DAWN FANTASY

1章:心臓に茨、手に角燈 - 7 -

 驚くほど明るい、開放された空間である。
 壁に穿たれた採光窓から蜂蜜のような夕陽が射しこみ、金雀花えにしだの茂みをいっそう琥珀色に輝かせている。
「わぁ……」
 恐ろしい魔物が跳梁ちょうりょうする迷宮で、このそのだけ、凶々しさから切り離されているようだ。
 爽やかな空気のなか、潤いと甘さを含み、神聖な静寂に満ちている。
 隣を見ると、ランティスも穏やかな表情をしていた。彼の後ろにつき従いながら、七海は、窓の向こうの光景に目を奪われていた。
(空だ)
 ふらふらと誘蛾灯に誘われるように、窓の方へ歩いていった。
 下を見れば、たなびく雲の下、茜に染まった森が拡がっている。
 上を見れば、荘厳な黄昏の空がどこまでも続いている。
「高い……」
 ずっと暗闇にとざされていたから、地上なのか地下なのか判別つかなかったが、驚くほど高所にいるようだ。
 空が驚くほど近い。
 天蓋てんがいの濃い群青などは、宇宙そらが透けて見えそうなほどだ。
 はっと閃くものがあり、七海は驚きに目を瞠った。
(この塔、精神感応テレパシーで視たのと同じ?)
 斜陽を浴びてきらめく外壁に、蔦や木の根が絡まっている……ランティスに共有された景観と同じだ。
 周辺の森をよく見ると、塔を中心に色褪せた樹々が点綴てんていしている。これも精神感応テレパシーで視た景観と同じである。
(……ランティスさんは森を通って、この塔へやってきたの? 目的は?)
 動悸を覚えると同時に、平然と呼吸できることに疑問を覚えた。
 これほどの高所なら、空気は地上よりもずっと希薄なはずだ。気温も氷点下だろうし、外套を羽織っているとはいえ、部屋着姿の七海が平気でいられるはずがない。
 それなのに、ひんやりと清涼な空気を感じるが、凍えるほどではない……
 必死に冷静になろうとするが、絶望感が募るばかりだった。地球のどこにも、これほど高い建物は存在しない。肉眼で銀河星雲が見えるはずもない。
 いったい自分は今、どこにいるのだろう?
 色々なことがいっぺんに起こり過ぎて、思考回路がうまく働かない。
 これまでの人生で、これほどよるべない気持ちになったのは、初めてだった。
 一人ぼっち――そう感じた途端に、全身からふぅっと力が抜けていくような、虚脱感に襲われた。
 呆然と立ち尽くす七海の隣に、ランティスは並んだ。
「*****、**********」
 この景観への説明をくれたような気がするが、内容は不明である。
 七海は黙ったまま、力なくかぶりを振った。
 ランティスは七海を見つめてきた。澄み透るような碧氷に、黄昏が映りこんで燦めいている。この世に二つとない稀有けうな瞳に、思い遣りの色が浮かんでいた。
「****、********……」
 気遣いの言葉をかけてくれたように感じられて、ありがとう、と七海は小さく頷いた。
 ランティスは片腕で七海の肩をそっと抱くと、部屋のなか、幻想的な光景に向きあわせた。
 広い空間の中央に、幾星霜いくせいそうを知る宇宙樹ユグドラシル凝然ぎょうぜんと聳えている。
 太古の樹々に蔦が絡みつき、その幹は真っ直ぐ天蓋にまるく穿たれた穴の向こうまで伸びている。
 この大樹も、ランティスの精神感応テレパシーで視たものだ。あの時感じたように、以前から知っているような、奇妙な邂逅感を覚えた。
(どうして懐かしく思うのだろう。どこで見たんだっけ……?)
