘ぬかるみに長靴が沈みこむ。
 だが、文句をいっている場合はではない。後ろをついてくる七海が歩きやすいように、ランティスは魔法で、行く手を阻む草木を叩き切ってくれているのだ。せめて遅れずについていかなければ。
「きゃあっ」
 思った早々、頭上に茂った弦が、七海の髪を引っ張った。悲鳴をあげる七海を振り向いて、ランティスは戻ってきた。
「ごめんなさいっ、からまっちゃって……あ、切っちゃっていいです」
 丁寧にほどこうとするランティスを見て、七海は慌てていった。
「******」
 彼は首を振り、器用に弦から髪を解いた。それから外套のフードをかぶせて、七海の目を覗きこんできた。確かに、最初からこうするべきだった。
「ありがとうございます」
どういたしましてエフリハーノ
 ランティスは小さく頷くと、再び歩き始めた。
 暑くて、意識が朦朧としてくる。
 額から垂れる汗を拭いながら、灌木の隙間をくぐり抜けると、ブンブンと不気味な羽音が聞こえた。
 顔をあげた七海は、ひゅっと息を呑みこんだ。
 椰子の木に、巨大な蜂の巣がある。
 その周囲を、指の長さほどもある毒針をもつ巨大な蜂が、飛び交っているのだ。
 あんな凶悪な蜂はお目にかかったことがない。
 うだる暑さなのに背筋がぞくりとして、首筋を厭な汗が伝う。恐怖のあまり、七海はランティスの背中にひっついた。彼は、杖を遠ざけるように腕を伸ばし、危ないよ、といいたげに七海を見た。
「ご、ごめんなさい」
 でも蜂が。そんな気持ちをこめて、見つめ返す。
 ランティスは巣を見て、七海の顔を見た。唇に指をあて、静かにと合図する。七海は空気を動かすことも恐れるように、そっと頷いた。
 ランティスは杖を持っていない方の手で、七海の手を引いた。その手に勇気をもらい、七海は細心の注意を払って、抜足差足ぬきあしさしあしで、丁寧に、静かに歩いた。
 葦のたてるかすかな葉擦れの音に、肝が冷えそうだ。
 あの巨体も恐怖だが、彼等の特性も恐ろしい。毒針を持つ蜂は、巣を守るためなら死を厭わない攻撃性を秘めているのだ。
 緊張を強いられる一瞬一瞬、慎重な足取りで、蜂の巣から静かに遠ざかっていく。
 無事にやり過ごした時、安堵のあまり、四肢の筋肉が液状化したように感じられた。
(あぁ、怖かったよぉ~~……)
 こんなところ早くさようならしたいが、視界一面をしたたり落ちるような緑に囲まれている。
 このジャングルに生息する、草花、虫の全てが大きい。
 迷わず進んでいくランティスの背中を見つめながら、七海は改めて畏敬の念を抱いた。このひとは、どんな時にも平常心を喪わず淡々と進んでいく。彼にできないことや、怖いものはあるのだろうか?
 ひらひらと鮮やかな蝶が舞っている。七海の知っている蝶より、ずっと大きい。蝶や蛾が苦手な七海にとって、視覚的な恐怖を覚えずにはいられなかった。
「ひぇ、気持ち悪……」
 どっちを向いても、厭悪感に駆られる。
 歩くごとに額から流れる汗を、手の甲でぬぐわねばならない。喉が耐え難いほど渇いて、頭がくらくらする。
(……すごいなぁ、ランティスさん。全然動じてない。暑くないのかなぁ?)
