DAWN FANTASY

1章:心臓に茨、手に角燈 - 3 -

 柔らかな感触に、七海の思考は完全に停止した。
 抗うことも忘れて、尖らせた舌に唇を割られてしまう。舌が挿しいれられ、逃げ惑う舌をそっと撫でると、全身が甘く痺れた。
「んぅ……」
 あえかな声が喉の奥から漏れて、七海は我に返った。
 腕を突っ張って距離を取ろうと試みるが、膂力りょりょくの差は圧倒的で、びくともしない。細身に見えて意外に逞しい腕で七海を押さえこみ、唇を斜めに押しつけてくる。
「ん……ふぁっ」
 信じられないほど艶めかしい水音が、鼓膜を打った。
 こんな風にキスをするのは、生まれて初めて――どきどきするあまり呼吸もままならない。
 なぜ?
 頭のなかを無数の疑問符が飛び交う。
 どうしていいか判らず、彼の腕を掴むと、大きな掌が七海の背を愛撫し、腰をぐっと引き寄せた。くちづけはさらに深くなって、味わうように舌を搦めて、ゆっくりと吸われる。
(気持ちいい……)
 性欲とは無縁そうな超俗した美貌だが、驚くほど巧みなキスをされている。唇を柔らかく食み、舌を搦めて、口腔のそちこちを刺激されると、お酒に酔ったみたいにふわふわする。
(ふあぁ……知らなかった。キスって、こんなに気持ちいいんだァ……)
 軟体生物になってしまったかのように、躰に力が入らない。厚い衣を通しても判る肌の熱気、異国的でうっとりするような匂いが、七海の五感を刺激し、躰の芯に熱を灯していく。
 それだけではない。驚いたことに、深いくちづけをかわすうちに、こわれかけていた躰と精神が、まとまろうとするのを感じた。
 狂気的な多重思考が落ち着いていく。
 不安定だった躰も安定していき、流砂のような分裂衝動が鎮まっていく。
 そのことに気がついて、七海も積極的に舌を絡めた。永遠にこうしていたいとすら思う。
 唇は甘いだけでなく、秘めた意志が感じられた。その正体は、舌を搦めるうちに悟った。不思議な光景が眼裏まなうらに閃いたのだ。
(え……?)
 枯れた樹々……森が視える。
 灰色の空のした、荒涼とした森に、蒼古そうことした巨大建築物、円柱形の塔が聳え立っている。
 巨石を積みあげて築かれており、天に届くほど高い。
 あまりに高すぎて、天辺は宇宙の天蓋てんがいに溶け消えてしまっている。
 苔むした外壁に蔦や木の根が絡まり、人工物というよりは、幾星霜いくせいそうを経た神々の廃墟のようだ。
(この塔は一体何? ランティスさんはこの塔を知っているの?)
 考えているうちに塔は蜃気楼のように消え去り、今度は、丸い黄金が視えた。
 数百枚はあろうかという黄金の山。その一つ一つに、異なる聖刻文字ヒエログリフが意匠されている。
 黄金が落ちていく……枯れた樹々のなか、赤茶けた幹へと――違う、手だ。
 糜爛びらんした屍体が、蠢動しゅんどうしている!
(怖い!)
「んぅっ」
 咄嗟に離れようとしたが、それを阻むように、後頭部を掌に包まれ引き寄せられた。
 もう視たくないと思ったが、精神感応テレパシーは途切れて、悍ましい映像もかき消えた。
 それでも唇は離れていかない。怖くないよ、といい聞かせるように、触れあわせては離れてを繰り返す。
 啄むような、優しいキスをかわすうちに、恐怖も薄れて、七海の躰から強張りが消えた。すると、再び精神感応テレパシーの波動が伝わってきた。
 一瞬身構えたが、恐れていたような映像は共有されなかった。
 むしろ、とても美しい景観が眼裏まなうらに拡がった。
 仄碧く燦めく、美しい大樹……さわさわと梢が揺れるたびに、神秘的な碧い粒子を漂わせている。
 そんなはずはないのに、遠い昔にどこかで見たことがあるような、奇妙な既視感を覚えた。
 夢見心地に茫然と、とりとめのない臆測に支配されたが、不意に、映像が切り替わった。
 扉だ。
 縦に横に、斜めに、宙に浮いている、幾つもの扉。
 階段に設置された、だまし絵のような扉。
 石の扉、巖の扉……小さい扉……巨大な扉……扉ばかり。
(どうなっているの? ……ランティスさんの見た光景を、私は見せられているの?)
 長いキスに息が苦しくなった時、ランティスはキスを終わらせた。名残惜しそうに、ちゅっと上唇を吸ってから顔を離す。
 目をあわせることができず、七海は顔を俯けた。空気は肌寒いくらいなのに、躰の奥に熱気がこもっている。
「……ナナミ」
 彼は手を伸ばし、真っ赤になっている七海の頬を撫でた。濡れた唇を親指で優しくぬぐわれて、心臓が宙返りした。理性的に情報を整理したいのに、ちっともまとまらない。
(ああもう、どうすればいいの?)
 拍動が烈しく鳴っている。キスに煽られた躰は熱く、細胞の一つ一つが覚醒めていくように感じる。
 彼が、顎に指をかけて顔をあげさせようとするので、狼狽えて視線を泳がせてしまう。胸を押しやろうとしたが、濃紺の布地に掌が押しつけられるだけだった。
(鼓動が速い……)
 掌に、どくどくと脈打つ鼓動を感じる。
 今のキスで、彼も同じように熱を帯びているのだと思うと、密かな悦び、奇妙なむず痒さを覚えた。
 信じられない。会ったばかりの、それもこんなに綺麗なひとと、あんな風にキスをするなんて。いくら夢とはいえ――違う、こんなに熱を伴うキスが、夢や幻であるはずがない。
 現実だ。
 はっとして、七海は顔をあげた。碧氷の目の奥に、理解と肯定の光が宿るのが見て取れた。
(夢じゃない。私も、ランティスさんも、ここにいるんだ)
 現実を意識した途端に、様々な感情が錯綜した。
 不安と恐怖、よるべなさ、キスの余韻、羞恥、次から次へと沸き起こる疑問。
 形状を取り戻した己の掌を見つめて、七海は口元を震わせた。混沌とした恐怖が突如心に蘇ると同時に、もう大丈夫だという安堵もこみあげて、目頭が燃えるように熱くなった。
「ぅ……っ」
 こらえようもなく、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。
「****……ナナミ、****」
 ランティスは手を伸ばし、七海の腕を優しく撫で擦る。
 慰められながら、七海も平静を取り戻そうとするが、どうしても涙をこらえることができなかった。両手が細かく震えている。
「怖かった、すごく、怖かった……っ」
 心と躰がこわれてしまうかと思った。二度と元の自分に戻れないかもしれないという、かつて味わったことのない、言葉ではいい尽くせないほどの恐怖だった。
「ナナミ、シィ……*******」
 すすり泣く七海を、ランティスは胸のなかに柔らかく抱きしめた。
 一瞬離れるべきか迷ったけれど、七海はすぐに力を抜いて、優しい抱擁に身を委ねた。彼の胸の鼓動に、心を慰められながら。