 樹冠のしたまでいくと、ランティスは七海の肩から手を離した。幹の前に立ち、敬意を表すように掌と額を幹に押しあてている。
 聖なる大樹も彼を歓迎するかのように、星屑のような燐光を放ち、葉擦れの涼やかな音色を、鈴のように響かせている。
 神聖で厳粛な空気が漂うなか、七海は場違いな焦燥に駆られた。
 忘れていた諸々の躰の欲求が、ここへきて主張し始めたのだ。
 随分と汗をかいたし、風呂とはいわないが、せめて清拭せいしきしたい。何より、切羽詰まった生理現象をどうにかしたい。
(うっ……どうしよう、お手洗いにいきたいっ)
 女子の一大事だが、この謎の遺跡に水洗トイレがあるとも思えない。
 そわそわしている七海を見て、ランティスは頸を傾げた。
「すみません、トイレにいきたいのですが……ありませんよねぇ……」
 困り顔で腹を押さえる七海を見て、ランティスは思案げに手を伸ばしてきた。肩に手を置いて、顔を覗きこもうとする。
「あ、痛いわけじゃないんです。ただトイレにいきたくて……うー、どうしよぅ」
 悲しくなるほど意思疎通ができない。
 泣きそうになりながら視線を彷徨わせていると、ふっと視界に影が射した。顔をあげると、思ったより近くにランティスの顔があった。
 涼しげな碧い瞳のなかに、きらっと緑のきらめきが顕れて、思いがけず七海は見惚れてしまった。
「*******スプール」
 ランティスが呪文を唱えた途端に、きらきらと真珠母貝のようなきらめきに、七海は包みこまれた。
「え、何これ?」
 全身を淡い光に包まれて、躰のなかを何かが通り抜けていく。細胞の一つ一つが謳いだし、血流のめぐりが熱くなり、四肢の疲れがとれていく……
 きらめきが収束した時、七海は自分の状態変化に驚いた。
 気の所為ではなく、全身が綺麗になっている。
 髪は艷めいて潤いがあり、表面の肌が一枚剥がれて、清浄で無垢な肌が顕れたようにしっとりしている。
 これまでに体験したどんなエステよりも、一目瞭然の効果である。おまけに尿意までもが消失していた。
「すごい……これも魔法?」
 よく見れば、手の甲の小さな火傷すらも完治している。だいぶ前に負った火傷で、既に痛みはないが、皮膚はうっすら朱く、もとの肌色に癒えるまでに時間がかかりそうだったのに。
 自分の躰をぺたぺた触りながら、驚き、不思議がる七海を見て、ランティスはくすりと微笑した。
(笑った!!)
 すぐにもとの冷めた表情に戻ってしまったが、七海は、彼の顔から目を離せなかった。
 今まで彼のことを、温厚で親切だけれど表情に乏しい無機質な人……そう思っていたのに、なんて魅力的な笑顔なのだろう。
(もう一度笑ってくれないかな)
 期待して見ていると、ランティスは不思議そうに小首を傾げた。
 七海は笑って誤魔化しながら、改めて自分の状態を確認した。
 驚いたことに、綺麗になったのは髪や肌だけではなく、身に纏った衣までもが清潔になっている。
 素晴らしく便利な魔法だが、“スプール”という魔法概念が存在することに、不安を覚えてしまう。
(……やっぱり、ここにはトイレやお風呂がないのかな)
 今後生理的な事情が発生する度に、彼のお世話になるのかと想像して、介護されているような居心地の悪さが胸に射したが、無理矢理に蓋をした。心配すべきことは他に多々ある。
 七海が葛藤している間も、ランティスによる魔法劇場は続いている。
 彼は杖をかざして、複雑精緻な魔法陣を出現させると、そこから様々なもの――てんの毛皮の縁取りをした絹の織敷物、燃える炭の入った陶磁の火鉢、鍋や椀や調理器具といった物資を、異次元から取りだした。
 ランティスが何もないところから何かを取りだすことに、七海は驚かなくなりつつあった。
 ひとしきり必要なものをだし終えると、ランティスは白鑞しろめ薬鑵やかん宇宙樹ユグドラシルの傍にある泉の湯を淹れて、火鉢にかけた。
 間もなく白い煙が宙を揺蕩たゆたい始めると、茴香ういきょうを茶しに入れて、湯呑にかけた。
 期待顔で眺めていた七海は、湯呑がさしだされると、泣きべそともつかぬ顔で受け取った。
「ありがとうございます……」
 口に含むと、またしても舌にぴりっとした違和感を覚えるが、喉を潤おしてくれる。
 無心になって煎じ茶をゆっくり啜りながら、宇宙樹ユグドラシルの幹に背を預けた。
 きらきらと碧の樹冠がきらめいて、あたかも自分が実物大のスノードームのなかにいるような気がしてくる。
 葉擦れの涼やかな音色は、何かを語りかけているように感じられるが、その正体は判らない。判らないが、見ているだけで不思議と癒やされる。
 傍にやってきたランティスは、屈みこんで、力なく垂れていた七海の手を、そっとすくいあげるようにとった。
「ランティスさん?」
「**********……」
 どきまきしている七海の掌に、ランティスは、金平糖の色形をした固形物を、幾つか乗せた。
「これは?」
 七海は掌の中身と、ランティスの顔を交互に見つめた。
「キヤラ」
 彼は七海の掌から一つを摘み、自分の口に入れてみせた。
(キヤラ? お菓子?)
