DAWN FANTASY

1章:心臓に茨、手に角燈 - 4 -

 感情の波が静まるにつれ、忘れていた羞恥心が戻ってきた。
(うぅ、恥ずかしい……私ったら、子供じゃないんだから……)
 涙は引いたが、ランティスはまだ七海を抱きしめたままだ。自分の膝の間に座らせて背中から腕を回し、異国の響きの、恐らくは慰めの言葉を囁きながら、髪を撫でている。
(……優しい人だな)
 家族以外で、こんな風に男性から慰められたことはない。少々刺激が強いが、暖かな腕は心地よく、優しい思い遣りに癒やされる。
 もしかしたら彼は、七海をいとけない子供だと思っているのかもしれない。
 アジア人は年齢不詳に見られがちだし、七海は背も低くて丸顔だから、余計に幼く見えるかもしれない。さらに子供のように泣いてしまったあとで、まさか二十九歳の大人だとは思われていない気がする。
(……でも、キスは? 子供だと思っている相手に、あそこまでする? ……ううん、あれは緊急事態だったのよ)
 七海を落ち着かせるための、いわば人命救助だ。勘違いしてはいけない。
 たった今起きたことは――説明しようのない現象だが、彼が七海の窮地を救ってくれたことは判る。
(……あの光景はなんだったんだろう)
 美しい光景もあったが、奇妙な、ぞっとするような光景もあった。
 特に地獄の裂け目から伸ばされたおびただしい手は……もしランティスの記憶を共有されたのだとしたら、彼は、一体どのような状況で、あれを目にしたのだろう?
 頭から消し去りたいのに、忘れられない。現実に見たわけでもない光景が、網膜に焼きついてしまった。
 怖くなって腕を擦っていると、ランティスが顔を覗きこんできた。どきまぎしていると、長い指に前髪をかきわけられ、額に唇が押しあてられた。
「っ!!」
 一気に耳たぶまで赤くなったような気がした。
 向こうは子供を慰めているつもりでも、七海は違う。額に感じた柔らかな感触に、心を奪われてしまう。
 嗚呼、やはりこれは現実なのだ。
 意識は爛ととがり、自分とランティスの存在を、これ以上はないというほど、はっきりと感じている。
「****?」
 ランティスは気遣わしげに囁いた。
 碧氷の眸に、案じる光が灯っている。七海は照れ隠しに、前髪をいじりながら、
「……すみません、泣いたりして。もう平気ですから」
 胸に手をついて立ちあがろうとすると、彼は気遣わしげに七海の肘を支えながら、自分も立ちあがった。
 七海は改めて、周囲を見回した。
 さっきは階段から落ちたと思ったのに、ランティスはどうやって助けてくれたのだろう?
 落ちてから、空間のよじれた混沌とした感覚の間に、一体何があったのだろう?
 問いかけるようにランティスを見ると、彼も、思案げに七海を見つめ返してきた。
「*****、******……******?」
 疑問口調は、どこか彼自身に向けられたような響きがあった。とても冷静に見えるが、たった今起きたことに、彼も戸惑っているのかもしれない。
「ランティスさん、私落ちたのに……どうやって助けてくれたのですか?」
 七海は奈落の底を指さし、それから足元の階段を指さした。
「**********、**********」
「え、えーと? ……ごめんなさい、判らないです」
「*****」
「でもっ、ランティスさんが助けてくれたのでしょう?」
「****、**************……」
 質問に答えてくれた気がするが、さっぱり意味が判らない。
 言葉の通じないもどかしさをランティスも感じたのか、深く、長いため息を漏らすと、階段に腰を落ち着けた。
 どうやら一服することにしたらしい。
 手品みたいに、細長い陶の煙管きせると真鍮の嗅ぎ煙草入れスナッフボックスを取りだし、烟草けむりくさを詰めて火をけている。
 優雅な所作に見惚れていた七海は、目があうと、おずおずとその場に腰をおろした。
(古風な煙草だなぁ……)
 優美な白磁の煙管きせるを眺めていると、彼はぱちんと指を鳴らした。
 宙に、湯気の立つ白鑞しろめ薬鑵やかん、茶し、陶の湯呑と受け皿が顕れた。
 まるで魔法だ。
 透明人間が薬鑵やかんを傾けているかのように、独りでに湯呑に茶しが置かれ、熱湯が注がれていく。
「プレ」
 湯気のたつ湯呑をさしだされ、七海は目を瞬いた。
「私に? いいんですか?」
「プレ」
 どうぞ。そう解釈した七海は、ランティスの表情を確認しながら手を伸ばした。
 琥珀色の……霊芝茶れいしちゃだろうか?