 じっと背中を見つめていると、涼しげな顔でランティスが振り向いた。
「七海、ダイジョウブ?」
「なんとか……」
 強張った笑みをどう受け止めたのか、ランティスは、指輪を嵌めた右手の甲に、左手の掌で空気を撫でるように、さっと閃かせた。
 するときらきらと光が溢れて、細長い白繻子が現われた。それをどうするのか見ていると、両端をそっと掴み、七海の方へ身を寄せた。
「何?」
 思わず仰け反る七海の首に、彼は白繻子を巻きつけた。冷凍庫に入っていたみたいにひんやりと感動的に冷たく、七海は破顔した。
「うわぁ、冷た~い。気持ちいい、ありがとうございます」
 ランティスはさらに白鑞しろめの魔法瓶を取りだすと、器に冷えた水を注いで渡してくれた。

“飲まないで。毒よ”

 伸ばした手が途中で止まってしまい、ランティスが不思議そうに見ている。七海はぎこちなく微笑すると、器を受け取った。
「……いただきます」
 ぴりっとした舌触りに既視感を覚えるが、彼には並々ならぬ恩があるのだ。これが毒だというのなら煽ってやろうじゃないの、と一気に飲み干した。
「ありがとうございます」
 ぷはっと息をついて器を返すと、彼もその器に冷水を注いで口をつけた。
 注意深く見守ってしまった七海は、碧氷の眸と視線があい、慌てて目を逸した。
(馬鹿ね、幻聴を真に受けてどうするのよ)
 ランティスが優雅に指輪を閃かせると、魔法瓶は燐光と共に、別次元へ消えた。
 そのあとしばらく、二人共無言で森を探索した。
 彼は、この森にも非常に精通しているようだった。時折脚を止めては、木の実や草花を採取している。灌木から生えている万年茸を採取する様子を見て、彼が日頃飲ませてくれる霊芝茶れいしちゃの正体が判った気がした。
 さらに丸い小池では、不思議な仕掛けで、ますほどの魚を器用に捕獲し、氷みたいな半透明の巨大な異次元冷凍庫にしまいこんでいた。
(なるほど、こうやって食料を調達していたのか……)
 七海が怯えるばかりの塔で、彼はなんとたくましく生活していることか。
 彼が草を短剣で刈るのを見て、七海も手伝おうとした。ところが、両脚を踏ん張って引っ張っても、根が深くてちっとも抜けない。
ぅっ」
 鋭い痛みに七海は呻いた。
 開いた掌に、葉の擦り潰れた緑に混じって、赤い線が走っている。
「七海」
 ランティスは駆け寄ってきた。掌に視線を落として、眉を寄せる。
「ごめんなさい、手伝おうと思ったんですが……」
 七海は気まずそうにいった。
 ランティスは両の掌をあわせ、ゆっくり開くと、琥珀色の暖かな光が溢れだした。その清らかな光を、そっと七海の掌に乗せると、みるみるまに傷が癒えていく。
「すごい……」
 感嘆する七海に、ランティスは諭すような眼差しを向けた。
「七海。*****、待てゼノ*****。****?」
 声の調子や状況から、彼が勝手に動くな、じっとしていなさい、といっていることは判った。
「はい……」
 しゅんとなって、七海は頷いた。
 残念だが、ここでも役立てそうにない。
 その場に膝を抱えて座りこみ、採取を続けるランティスの背中を、ぼんやり見守っていると、突然、何かが迫ってくる音と気配を背後に感じた。
 振り向いた瞬間、七海は凍りついた。
 ありえないほど巨大な八つ目の蜘蛛が、眼前に迫っている。
 つんと鼻にくる匂い、心底ぞっとする醜悪な巨体に、全身に悪寒がはしり抜けた。
 硬直する七海を嘲るように、ギチギチと啼いている――糸に絡め捕らわれた瞬間、七海は失神しかけた。
 すぐに目は醒めたが、ものすごい勢いで地面は遠ざかっていく。脚が宙を蹴る。
「いやぁッ!!」
 死にもの狂いで暴れるが、万力のような糸を振り解けない。
 頸にかけたペンダントが抜け落ちて落下していく。たちまち宙吊りにされて、靴ごとズボンを引きずり脱がされた。下半身は下着一枚のあられもない姿で、素肌にひんやりとした糸が絡まると、かつて味わったことのない恐怖に襲われた。
「厭ァッ! ランティスさん!」
 涙の入り混じった悲鳴が、熱帯の空気に拡がる。
 蜘蛛が細い糸を噴射しながら、ゆっくり獲物に近づいてくる。
 もがけばもがくほど糸はからまる。両腕の自由は完全に奪われ、捕獲された虫になった気分だ。
 必死に脚をばたつかせ、糸の拘束が緩んだ右足を、力いっぱい蹴りあげた。
「ギィッ!」
 脚裏が、蜘蛛の顔面を直撃し、怪物が呻く。七海は必死に攻撃を繰り返したが、警戒するように顔をひっこめてしまった。
 今の衝撃で糸の数本が切れたが、蜘蛛の巣を破壊するには至らない。蜘蛛は長い手足でバランスをとり、再び警戒しながら近づいてくる。
「やだ、やめて、こないで!」
 半狂乱で叫ぶ七海に、しゅっと糸が巻きつく。脚の自由を奪われ、広げられる。七海の顔は恐怖と屈辱に染まった。こちらの苦境を察したように、蜘蛛は悠々と近づいてくる。
「やめて! こないでよッ」
 殺される。酷いことをされる。怖い。怖い。怖い。
 絶望に支配された時、青い焔が燃えあがった。
 火炎熱波が下から噴きあげてくる。火の粉を舞い散らせながら渦巻く火焔に、蜘蛛の巣が溶けていく。
「ぁ、あつっ」
 悲鳴をあげようとした七海は、喉に入りこんだ熱気に息を喘がせた。唇が乾いて、表面の皮がぴりぴりする。剥きだしの肌に汗が滑り落ちる。
 くらりと目眩を覚えた時、四肢の拘束が緩んだ。ぐいっと躰を持ちあげあられる。目を開けると、ランティスに抱きかかえられていた。
 助けにきてくれた――意識が落ちる刹那、彼の背中に、美しい玻璃の羽が拡がっているように見えた。