 七海は、固形物の一つを指に摘んで、匂いを嗅いでみた。仄甘い匂いがする。
「いただきます」
 口に放りこむと、優しい甘味が口いっぱいに拡がり、七海は目を輝かせた。にっこりしてランティスを見ると、碧眼がふっと笑う。
「ありがとうございます。美味しい」
 甘い金平糖は、疲労を癒やす絶大な効果を秘めていた。何よりも、彼の気遣いが嬉しい。鑑賞に値する美しい微笑も目の保養だ。
(……ランティスさんは、どうしてここにいるのだろう?)
 明らかに彼は、この塔に慣れている。
 少なくとも無計画に歩いているわけでも、七海のように迷いこんでしまったわけではなさそうだ。何か、目的があってこの塔にいるのだろうか?
 彼の冷静さは、過酷な塔の暮らしで醸成されたのかもしれないが、生来備わっている資質のようにも思う。
 かといって人に冷たいわけではなく、とても親切にしてくれる。彼の行動は一貫して勇敢であり、冷静で、思い遣りが感じられる。困惑や狼狽のたびに、安易に笑ってごまかそうとする七海とは大違いだ。
(……どうして、私を助けてくれるのだろう?)
 初めて見た時から、理屈ではない、引かれあう魂のような、目には見えぬ不思議な縁を感じている。その正体は判らないが、このわけの判らない状況で、彼の存在が唯一の希望であることに違いはない。
 刻一刻と空は暮れていき、夜闇の訪れと共に、極めて壮麗な星空に覆われた。
 これまでに数えきれないほど夜空を見てきたし、いちいち意識したこともなかったけれど、今この瞬間、呼吸すら忘れてしまいそうだった。
 星が綺麗。
 星が綺麗。
 星が綺麗。
 群青色の空に、恐ろしいほど、無数の星が瞬いている。
 地球では絶対にお目にかかれない、渦巻く星雲状銀河。
 THE・FANTASYの世界。
 あまりに幻想的で、これが夢であるのか、現実であるのか、七海は再び区別がつかなくなった。
 目が醒めたら、見慣れた自分の部屋であってほしい。
 そうねがう一方で、いざ目が醒めたら、ランティスが夢の住人と知ってがっかりするに違いない……そんな気がした。
 硬い石床で眠れるか心配していたが、杞憂だった。
 頼りになる魔法遣いは、毛布や枕といった夜具を異次元から取りだし、柔らかな寝床を調えてくれた。
 厚い絨毯のうえに、低反発性の敷物を置いて、毛布に枕も置いてくれた。
「お布団だぁ……」
 疲れ切っている七海にとって、その寝床はひどく魅力的に見えた。
 ありがたく横になる七海の隣で、ランティスも幹にクッションを置いて、もたれた。襟元を緩め、髪をたばねて片側に垂らしている。見事な白銀髪が肩からこぼれ落ちて、芸術的な横顔の輪郭を引き立たせた。
 男性のしどけない姿に見惚れていた七海は、目があうと、慌てて毛布をかぶった。
 心臓がドキドキして眠れないんじゃないかと思ったが、すぐに疲労困憊の深い眠りに誘われた。