「ありがとうございます……いただきます」
 一口飲むと、熱さのせいか、舌にぴりっとした違和感を覚えた。
 酸味が強すぎて、正直苦手だと感じたが、飲めないことはない。
 ゆっくり、少しずつ飲みながら、足元の小石に目が留まった。なんとなく、つま先で蹴ってみる。
 暗闇の大瀑布だいばくふを覗きこみ、耳を澄ませてみるが、三十秒ほど経っても何も聴こえてこなかった。
(……怖っ。どれだけ深いの?)
 顔をあげると、ランティスと視線がぶつかった。彼は煙管きせるいながら、観察するような目で七海を眺めていた。
「あの、ごちそうさまでした」
 空になった湯呑を渡すと、ランティスは手を伸ばして受け取り、茶器と喫煙道具を魔法のように消し去った。
「消えた……」
 ランティスは、唖然とする七海の手を取って助け起こすと、頭のてっぺんからつま先まで眺めて、碧玉や翡翠の象嵌ぞうがんされた優雅な衣装櫃いしょうびつを異次元から出現させた。
 蓋を開けて無造作に手を突っこみ、次々に衣類を取りだしては、七海と見比べ始めた。
(もしかして、服を貸してくれるのかな?)
 期待しながら見守っていると、金糸で縁取られた深緑色の、上品な頭巾つき釣鐘外套つりがねがいとうを渡してくれた。
「プレ」
「ありがとうございます」
 七海はありがたく受け取った。羽織ってみると、腰丈まであり、生地も縫製もしっかりしていて温かい。
「温かいです。ありがとうございます」
 ランティスは頷き、また別の衣装櫃を出現させた。なかに靴が収納されている。七海にあいそうな靴を物色し、編みあげの革靴を取りだすと、七海の足元にそろえて置いた。
「****、プレ」
 柔らかな繻子の靴下までさしだされて、七海は恐縮しながら受け取った。
「すみません、靴下まで……いてもいいですか?」
「プレ」
 ランティスが頷くのを見て、七海はありがたく靴下を身につけようとした。しかし、身を屈めた途端に腕をとられて、階段に腰掛けた彼の膝上に乗せられた。
「えっ!?」
 仰天する七海の腹に腕を回して、ランティスは七海のつま先の方に手を近づけた。
「*****スプール」
 指輪を嵌めた掌から、琥珀色の光がこぼれだして、七海の脚頸からつま先を包みこんだ。
 いきなり抱っこされて硬直した七海だが、足裏が暖かくなり、爽やかな微風が肌を撫でると、魔法の意味を悟った。
「……もしかして、綺麗にしてくれたんですか?」
 疑問に答えるように、ランティスは七海の手から靴下をとり、自ら履かせようとした。
「うわぁ、待って! 自分で履けますから」
 七海は慌てて靴下を取り返し、膝上から降りようとしたが、腹に腕を回されて阻まれた。
「ナナミ、*****」
 なんとなく注意された気がする。
 せっかく綺麗にしたのだから、素足で床に降りるなといいたいのだろうか?
(やだもう、恥ずかしい)
 さっさと身支度を済ませてしまおうと、七海はランティスの膝に乗ったまま、なるべく最小の動きで靴下を履いて、靴に脚を突っこんだ。
「履けました!」
 ぱっと膝から立ちあがると、今度は阻まれなかった。しかし、彼が身を屈めて靴紐を直そうとするので、七海は再び慌てた。
「はいっ、自分でやります!」
 きちんと靴を履いて、外套の皺を手で伸ばすと、ランティスはようやく納得したように頷いた。
「ありがとうございます、ランティスさん。おかげさまで、落ち着きました」
 外套も靴も、動きやすいし色合いも好みだ。服の偉大さを噛み締めながら、七海は深々と頭をさげた。