DAWN FANTASY

1章:心臓に茨、手に角燈 - 2 -

 巌の扉をくぐり抜けた一刹那いちせつな、重たい音を響かせて地面にめりこんだ。
 世界はまったき暗闇にとざされる。
 冷気のよどんだ圧倒的暗闇に、七海は慄然りつぜんとなった。
 何も見通せない暗黒の眺望に、何かが蠢いている。
 恐怖?
 絶望?
 不気味に蠢いて、蠢いて、蠢いて、足元に這いあがってくる。
 夢のはずなのに真に迫る恐怖感があり、心臓が波打った。またしても、茨にいましめられたような激痛がはしる。
「いったぁ……ひゃぁっ!」
 唐突に躰を縦抱きにされて、何も見えない七海は、自分を抱えている男にしがみつくほかなかった。
 夢とは思えぬ確かな感触に疑問を抱くが、追求する前に、光が生じた。三日月形をした杖の尖端が、仄碧い光を放っている。
「わぁ……」
 光源はどうなっているのだろうと疑問に思った矢先、今度は、琥珀色の光が辺りを照らした。
 どこから取りだして、どのようにけたのか不明だが、彼は、硝子の角燈ランタンを掲げていた。
「あれ……?」
 柔らかな琥珀の光に見覚えがあった。先程彼が、掌に浮かべていた光に似ている。
 見つめているうちに、恐怖と苦痛が和らいで、鼓動が鎮まっていくのを感じた。
「*****」
「え?」
 ずいっと角燈ランタンを顔に近づけられ、七海は戸惑った。
 角燈ランタンと彼の顔を見比べながら、真鍮のを掴む優美な指に、蚕白オパール、紅玉、碧玉、瑠璃ヴァイドゥーリャといった多様な宝石の指輪を嵌めていることに気がついた。いずれも明かりを反射して、壁に虹色を生みだしている。
 おずおずと受け取ると、正解だったようで、彼は視線を正面に戻した。
 七海は、よく磨かれた真鍮の角燈ランタンを、彼がしたように高く掲げてみた。淡い琥珀に照らされた巨大な空間を見回し、肝が冷えた。
「広い……」
 静まりかえった巌壁のなか、小さな呟きが、こだまして聴こえる。
 想像を絶する、途方もない、圧倒されるほど巨大な空間。
 空気はひんやりと冷たく、巌壁に沿った手すりのない細い階段が、暗闇のなかに溶け消えている。
 通路の幅は二人が辛うじてすれ違える程度の狭さで、脚を滑らせたら一巻の終わりだ。後ろを振り向くと、どういうわけか、間一髪でくぐり抜けたはずの巨大な巖の扉がなかった。
 上にも下にも、涯際がいさいもない階段が続いている。
 彼が階段を降り始めたので、七海は咄嗟に、空いている方の手を男の肩に回した。その確かな感触にはっとさせられる。
 掌に感じる繻子やそのしたに隠された筋肉の感触、ひんやりとした巌の匂いといった情報が、怒涛の勢いで襲いかかってきた。
(本当に夢なの?)
 五感は違うと囁くが、暗闇の大瀑布だいばくふを覗きこむと、落ちる夢の続きを見ているような気になる。
(私……何か変だ……)
 現実と妄想の区別に囚われそうになった時、彼は脚をとめて、七海を見つめた。学者が奇妙な仕掛けを紐解こうとしているかのように、熱心に、じっっと観察するような眼差しで。
 図らずも見つめあい、宝玉のような碧い虹彩に、銀色の斑点が浮いていることに気がついた。長いまつ毛も銀色で、照明に誇張されて、たえなる陰影を頬に落としている。
「**********?」
 美貌に魅入られていた七海は、頬が朱くなるのを意識しながら、腕のなかで一揖いちゆうした。
「あっ、すみません……あの、ありがとうございました。おかげで、助かりました」
「*******……ウテ・カ・エリキサ?」
 先程から、彼が何度か口にしている言葉だ。優雅な響きだが、一体どういう意味なのだろう?
「すみません、判りません……あの、私は笹森七海といいます」
 七海は自分の胸に掌をあて、七海、と繰り返した。
「ナナミ」
 心地いい声に名前を呼ばれた瞬間、眩暈にも似た歓喜が七海を貫いた。嬉しくて、胸が高鳴り、鼓動は痛いほどに響いている。
(なんで私、こんなに嬉しいんだろう?)
 美しい碧色の眸が、七海を見ている。彼の視界に映っていることを強烈に意識しながら、七海はほほえんだ。
「はい、七海です……あの、貴方は?」
 自分の胸にあてて名前をつぶやいた後、控えめに彼を指さした。
「ランティス」
「ランティスさん?」
 訊き返すと、彼は静かに首肯した。
 ランティス。彼によく似合う、綺麗な響きだと思う。その一方で、奇妙にも感じる。ランティスという名前に、少しも聞き覚えがないのはどうしてなのだろう?
(夢、だよね……?)
 何度も疑いそうになるが、このように摩訶不思議な場所にありながら、彼は杖を持っているだけで、荷袋の類は持っていない。見るからに軽装で、まるで近所に繰りだすような格好というのは、いくらなんでも不自然だ。
 第一、夢でなければ困る。
 ここが何処かも判らず、言葉の通じない、見知らぬひとと二人きりで、身分証もお金も持っておらず、おまけに部屋着姿で、素足なのだ。
「すみません、あの、ここは何処でしょう……?」
 これは夢なの――そう自分にいい聞かせながら、訊かずにはいられなかった。
「****」
 返事をしてくれたが、やはり意味は判らない。
 ランティスは視線を正面に戻すと、再び階段をおり始めた。
「あ、待って。もう大丈夫ですから、おろしてください」
 七海は慌てていったが、ランティスはちらりと視線をよこしただけだった。
 小さい子供にするならまだしも、小肥こぶとりの七海ではくたびれるだろう。もう一度おろしてといったが、彼は小首を傾げただけだった。
 七海は諦めて身じろぐのをやめた。視界も足場も悪いなか、下手に注意力を乱しては命が危ない。
 話しかけることもはばかられ、会話が途絶えると、無言の静寂にたされた。
 暗闇のなかを黙々とおりながら、なんとなく七海は、壁に掌を押し当てていた。
 高所恐怖症というわけではないが、手すりのない細い階段は、それも奈落に続いていくような階段は恐ろしくて、壁を感じていたかった。
 よく見れば、壁面は整形された石で構築されており、それらの一つ一つに複雑精緻な装飾――古代を思わせる聖刻文字ヒエログリフや精巧な胸像が掘られていた。
 愛用している鼈甲べっこう縁の眼鏡がないから、今まで壁に模様があることに気がつかなかった。
 まさか、この巨大な壁一面に、装飾されているのだろうか?
 だとしたら一体、どれほどの時間を費やして築かれたのだろう……
「痛っ」
 壁のざらついた表面で、指先を痛めてしまった。指先に赤い線が走っている。
(血?)
 じんと熱をもった痛み、血の赤さに、七海の意識は奪われた。
「****」
 ランティスは、七海の手首を控えめに掴んだ。重量のある七海だが、それでも彼の長い指は、七海のむちっとした手首を軽々と掴んでしまえる。
「****……******」
 彼は話しかけるのとは違う、歌うような、まじないめいた文句を唱えた。
 その不思議な韻律は、星の煌めきを発し、七海の指先を金色の光が包みこんだ。
 温治のような心地良さが指先から掌全体に拡がっていき、神秘的な細かい光の粒子は、次第に小さくなり、やがて消えた。
「あれ……?」
 めつすがめつ指先を眺め、七海は無意識に身震いした。傷が治っている。一体どうやったのだろう?
「あ、ありがとうございます……」
 神妙な心地で一揖いちゆうすると、彼も頷き返した。かと思えば、腕から七海をおろして、壁際に押しつけた。覆い被さるようにして見つめてくる。
「な、何ですか?」
「*****、*************……」
 再び、まじないめいた文句を唱え始めると共に、空気が揺らめいた。
「えっと……?」
 言葉の意味は判らないが、その韻律はとても不快で、七海は息苦しさに顔を歪めた。
「あの、やめてください……その言葉、なんだか怖い」
 両手で耳を塞ごうとしたら、手首を掴まれて、強引に剥がされた。聞きたくないのに、力ある呪文が液状になって耳の奥へと流れこんでくる。
「すみません、もういわないでください……っ」
 目を見つめて懇願するが、ランティスは真剣な表情で、滔々とうとうと呪文を紡いでいく。
 分節的な言葉の形であることしか判らないのに、心底恐ろしくてたまらなくなった。
「う……うぅ、厭……やだってば! “ヤ・メ・ロッ”」
 唇から、超低音の、割れた耳障りな声が飛びだした。
 とても人間の声帯から発せられたとは思えぬ歪んだ音響だったが、七海は気がついていなかった。無我夢中の死にもの狂いで暴れて、拘束から逃れた瞬間、足場の悪さを思いだした。躰が宙に浮きあがる。

