DAWN FANTASY

1章:心臓に茨、手に角燈 - 5 -

 休憩した後、再び階段をおり始めた。
 時間の感覚は曖昧で、半刻も経っていないような気もするし、数時間が過ぎたようにも感じる。
 無心で脚を交互に繰りだす動作をしていると、なんだか思考がおぼろになっていく。
 空気は冷たいが、肌が汗ばんで息切れし始めた頃、不意に、階段の奥で何かが蠢いた。
「ひっ」
 七海は息を飲み、命綱のように角燈ランタンを握りしめた。
 木の根が腐ったような腐葉土ふようどの匂い。きぃ、ぎぃ、と不気味な鳴き声が聞こえる。
「*****」
 ランティスは七海を背にかばうと、杖を掲げた。清らかつ鋭い閃光が黒いわだかまりを貫いて、転瞬てんしゅん、正体不明の瘴気は霧散した。
「……何、今の」
 がたがた震える七海の背を、ランティスは宥めるように撫でた。
「*********」
 彼もさぞ驚いているに違いないと思ったが、その声はとても落ち着いていた。天鵞絨びろうどの柔らかさと、厳格さを併せ持つ男の声。
(なんでそんなに、落ち着いていられるの?)
 疑問を抱いた時、彼は、七海の手を引いて階段をおり始めた。
「えっ、いくんですか」
 七海は色々な意味で狼狽えた。彼がちっとも動揺していない事に、逆に不安を覚えてしまう。頼もしいというより、気味が悪いほど冷静だ。まさか、このような怪異が日常茶飯なのだろうか?
 疑心暗鬼になりながら、戦々兢々と階段を降りていくと、不意に、後ろ髪を引っ張られた。
「っ」
 ぎょっとして振り向くが、誰もいない。闇のなか、何かの息遣いが感じられる。
「ナナミ?」
 ランティスは気遣わしげに立ち止まったが、七海は、あまりの恐怖に言葉がでてこなかった。心臓の鼓動は速くなり、指が震えて、角燈ランタンを落としてしまった。
「あっ!」
 身を乗りだして腕を伸ばす七海を、ランティスは素早く支えた。
「****」
「ごめんなさい! 落としちゃっ……た?」
 果たしてどうやったのか、彼は、七海が落としたはずの角燈ランタンを手に持っていた。どうぞ、と七海に差しだす。
「ありがとうございます……今、どうやったんですか?」
 困惑する七海の手を引いて、ランティスは再び階段をおり始めた。
「……ねぇ、ランティスさん。どこまでおりるんですか?」
 情けない声で七海が訊ねると、ランティスは立ち止まって振り向いた。思慮深い眼差しで七海を見やり、腕を伸ばして、釣鐘外套つりがねがいとうについているフードを七海に被らせた。
「え、あの?」
「******」
 ……少しでも視界の恐怖が減るように、という配慮だろうか?
「……ありがとうございます」
 確かに、これ以上怖い思いはしたくなかったので、七海はフードを被ったまま進むことにした。
 しばらくは何も起きなかったが、またしても唐突に、黒い異形の影が顕れた。
「ぃやだっ」
 四肢と頭を持つ人の姿に近いが、火鉢にくすぶる炭のように、表面は罅割ひびわれ、火焔が散らついている。頭部に目は見当たらないが、大きく開いた口に三重にも牙が連なり、極めて獰悪どうあくつらをしている。
「怖い……っ」
 七海はおののき、ランティスの背にへばりついた。
 今度こそ絶対絶命かと思われたが、魔法使いは冷然と杖を掲げた。
 キィン。涼しげな氷結音と共に、数十もの鋭く尖った氷柱つららを宙に出現させた。
 照準された異形の敵たちは、ぐっと膝を曲げて臨戦態勢を取る。電光石火で飛びかかろうとしたが、きらめく氷の刃に次々と貫かれた。
「ぎぃっ!」
 けたたましい悲鳴があがる。
 串刺しにされた悪鬼どもは、たちまち形状を失い、粉々になって大気に霧散した。
 後には静けさと、暗闇だけが遺された。
 もう何も襲ってこないことを確認して、七海は肩から力を抜いたものの、緊張と緩和の繰り返しにすっかり疲弊していた。
「もぉ厭、なんなのここ……」
 弱音を吐く七海を勇気づけるように、ランティスは肩を抱き寄せた。
「****?」
 恐らく、平気かと聞かれている。
 少しも平気ではなかったが、なんとか頷いた。ただ後ろをついて歩くだけの七海と違って、彼は先導し、危険から護ってくれているのだ。
 しっかりしなさい。己を奮い立たせたが、階段をおりて間もなく、ランティスが立ち止まると、思わず泣きそうになった。
「どうしたんですか……?」
 まさか、また怪物が顕れたのだろうか。
 ランティスは無言で、七海の動きを制した。身構えていると、遠くから、ぶぅんと風を切る音が聴こえた。
 その正体は、なかなか判らなかった。
 理解したのは、眼前を鋼鉄の刃がよぎり、石壁の隙間に吸いこまれた時だ。
 あまりのことに、七海は叫ぶこともできなかった。
 ぶぅん、ぶぅん。
 連鎖するように、幾つもの巨大な斧が暗闇から現われ、振子のように、また暗闇のなかへ溶け消えた。
「ぁ、あっぶな……」
 まさに間一髪。ランティスが止めてくれなければ、巨大な斧に躰を真っ二つにされていた。
 そう思った瞬間、おぞましい幻視に捕らわれた。

“いやだああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁ”

“ぎゃああぁぁぁ痛いいぃぃ……やめてくれえぇぇぇぇぇぇ”

 魂を凍らせるような傷ましい絶叫。
 この場所で、大勢の人たちが連鎖する斧の餌食になり、命を落とした。
 無残に躰を引き裂かれ、頭蓋を粉砕され、臓器をこぼしながら、奈落の底へ落ちていった。
「ぃやっ」
 光る斧がこの胸を突く様を想像し、七海は顔を背けた。びしゃっと全身に血を浴びたような気がした。
「****、ナナミ。****……」
 おこりかかったように震える七海の肩を、ランティスは気遣わしげに抱き寄せた。
「怖い、どうなっているの、何なのここ……っ」
 七海はランティスの胸にすがりついた。昂ぶった神経を落ち着かせようと、頬を彼の胸に押し当てる。
「****、ナナミ」
 胸のなかに逃げてきた七海を、ランティスは護るように抱きしめた。
 規則正しい鼓動を聴きながら、改めて、自分がいる場所に疑問を抱かずにはいられなかった。
 なぜ、このような仕掛けがあるのだろう?
 陽光が決して射すことのない、このてしない黒洞々こくとうとうは、もしかしたら牢獄なのだろうか?
 咎人たちを残酷に傷めつけるために、あらゆるところに拷問の罠が仕掛けられているのだろうか?
(……だとしたら、ランティスさんも罪人なの?)
 その考えはすぐに捨てた。
 出会ったばかりの、それも人智を超えた魔法遣いだが、思慮深く優しい人だと思う。少なくとも残忍な人ではない。それに七海は? 七海も罪人だというのか?
 ここはどこなのか、なぜ七海はここにいるのか、ランティスは何者なのか――何一つ判らない。
 一つ、判っている事があるとすれば、彼は、現在進行形で七海を助けてくれているということだ。