“ナ・ナ・ミ……”

 深淵に呼ばれた気がした。
 どこかで聴いた事があるような、女性の声……奇妙な懐かしさに囚われて、束の間、落下の恐怖を忘れた。
「ナナミ!」
 ランティスは手を伸ばして、七海の腕を掴もうとするが、角燈ランタンが邪魔をした。
 琥珀の明かりを見た途端に、七海は我に返った。
「っ、ひあぁ――ッ!」
 落ちる――悲鳴と共に底なしの深淵に落ちていく。角燈ランタンも手離してしまい、明かりが遠ざかっていく。
 死ぬ。
 今度こそ奈落のてに落ちてしまう!
 絶望的恐怖のなか、霊妙神秘が起こった。
 爆ぜる火花のような金色の粒子が舞いあがる――目が回って、胸が悪くなるように世界が傾いた。
 心身の平衡が崩れる。
 既視感のある混沌、身に覚えのある、不思議な霊的感覚に突き落とされた。
 漠然とした思考の海に攫われるような――広漠こうばくの意識のなかで、強く、自分を意識する、鳥瞰ちょうかんする感覚。
 脳裏を、映画のフィルムを高速で見ているような、過去、現在、未来の映像が走馬灯のように駆け巡る感覚。
 落ちる夢と同じで、この混沌とした空間に突き落とされると、必死に均衡を取り戻そうと焦ってしまう。
(戻れない、どうしてッ!?)
 学生の頃から経験しているが、いつもならすぐに自分を取り戻せていた。それが今はできない。
 躰を保てない・・・・・・
 掌が、肌色の流砂のように崩れていくのを見、七海は恐慌に陥った。
「ひぃっ、やだ、厭だっ」
 粒子細分化された掌は、形状を取り戻しては不定形に溶けてを繰り返す。
「ナナミ!」
 いつの間にかランティスの腕のなかにいたが、七海は消失と再生の間で宙吊りになって、完全にパニック状態に陥っていた。
「ひ、かはっ……あ、あぁ゛……っ」
 何か、とてつもなく禍々しいものが、肉体と魂を乖離かいりさせようとしている。
 酷い頭痛と眩暈に吐き気がする。気が狂いそうになった時、唇を塞がれた。